傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

向こう側からの会釈

 死者が私に向かってほほえむ。私は、それに慣れている。ときどきほほえみをかえす。彼らはとても遠いところにいるから、とても小さく見える。消そうと思えば私はそれを簡単に消すことができる。けれども、そうしない。
 なんの不思議もない。ネットワーク上に世を去った人のアカウントが残っているだけだ。多くの人が自分の姿をアイコンにする。ウェブ上のさまざまなサービスの上にみんなの姿が並んでいる。今の姿と大きくちがう人、ずっと同じアイコンの人、誰だか覚えていないような人。ずっと連絡していない人は、生きているか死んでいるかもほんとうはわからない。
 私のアカウントが接続している相手のなかで、はっきりと死んでいるのはふたりだーー今のところ。くっきりした笑顔がひとつ、ほとんど人物が特定できないぼやけた全身像がひとつ。知った人をなくしてはじめてそれを見たとき、首の下のほうに氷を当てられたような感触がした。不意打ちだからか、遺影よりも強く、不在の匂いがした。受け止めきれないものを見たり聞いたりすると、私は、心臓より先に首の下が反応する。冷たいような、あるいはごく細い針を複数さしこまれたような、ごく具体的な感触。場所もはっきりしている。背中側の首の下、上から五番目の頸椎。
 そのとき私は反射的にアイコンを非表示にしようとした。それから、やめた。どうして私は、親しくしていた人の、これまで幾度となく目にしてなんとも思わなかった小さな写真を、消したかったのだろう。そう思った。よくわからなかった。もう一度、アイコンに目をやった。彼は笑っていた。私も笑いかえした。そのようにして彼らは私の日常に組みこまれた。
 彼らは死んでいる。今のところ、ふたり。彼らが私にメッセージを送ってくることはもうない。当たり前だ。死んでいるのだから。通信はこの世の人のものだ。けれども、死んだ人は私にとって、はじめからいなかったのとはちがう。私は私の目を通さなければ世界を見ることがなく、私の耳を通さなければ世界を聞くことがない。そして私のなかには死者たちがいる。若くして私たちの前から毟り取られるように去った、死者たちが。だから、私の世界に死者がいるのはあたりまえのことだ。冥福を祈るとか、霊魂だどうだとか、そういう話ではまったくない。私はつまらない科学の子で、死んで焼いたら灰のほかに残るものがあるなんて思えない。けれども、私の世界は私から開けているのだから、私の内面に残された人の影は、私の見えかた、聞こえかた、感じかたに影響する。そういう話だ。コンピュータやスマートフォンにあらわれる死者の姿は、その感覚によく似合う。
 十代のころ、死者は遠いものだった。今はそうではない。年をとるごとに死者は、私にとって親しいものになった。私から隔絶した冷たく恐ろしい化け物ではなく、カーテンの向こうにいる当たり前の存在、気がついたらきっと私もそこにいるであろう身近な場所の住人として、死者は私のそばにいる。
 死が怖くなくなったのではない。今でも、死ぬのは怖い。一ヶ月に一回は真剣に死について考え、呻吟したあげく「わからない」という何百回目かの仮の結論を出し、怖い怖いと震えている。大人になれば平気になるわよ。むかしそう言われた気がするけれども、そんなの嘘だった。私はいまだって、死の気配を感じている。頸椎の上から五つ目の骨のあたりで。恐れおののくのが月に一度で済んでいるのは、仕事だの人間関係だのにかまけ、がつがつ食べて本を読んでぐうぐう眠り、眠れなければ薬を飲み、それでもって忙しい忙しいと言って目の前にある重要な問題を置き去りにする、のんきな大人になったからだ。適応したともいう。
 それでもときどき、死について考える。ほんとうは大人になっていないのかもしれない。遠い日の誰かの声が脳裏で再生される。ーー大人になったら、平気になるわよ。
 私は彼らのアイコンを見る。そもそもどうして死んじゃあいけなかったんだろうかと、そんなふうにも思う。怖いから死にたくないけれども、会えないのがつらいから死んでほしくなかったけれども、怖いのと私の都合のほかに、死ぬのがいけない理由は見つからなかった。だいいち、みんな死ぬ。私のいちばん年長の友だちは七十三で、いちど倒れた。しょうがねえや、と彼は笑った。そりゃあ死んだり死にそうになったりするさ、トシだからな。トシじゃなかったら、いけませんよね。私がそう訊くと、もう一度わらって、トシじゃなくても、しょうがないときはある、と言った。
 スマートフォンをみる。ちいさなアイコンをはさんだ向こう側に、彼らはいる。死ぬのはいけないことではない、と思う。私はこれからも彼らのアイコンを非表示にすることはないだろう。

