傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

人にカネをやるとはどのようなことか

 彼はたいそう軽蔑したまなざしで私を見下ろし、キモ、とつぶやき、それから、やるの、と訊いた。エサ、やるの。私は先ほどから地面にかがみこみ、でれでれと猫をなで、気味の悪いことばづかいで話しかけている。そのようすがキモいことはまったく否定しない。
 猫は三頭いる。二頭は気が向かないと私のところには来てくれない。一頭は顔見知りであればたいていの人に愛想がよい。猫たちは町工場のガレージで飼われていて、車の通らない細い道と、その道をはさんだ向かいの神社までが行動半径だ。工場のあるじと顔見知りであれば猫をかまってもよい。私をふくむ近所の人間はなんとなくそう思っている。
 エサはやらない、と私はこたえる。飼い主が与えているし、だいいち、動物にエサをやるというのはよほどのことだよ。私はそう思う。人にお金をあげるのと同じだ。ちょっとかまってほしいからって、ほいほいあげるものじゃない。ほいほいあげる人もいるとは思うけど、私はそうじゃない。
 彼はちょっとうなずく。それからつぶやく。マキノにしてはいいことを言う。ないと生きていけないんじゃないかと思うようなものをそのまんまやるのはたしかに、よほどのことだ。たとえエサが余っていても、ばらまくのはどうかと思う。でも、考えてみればなんで「どうかと思う」なんだろう。根拠はないよなあ。相手をスポイルするから?スポイルのなにがいけないんだろう。いつも相手の精神的成長を願うほど高尚な精神なんか持ってないのに。
 愛想のいい猫は愛想をよくしてもエサが出てくるわけじゃないことを知っている。だから私は躊躇なしにこの猫をかまうことができる。かまいたい者とかまわれたい者があるだけの単純な間柄が、私は好きだ。何かを媒介せずに欲望同士がじかに手をつないでいるような関係が。かまわれたくない猫が私を無視し、かまわれたい猫だけが私に寄ってくるような関係が。
 かまったりかまわれたりするのは、できるだけ仕事でないほうがよい。私はそう感じる。もちろん人間は、それをお金でやりとりする。しばしばする。そういう職業もあるし、それ以外の能力をやりとりしているはずの仕事のなかで、実は相手をかまうことに対して報酬が支払われている場合もある。私的関係においては言うまでもない。驚くほどあからさまに、人はお金を払って、人にかまってもらう。お金のために人をかまう。
 その善し悪しを判断する根拠を、私は持たない。私がそれを避けたいのは個人的な好悪の情で、それ以上でも以下でもない。人をかまってお金をもらう仕事は少しも悪いものではない。自分がその客になることを好まないだけだ。あるいは、単に私にとって快いかまいかたをしてくれる職業人がすくないというだけのことかもしれない。
 でもエサをやりたくなることはあるだろう、と彼が言う。僕はあるね。継続性も責任もなしに、ただその場で自分をかまってほしいばかりにエサをやるのって、好きじゃないけど、魅力的じゃないか。確実に気持ちいい。気持ちよくてリスクがない。やっちゃいけないという法もない。やってくれと要求されることだってある。相手を助けるように見えることだってある。そういうのに乗っかるのは、すごく気持ちがいいことじゃないか。
 猫はごりごりと私の脚に頭をこすりつけ、私の膝に乗った。私はますますでれでれして、それから、そりゃそうだよ、とこたえた。エサをあげてかまってもらうのはかんたんでいい気持ちだよ。それがあんまり魅力的だから、警戒してるんだよ。はじめから興味がなかったら忌避感なんか持たない。私だって、エサ、やっちゃう。めったなことじゃやらない。でもほんのときどき、やっちゃう。このゲス野郎がって、自分を罵りながらやる。どこがどうゲスなんだかわかんないけど、私は、エサやってかまってもらってる自分を、ゲス野郎だと思う。でもねえ、あれって、やってるときはよくても、あとからなんだか、いやな気持ちがしてねえ。その場でいい気持ちがすればするほど、あとから苦々しくなってしまう。相手のことをまじめに好きなら、エサをやるのはみじめなことだよ。好意には下心じゃなくて好意がほしいものだから。でも、相手をその場かぎりの消耗品みたいに感じていたとしても、エサで釣ったらいやな気持ちが残る。どうやら私は、エサでかまってもらうことが、どうあっても嫌いみたいでねえ。それがどうしてかは、まだよくわからないの。