傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

五歳児の甘えの技術

 息子が晩ご飯を食べたくないと言う。なぜかと問えばスープがないからだという。保育園のごはんにはついているので、それがなくてはいやなのだという。まったく理屈が通っていない。わたしは保育園のごはんも把握している。息子の通っている保育園は献立だって教えてくれるし、ごはんをちゃんと食べているかも知らせてくれるのだ。ほんとうにいつも元気で、お友だちにもやさしくて、好き嫌いもなくて、と聞いている。めちゃくちゃいい子だそうだ。

 うちではそこまでではない。ちょっとしたわがままを言ったり、だだをこねたりもする。五歳なんだからそれで問題ない。だだをこねる部分も含めて彼はパーフェクトだとわたしは思っているし、夫もそう思っている。でも今日はちょっとしつこい。しかたがないからスープも出してみたが、これじゃないと言う。そのくせごはんを下げようとするといやだと主張し、ほとんど意地になったように文句を言い続けている。もはや「けちをつけている」というレベルではないか。

 わたしは息子の名を呼び、いちゃもんをつける行為がいかによくないか、長々と説明した。夫は「きみは誰でも話せばわかると思っているんじゃないか」と心配するが、いくらなんでも誰しもにわかってもらえるとは思っていない。五歳の息子ならわかってくれるとは思っている。というか、二歳くらいからわかってもらえると思って接してきた。

 翌日、保育園に息子を迎えに行った。自転車の後ろに乗った息子はいつもとさほど変わらない。わたしは自転車をぐいぐいこぐ。息子はどんどん重くなり、わたしの脚はどんどん強くなる。今日はちゃんと食べるだろうなと思いながら夕食の準備をしていると、息子が台所にやってくる。そうして言う。牛乳がほしいんでちゅう。

 でちゅう。わたしは思わずつぶやいた。息子は大まじめである。ふざけている気配、冗談を言おうとしているようすは見受けられない。すごくまじめに、なんなら切実に、でちゅう、という謎の語尾をつけているのだ。たいていの幼児は「でちゅう」とは言わない。現実の幼児語というより、アニメやなにかで使用される記号的なせりふだ。

 わたしは膝を折り、とても小さな子にするように話しかける。牛乳がほしいの?牛乳がほしいんでバブ、と息子はこたえる。まじめにこたえている。わたしは考えながら冷蔵庫をあけ、牛乳を取り出し、息子に与える。息子はそれをのみ、しかるのち、ハグをしてほしいんでしゅ、と言う。わたしはハグをする。息子はハグということばを以前から知っている。しかし、「バブ」「でしゅ」は新しい。どこで覚えてきたのか。離乳食はないので食事どきにまでバブだったらちょっと困るなあと思っていたら、息子は「五歳に戻りました」と宣言して、いただきます、と言った。

 翌日は夫が保育園にお迎えに行く日だった。わたしが帰ると息子はもう眠っていたので、夫に昨日のようすを話した。夫によれば、今日は赤ちゃんごっこをしていないし、今までもしてみせたことはないという。ちょっと見てみたいなあと夫は言った。少しのあいだ赤ちゃんになって「五歳に戻りました」というのはなかなかの知恵だ、巧いと思うよ。甘やかされ慣れているというか。赤ちゃんごっこをしたがるなんてあの子も大きくなったね、逆説的だけど。

 わたしの脚はどんどん強くなると思っていた。つまりどこかで、わたしは永遠に幼児の母であるような気がしていた。でもそんなはずはないのだった。あの子はもうじきわたしの自転車の後ろの席を必要としなくなる。わたしたちが仕事を調整して朝晩の送り迎えをする日々はもうすぐ終わる。もうじき子は小学生になって、ひとりで学校へ行く。そのことを知っているから、息子はきっと大人になるために努力をしているのだろう。そしてそれに疲れてしまうと、「バブ」とか「でしゅ」とか言ってみせるのだろう。それが嘘で、お芝居だとわかっていて、言うのだろう。そんな技術を身につけるほどに、息子は大きくなったのだろう。もう大きいから、必要なのは牛乳とハグだと自分でわかっていて、自分でねだることができるのだろう。

 わたしの息子は賢いなあ、と思う。わたしは同じことをできているだろうか、と思う。わたしの「牛乳」はとても複雑になって、目の前の伴侶にも、親しい友人たちにも、きっと全部はわからない。そしてたがいに、わからなくて当たり前だと思っている。だからときどきは言おう、と思う。牛乳がほしいんでバブ。