あたりまえの朝の通勤

 電車の席に座っている。隣の男が頭を強く掻く。視界の端にこまかい何かが落ちてくる。私は身を縮める。できるだけ満員電車に乗らない人生を選んできたけれど、ときには他者の都合に合わせなければならない。目の前には人が詰まっている。立錐の余地をぎりぎり確保して、各自バランスをとっている。電車が揺れ、立った錐の群れがよろめく。私は身を縮める。
 隣の男は頭の全面を掻き終えたのか、右手で首筋を、左手で袖を捲った右腕を掻きはじめる。視界の端にそれが映る。奇妙に秩序だった動作だ。余すところなく全面を順繰りに掻いているかのようだ。もちろん私はその男が真に全面を掻いているか確認してはいない。確認したらたぶん吐き気に耐えることができない。けれども反対側の隣に顔を向けることもできない。そこにはこぼれ落ちそうな目を見開き(眼球が球であることがはっきりとわかる)、その眼の周囲を黒くかこみ、ひとつの塊のように厚い睫毛をばさりばさりと羽ばたかせ、身じろぎするたびに白粉かなにかの粉を落とし、古いトイレの消臭剤みたいなにおいを振りまく女がいるのだ。
 私は自分の感覚を遠ざける。五感が私からすこし離れる。つらいときに発動させる得意技だ。彼らは私にとって、それほどまでに不快だ。けれども、たとえ電車を降り彼らのいないところへ行っても、私は彼らを罵倒することはできない。だって、私も皮膚を掻くからだ。からだのどこからどこまでは電車のなかで掻いてはならない、何秒以上は掻いてはならない、などという決まりはないからだ。私の肌にもファンデーションはついているからだ。それが隣の女の皮膚から落ちてくる粉とどうちがうのか、どこからがだめなものになるのか、説明なんかできないからだ。
 女はしげしげと手鏡を見、おもむろに小さなスプレー缶を取り出して、その山盛りの、なぜだか白髪交じりの髪にブシュッと吹きつけた。つるつるした顔なのに白髪ははっきりとわかるほどに、ある。刺激臭が飛び、私は息を止めるタイミングが遅れたことを悟る。なんて鈍いのだろうと思う。息をする間合いを誤るなんて。私はあらゆる努力をしてくしゃみを最低限にとどめる。ぐ、と音がする。
