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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

犬は老いても撫でれば喜ぶ

 いいよ、と彼は言う。苦笑している。子どもじゃないんだから。彼女は適切な返事を思いつかず、あいまいに笑う。手の位置なんて、ふだんは意識しない。だからすこし困って、だらりと垂らした。子はちかごろ夜に起きることがない。うちの子はもう赤ちゃんじゃないんだ、と思う。毎日二度も三度も夜中に起こされてそれはそれはたいへんだった。苛々することだってあったし、うんざりすることだってあった。それでも、過ぎてしまえばひどくいい時間だったように思えた。彼と彼女の視線を一身に集め、彼と彼女の腕にすっぽりとおさまり、口にするのは液体ばかりで、立って歩くこともことばを話すこともできなかった、彼らの息子の短い時間。
 その時間のなかで、彼らはたがいによく触れた。腕から腕へと子を受け渡し、ほ乳瓶やタオルを手渡し、ふたりして子をのぞきこんで、それから当たり前のように、頭や肩や背中に手を触れた。以前はどうたったかしら。彼女は記憶をさぐる。子が生まれる前はどうだったろう。いや、妊婦のおなかを触ったり歩くときに腕に手を添えるのはよくあることだ。そうじゃなくて、わたしたちが、ふたりきりであったころ。
 よく思い出せなかった。そんなに前のことではないのに、恋人たち、あるいは新婚の夫婦であったころの自分たちが、なんだかかすんでいるようだった。わたしたちがただの大人同士であったころ、と彼女は思う。わたしたちの関係が可逆的であったころ。たがいの意思だけがわたしたちの関係のよすがであったころ。わたしたちがたがいだけを愛しているという、簡単なお話のなかに住んでいたころ。
 少なくとも頭を撫でようとしてそれを断られたことは、なかった。彼女はそう思う。たぶん。それとも私はそもそも、そのように性的でない接触をあまりしていなかったのだろうか。相手を勇気づけるように、あるいはなぐさめるように(というほどの意思もなく、ただなんとなしに)、頭や肩や背に触れる、あるいは触れられることが、なかったのだろうか。今やそれは当たり前のように身についているけれども、彼にとってはそうでないようだった。いつのまにか、いいよ、と苦笑して退けるようなものになっていた。それは彼にとって、新生児が保育園に入るまでのあいだの、家庭内の戦友としてのふるまいだったのだろうか。それは期間限定のもので、期間が過ぎたら、もういらないものなのだろうか。特別な時期を過ぎたら、頭を撫でてもらいたくないのだろうか。なぜなら彼は、子どもではないから。
 よくない、と彼女は言う。そんなのって不当でしょう、どう考えても。そうかなと私はこたえる。人によるんじゃないかな、私も触れていいとわかった人ならやたらと撫でるけど、たいてい最初はぎょっとされるよ。慣れてくれる人と慣れてくれない人がいるよ。ハグ文化圏じゃないからねえ、日本。彼女はため息をついて首を振る。あのね、文化圏なんか、人と人とのあいだで作ればいいの。親しい人にいつどのように触るかなんて、誰かに決められることじゃないの。日本なんて放っておけばいいの。私は可笑しくなって、犬ならいいのに、と言う。みんなが犬ならいいのにね。犬は年をとって死ぬまで、撫でてやれば喜ぶよ。
 私は自分を、犬とたいして変わらない生き物だと思う。犬は鼻がよく、私は言語や火をつかう。それくらいしかちがうところがないような気がする。服を着るのとかは、しかたがなくしているので、できれば着ないほうがラクだと思う。服を着せられている犬を見るとちょっと気の毒に思う。せっかく、ほんものの犬なのに。
 食べものを得て夜露のかからないところで眠って、あとはそこいらを歩いていればだいたい幸せだ。知らない人が寄るとうなり、気に入った人が撫でると喜ぶ。嫌いなものにはかみつき、好きなものにはくっつく。好き嫌いは主ににおいで判別する。好きなものにしょっちゅうくっついていれば、それはそれは幸せだ。
 私にとって幸福はそのように簡単なもので、あとはおおむね、おまけだ。けれども、世界にはどうやらそのように感じない人のほうが多いようだと、ここ数年でようやく気づいた。人々の幸福はもっと複雑で、得体のしれないものであるようだった。みんな犬じゃないのだ。たとえば彼女の夫も。彼女はまだ憤慨している。子どもじゃなければ撫でなくていいなんて、まったくひどい話だ、と言う。私は心から同意して繰りかえす。みんなが犬ならいいのにね。