 男の肘が私の脇腹をがさがさ這い回る。抗議をこめて目だけで見れば、男はおそるべき集中力で奇怪な姿勢を保ち、裾を捲り上げた脛を掻いている。私はぞっとする。抗議なんかできない。私はさらに身を縮める。俯いた視界に、両側から得体の知れない粉がちらちら落ちる。せいいっぱい竦めた足の隙間に、立っている人々の靴が押し入ってくる。靴はどれも武器のように硬い。それらは徐々に私の足を圧迫し、ときに鋭くぶつかる。しかし足を上げてはいけない。どんなに痛くても。いちど上げたら二度と降ろすことはできない。二度と?そういえば、駅にはまだ着かないのか。私は老いた蛹のように身を縮め、もはや腕時計を見ることもできない。私は次の駅についてのアナウンスを待つ。それは来ない。まだ、来ない。
 私は眼球だけを動かす。立っている人々はみな、憎悪の眼を座席に向けている。私は目を逸らす。自分と彼らの陣地争いの結果を見つめる。私は防戦一方で、それでも両足を床につけている。ごめんなさい、と言いたくなる。だって私は、電車に乗るのに彼らより多くのお金を支払っているのではない。彼らよりすぐれたところもたぶんない。だから彼らが不当だと感じるのは当然のことだ。ごめんなさい、と私は、また思う。でも言えない。言ったら最後、私は立たなければならない。立って錐のようにつま先を立てて自分の場所を確保しなければならない。
 そんなことは私にはできない。私は対面に立つ人々からどれほど憎まれ、足を踏まれ、両側からの悪臭に晒され、身動きとれずに不衛生な粉末をかけられようとも、ここにいるしかないのだ。私は、ここにいたいのだ。女が私に眼を向ける。その眦はくっきりと三角形に、赤い。赤い?白目や黒目ではなくて?
 それがむきだしの粘膜だと気づいて私は、何度目かの悲鳴を呑む。この人は目尻を、見てわかるほどに切り開いたのだ。私のしているささやかな化粧と、おそらくは同じ理由で。すなわち「そのほうが容姿がよく見えると思う」という理由で。瞳孔は大きくのっぺりと黒く、それでも上下に空白がある。女の目はそれほどまでに切り開かれ、見開かれている。ぞっとして反対側に目がいく。男はいかにも贅沢な布地のスーツを着ている。男はうす赤い顔をしている。そうして爪を立てた両手で、ゆっくりと、顔を掻きはじめる。額。こめかみ。眉。眉間。まぶた。

夜逃げの部屋

 何年かごとに、他人あての郵便物を受け取る。開封はしない。私のじゃないからだ。受け取り拒否の意思を示して郵便局なりダイレクトメールの発行元なりにかえす。
 ひとり暮らしでいつも賃貸で引っ越しをよくするから、引っ越してすぐは前の住民あてのなにかが届くことは珍しくないのだ。多くはダイレクトメールで、郵便局や個人の連絡先には引っ越しの届け出をしていても、ダイレクトメールの送信元にはあまりしないからだろう。私だってしていないところはあって、だから前の部屋には私あての郵便物がきっと届いている。
 それにしてもいまの家には多い。入居して契約時にメモした番号を見ながら数字錠をまわし、郵便受けの扉を開くなりどっと落ちてきた。多いなあと思って検分すると、携帯電話の会社から何通も来ていた。三つも四つも電話を持つというのはどういうことかと私は考えて、三秒で結論を出した。商売ものだ。名義貸しか、誰かに与えていたか。
 送り返してもすぐに現住民が把握されるのではない。請求書在住だとか、赤く記されたものが増えた。携帯電話の会社だけではなかった。私あての郵便物にまじってやってきたものをせっせとよりわける。送り主の会社名を検索する。「小河原さん」という、前の住民への宛先を見ながら。
 携帯電話。クレジットカード。ローン。債権請求代行。社名が徐々に変わっていき、何度かの社名検索ののちに、私は気づいた。「小河原さん」は借りられるだけ借りたまま、ゆくえをくらましたのだ。
 この部屋の契約前、相場よりやや安く、審査もやけに早かったので(なにも審査していないのではないかと思った)、事故物件ではないですよねと不動産屋の担当者に確認した。事故物件ではありませんと、担当者は断定した。私の住処を二度紹介してくれた、なじみの人だ。事故物件ならちゃんと告知しなければいけないんです。でも事故物件の要件を満たさなくても、ちょっとした背景のある物件はあります。幽霊とかではありません。実害があればおすすめしませんよ。
 幽霊なら見てみたいからいいですよと答えて判を捺して入居した。幽霊は出なかった。ただの(?)夜逃げだった。「小河原さん」はいまごろ無事でいるだろうかと私は思った。
 私は引っ越しをするとき、入居前に詳しく部屋を調べて写真を撮ることにしている。たいていはクリーニング後だけれど、今の部屋はクリーニングどころかちょっとしたリフォームをした直後のように見えた。新築でもないのに、誰かがいた気配が不自然なまでにないのだ。よくよく調べると床を二センチ、それから扉の端を三センチ程度、同色のパテで埋めて直した跡があった。壁紙は完全な新品だった。壁紙は数年で替えるからタイミングの問題だけれども、築十年弱でそんなにあちこち直すものだろうか。台所のコンロのふちにわずかな凹みがあるのを見つけるにいたって、なんとなく察した。この部屋にはなんらかの暴力的な過去があるのだ。たとえば衝動にまかせて住民が暴れたというような。
 そんなわけで私はなんとなく小河原さんを心配していた。生涯会うことはないけれど、暴力とおそらく返す気のない多くの借金に囲まれてこの部屋にいた人。わりとろくでもないことをしていたような気がするけれども、ろくでもないことをしたって、できれば反省して元気で生きていてほしい。
引っ越して半年が経ち、久しぶりに小河原さんへの郵便物を受け取った。はがきの表面を先に見て、おかしいと思ってひっくり返したら、私あてではなかったのだった。
 お元気ですか。携帯も何も通じないので手紙を出します。田舎に帰ると言っていたのでこの手紙はそっちに送ってもらえると思います。連絡してごめんね。わたしは元気です。
 元気です、のあとに空白があった。あとはなにもなかった。裏を返すと私の住所と、小河原さんの名前があった。それからちいさく、このはがきを書いたのであろう人の名前があった。差出人の住所はなかった。だから郵便局も私もこれを書いた人に「住所がちがいますよ」と言えないし、「小河原さんが元気かどうか、あなたには知ることはできないんです」と教えられないし、はがきを返すこともできない。その人はたぶん、返されたくないのだろう。だから名前だけを書いたのだろう。小河原さん、と私は思う。この人、あなたのこと、好きみたいだよ、まったく、罪な男だねえ、もう借金とかしないで、田舎で元気に暮らしてください。

悪い魔術

 この人たちは今、機嫌が悪い、とわたしは思う。よくはわからないけれど、少なくとも上機嫌ではない。直前の会話をふりかえる。何か気を悪くする要素があっただろうか。あるいはもともと腹を立てていたから絡みにくい返答をしたのだろうか。
 わたしはさらに会話をさかのぼる。そうしながら目の前の上司の仕草をスキャンする。ティーカップを置くとき、本来の位置からずれたところに置いたようで、カップがソーサーの溝を滑り落ち、かたんと音をたてる。おお、と上司がつぶやく。なぜだか周囲を見渡し、しつれい、と言う。わたしはあいまいにほほえむ。なにか言ったほうがよかっただろうかと思う。いや、ここはだまっているべきだと決める。隣の先輩の気配をうかがう。先輩にリードしてもらうほうがいい。
 先輩はふう、とため息をつく。マキノさんってしょっちゅう飲み物こぼしてませんか。こぼしてない、と上司がこたえる。少なくとも今は。ほら、ソーサーはきれいです。セーフですよ。よくこぼすかどうかについては、成人が飲み物をこぼす頻度についてなんらかの標準的な値をもってきてくれないと判断できないことです。先輩は首を横に振る。そんなもの要りません。どうみてもとびぬけてこぼしています。
 この先輩はどうしてこんなにずけずけとものを言うのだろうとわたしは思う。あははと上司が笑い、わたしは身を縮める。ずけずけものを言うのに、言われた人はどうして楽しそうにしているんだろう。それともほんとうは腹に据えかねているのだろうか。わたしだけが気づいていないのだろうか。
 上司が私の名を呼ぶ。はい、とわたしはこたえる。声が大きすぎた。それに反応が大きすぎた。もうすこしゆったりとこたえるべきだった。わたしはそう思い、正しい口調の返答を頭の中で繰りかえす。はい。はい。はい。——はい。
 あのですね、そんなに、人の話をまじめに聞かなくて、いいですよ。上司が言う。私は返答に困る。えっと、と上司がつぶやく。次のせりふを考えるみたいに目を泳がせている。会社の上司というのはもっとちゃんとした人だと思っていたのに、この人はいまいち冴えない。猫背だし、せりふや動作が全体にもさっとしている。ときどきカーディガンが裏表だったりする。わたしだったら話の途中でこんなに人を待たせることはできないと思う。でも上司は平気だ。好きなだけ時間をかけてから口をひらく。
 えっと、つまり、あなたがどういう反応をしようと、世界にはたいした影響がないってことです。今のあなたみたいな敏感さは、だいじなプレゼンだとか、そういうときにだけオンにすればいいと思います。いつもそんなにちゃんとしていたら疲れるでしょうに。都度「正解」を探りながら会話していやしませんか。
 そんなの当たり前だとわたしは思う。あいまいにうなずく。ふつうはそうだと思う。いえいえ、と上司は言う。日常会話に正解なんてありません。てきとうにしていていいのです。あなたはただでさえきちんとしているのだから、ふだん気にすべきことはほとんどありません。
 他人が自分の振る舞いに左右されるというのは、妄想ですよ。子どものころはだれでもそういう妄想を持っています。魔術的思考というやつ。道路の白線を踏んで歩いたり、小石を家まで蹴っていったりしませんでしたか。そしてそれを誤るとたいへんなことが起きると信じていたことは?
 子どもはたいていの場合、そういうかたちで世界と自分をじかに接続しています。大人になっても、たとえば恋愛感情なんかが原因で、そこに戻ることがあります。嫌われた?とか、すぐ思う。自分があんなことをしてしまったから、こんなことを言ったから、って。相互に強く影響すると思いたいからかもしれません。でも、実際のところは、何をしたから嫌いになるという場合のほうがすくないんですよね。単に飽きたり、勘違いがとけたりして嫌われるんです、たいてい。あるいは嫌われない。
 恋愛ならね、ほら、頭がおかしくなるものですから、わかります。でも誰に対してもオールウェイズ「嫌われる」「悪く思われる」ってびくびくしてるのはへんです。大人になって魔術的な世界にいる人はたいてい、悪い魔法だけが効くと思っている。いつも正解を探り当てないと悪いことが起きると思っている。でもそんなことはありません。だいじょうぶですよ、安心してください。
 嘘だ、とわたしは思う。そうかな、とわたしは思う。なんと答えるべきか考える。ほら、また考えてる。先輩が言って、わたしの肩をたたく。わたしはびっくりしてへんな声を出す。どうフォローしようかと考えているうちに、ふたりは笑いながら席を立ってしまう。

正しさより必要なもの

 ぜったいに病院になんか行きたくないと彼女は言う。ため息をつく。どうして自分の意思に基づいた行動を邪魔するのかと尋ねる。死ぬからだ、と私は思う。このままではあなたが、あなたを必要とする小学生の子どもと夫と老いた両親を残して、死んでしまうからだ。そして病院で治療を受ければそこそこ健康なからだを維持できる見通しが高いからだ。
 そう思う。でも言わない。彼女にとってそれは真実ではない。まったくの嘘っぱちだ。彼女は真実を知り、それについてよく学び、正しい生活をおくり、その結果、多くの人に賞賛され、教えを乞われている。そうして私はいろいろなものに騙され、また怠惰であるために、ろくな人生を送っていない。でも私が特別に罪深いわけではない。多くの人はそうなのだから。ただすこし愚かなだけの、気の毒な人なのだから。
 彼女にとって私はそのような人物だ。だから私が何を言っても耳をかたむけてはもらえない。そんなことは十年前からわかっていた。そのころは彼女もまだ私を見捨ててはいなかった。諭してやればわかるだろうと思っていた。けれども私は彼女の話をまったく理解しなかった。いいのよ、と彼女は言った。寛大な顔をしていた。わからない人もいるわ。
 彼女は少女のころから、添加物だらけの食べ物や残忍な環境で生産される食肉を悪だと思っていた。うつくしくていねいな暮らしをすべきだと思っていた。家庭に入ってからはたいていのものを手作りし、環境問題の勉強もした。母親になり、自然派の育児をこころざしてまもなく、彼女が感じたり考えたりしていたことをしっかりと説明してくれる人に出会った。彼女は確信した。自分はずっと正しかったのだと。
 だから彼女はこの世のことわりを知っている。この世のエネルギーがどのようなしくみで流れているか知っている。誤った食生活がいかに人々をそこなっているかを知っている。彼女はよく学び、しっかりと実践した。家庭を第一にしながらも、乞われて正しい料理を教え、健康についての相談にのり、先生と呼ばれていた。
 私にいわせれば彼女の信奉する理論とやらは完全な妄言だ。玄米や菜食や少食はふだん飽食な人が取り入れるから「ヘルシー」なのだ。投薬や予防接種を拒否する理由は何度聞いても理解できなかった。私が肉食や飲酒でからだに大量の毒をたくわえ、いずれ病気になるにちがいなく、不健康に肥満していると彼女は言った。私の体重を聞き出して計算してみせ、BIM19を超えているなんて恥ずかしくないのかと呆れた。私は肥満ではなく、健康診断でも引っかかったことがない。彼女は栄養失調ではないかと思う。子どもは給食と父親の与えるもので、父親は自分で、栄養バランスを整えている。彼女には言わずに。
 ねえ、と私は言う。あなたの正しさを理解しているお医者さんを見つけたの。自然派の治療法と自分の仕事を車輪の両輪ととらえて、害のない範囲で処置をするのですって。あなたが学んだ塾の先生もお墨付きを与えているの。私、叱られちゃった。なんにもわかってないって。きちんとした生活をしている人をよく診ているから、私みたいな生活をしてる人間が行くと腹が立つみたい。
 もちろん、嘘だ。その医師は妄言を信じて根拠のない「治療法」に頼って亡くなった患者のことを忘れず、そのような患者をまずは頭から否定せず医療につなげ、命だけは救いたいと考えているのだという。彼女が信じる「正しい生活」を推進する団体も、その医師については認めていた。標準的な医療を全否定して信者(とは彼らは言わないが)におおっぴらにばんばん死なれても困るという商売上の理由だろうと私は思う。
 彼女は半月前、意思表示が困難になるほど体調を崩して強制的に検査を受けさせられた。その結果を受けて夫と両親が彼女を説得したが、聞き入れられることはなかった。だから私の言うことなんか聞かないと思う。けれども、彼女の正しさを担保している人々が認めているから、行くかもしれなかった。彼女たちの「お手当て」に気のせい以上の効果はない。彼女を否定しない人のところに行って、それで苦痛が減れば、継続して治療を受けるかもしれない。
 彼女が伏せっている部屋を出る。大きくため息をつく。二十分かそこいらで、ひどく疲れていた。彼女が病院に行きますように、と思う。助かりますようにと思う。私だって病気になってひどく辛かったらどんなばかみたいな「治療法」にだってすがると思う。彼女もそうであってほしいと思う。私はみずからの信じる正しさに殉ずることなんかできない。私は嘘をつく。私は人を騙す。私は愚かで一貫性なんかない。

生存率向上のための要件

 マキノさんお金あまるでしょう、この歳になると。うん、ちょっとだけ余る、若いころと生活がそんなに変わらないからかな、家賃をすこし上げたくらい。そしたら差額が余る、と。そう、意識して切り詰めてるわけでもないんだけどね、根が貧乏性なんだと思う。身についた貧乏性。そう、身についた貧乏性、なにも考えずにいたら、たとえば魚だと、鯵と鯖と鮭のローテーションになる、あと季節のもの。つまりマキノさんには一人前あたり二百円以上する素材の選択肢があんまり見えなくなるフィルターがかかってるのか、貧乏性フィルター。たぶん、それと手間暇かかる料理を避けてる。あはは、ずぼらフィルターもかかってるんだ。
 そう、根本的に貧乏性でずぼら、こないだ暇だったから、えっと、休日が一日あいてて、あと気持ちが暇っていうか、刺激を求めている感じ、だから隣町の立派な魚屋に出かけて平目のいいやつを買った。えっ、平目で心が暇じゃなくなるの。そりゃあもう、どきどきするからね。よく考えろ、外食だとそれくらい平気で遣うだろ。それはそれ、これはこれだよ。
 そのアンバランスはなんだろう、引っ越しは平気でするくせに。引っ越しなんて不動産を買うのに比べたらたいした出費じゃない、賃貸には更新費用というものが発生するのだし。腰を落ち着けたいという欲求はないのか。あんまりない。北斎かよ。北斎ほどじゃないよ。
 でも僕も今もってるマンションがないとだめってわけでもないな、なにかあったら売っちゃってもいい。あ、そうなんだ。そう、だって、これがなくてはいけないというものが多ければ多いほど戦闘力が落ちるからね。戦闘力。そう戦闘力、人生の。なにと戦ってるの。なんだろう、世の理不尽とか。
 たしかに、世界は理不尽だ、だから防衛しようとして家を買ったりするのかと思ってた、とくに、守るべき家族がいる人は。うーん、それは、ちょっと偏見かな、子どもは、もちろん守るけど、両親の片方が残ってればおおむねOKだと思うし、妻なんか大人だからあした僕が消えても平気だ、えっと、悲しんではくれると思うけどね、とにかく、住処を所有していなければならないということはないよ、場合によっては、現金のほうが強いし。
 現金ねえ、それもたいしたものじゃないと思うな、あったほうがいいけど、通貨の価値は変わるから、ものに替えておいたほうがよかったってこともあるでしょうに。たしかにね、本質的には保険商品や金融商品も同じだ。私は、そういうの考えるのめんどうくさいから、持ってないや。ほんとにずぼらだな、マキノさんは。
 そうやって考えると必須のものって、私、ないかもしれない、平目どころか鯖も買えなくなっても、たいていのもの食べられるし、部屋も結局のところ屋根と壁があればいいし、最悪、地面で寝るし。それは強いな、比喩だけど、世の中には平目が食えないと嘆き悲しんでめっちゃ弱る、みたいな人、けっこういるから。いるみたいだね、私にはうまく理解できないけど。
 とはいえ、マキノさんでも、仕事は絶対に必要だろ、定期的に稼ぎが入る安定感、「世間なみ」意識がもたらす安心感、これがないとさすがに自己が揺るがされるんじゃないの。うん、仕事は必要だねえ、でも今の職場じゃなくちゃいけないとか、こういう仕事じゃなくちゃいけないというのは、ない。え、ないの。だって、私なんか、いつ取り替えられても不思議はない、私は、天才じゃないし、特別な経験や能力もないよ、いま気に入った仕事ができているのはただの運だよ、無職の危機に陥ってもわりと平気だった。
 平気なのは別の意味でまずいだろう。平気で失業保険を申請して求職活動をすればいいんだよ。そうかあ、僕は平気じゃいられない、仕事に自分をあずけている部分はけっこうあると思う、無職になったら精神的にも打撃くらうと思う。そこが防御の弱いところなんだね。うん、僕はそう、自分はほとんど何にも固執していないと思ってたけど、そんなことないな、仕事にはけっこう、執着しちゃってるな。
 それはいいことだと思うよ。そうかな。うん、大切なものがあるのは、いいことだよ、「仕事をまっとうしなければ」とか「家族を守らなければ」とか思って踏ん張れるからね、そういうのがないと、なんかやる気がないときに大波が来たら、「まあいいや」と思って抵抗しないで引っ張りこまれちゃうでしょう。「まあいいや」なんて思うかねえ。思うこともあるんじゃないかな、がんばれば助かるかもしれなくても、がんばる気力がなくって「このへんでいいか」って。

そんなものはありません

 私はつまらない科学の子なので、医療の場でもないのに血液型を訊かれると半笑いをかえす。いうまでもなく血液型は性格を左右しない。多くの場合、真実ではないとわかっていて会話のツールとする遊びなのだろう。そうであるにせよ、遊びとして幼稚だと思う。他人の性格を決めてかかってとやかく言うのは有害ですらある。どんな場面でだって、そこまでして話題をひねり出す必要はない。黙って向かいあっているほうがよほどまともだ。
 もちろんそんな考えは口には出さない。場合によっては適当に乗ったふりをする。そうしないと損をする場面があるのだ。理不尽な世の中である。もちろん心の中では「ないわー」と思っている。
 同じようにマイナスイオンで健康がどうこうというのも「ない」。こちらは他人の内面に踏みこまないけれども、背後に広がる擬似科学の薄闇にぞっとする。いずれにせよ、そんなものがないことはたしかなので、それを伝達できない場面だといささかいやな気分にはなる。

 しかし、先だって、生まれてはじめて、「マイナスイオン」を可とした。個人的に。
 今日はすみませんねえバレンタインデイなのに。日曜日の仕事中に誰かがそう言って、いいんですよとひとりがこたえた。夫には昨夜のうちにチョコレートを渡しておきました。今日はごはんをつくって待っていてくれるでしょう。いいですねえと相手は言った。理解のある旦那さまなんですねえ。ちっ、と私は思う。もちろん口には出さない。夫婦の片方が休日出勤して片方がごはんつくって待っている。そのとき出勤しているのが妻であると突然に「理解がある」と言う。それがなぜなのか、この人は考えたことがないのか。言われた女性をみると、ふふふと笑っている。それから口をひらく。ごはんはどっちでもいいんですけどね、帰って、うちにいてくれれば。マイナスイオン出てると思うんですようちの夫。
 空気がいいのですかと私は尋ねる。空気がいいんですよと彼女はこたえる。家で息をしていると疲れがとれます。寒いと手をかざします。
 それは、むしろ、フィトンチッドではないか、その夫は植物なのか、森なのか、あと、最後のは、ストーブとかではないか。そう思った。比喩なのだから、まあなんでもいいかな、とも思った。好きな人がそばにいたらいい影響がある。人を好きになって結婚したら、家庭はたいてい、健康にいいのではないか。けれども、なかなかそういうわけにはいかない。言うまでもなく、愛は永遠ではない。何年ももたないことだってある。そもそも好きでもなんでもなくて事情があるから一緒にいる人たちだってたくさんいる。
 だから、家族がそばにいることが好ましいと聞くと、とても安心する。私は、伴侶や家族が健康にいいような関係が、大多数であってほしい。おまえはなにもわかっていないと笑われてもいいから、そうであってほしい。あちこちで、家族が健康によくないような話を聞くから、私はいちいちかなしい。悪いことだけがおもてに出て、好ましいことは隠されているのかもしれない。できたら、あんまり隠さないでほしい。みんなもっとのろけてほしい。一緒にいるといい気持ちがするのだと、そう言ってほしい。私は、性格を占う方法なんかより、そちらのほうがよほど、ほしい。
 
 新しい機械を入れようかと思ってるんですよ。ここしばらく髪を切ってもらっている美容師が言う。水の分子をこまかくして汚れをよく落とすというんです。実際カメラで毛根の状態なんかを見ると、お湯だけでもよく落ちてるんですよ。炭酸シャワーもそろそろ新鮮味なくなってきたんで、アリかなって。
 ナシです。私は断定する。ナシですかと美容師が言う。ナシですと私は繰りかえす。水の分子は小さくなりません。分子が変化したら水ではありません。ついでに優しい言葉をかけたりしても変化はありません。そんなもの少なくとも私には使わないでくださいよ。
 マキノさん。美容師が言う。僕もちょっとあやしいんじゃないかなって思ってマキノさんに話を振ったんです。マキノさんそういうのに容赦ないから。だから僕は助かるんですけど、でも、モテませんよね、そういう姿勢って。
 私は鏡を見る。髪を切ってもらいながら目をあわせるにはそれしか方法がない。もちろん、とこたえる。もちろん、まったくモテません。でもいいのです。ないものはないんです。水分子は小さくならないし、ドライヤーからマイナスイオンが出て髪がつやつやになったりはしないんです。