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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私のためにほほえまないで

 職場の上長は有能であってほしい。それはもちろんのことだけれども、恐れ戦くほど有能じゃなくてもいい、私は思う。有能さと機嫌のよさの総計が高いほうがいい。どんなに有能でもやたらと不機嫌な、情緒の安定していない人のもとでは働きにくい。そう考えるようになったのは今の上長が来てからで、つまり私は上長が機嫌よく仕事をしていることをたいへん好ましく思っている。
 思っているのだが、ときどき腹立たしい。自分がシリアスに怒っているときには一緒に怒ってもらいたいのが人情だ。上長はそのような機微を介さず、にこやかに言う。いやあマキノさん、あの人のこと、ほんとに嫌いだよねえ。しわ、よってるよ、しわ。鼻の付け根にしわがよってると実に凶暴そうに見えるなあ、うふふ。
 上長の造作はむかし教科書で見た毛沢東に似ている。おそらく実物と異なり、迫力はまったくない。全体に福々しい。それがますます腹立たしい。嫌いです、と私はこたえる。伝書鳩じゃないんだから、他の部署の人間にしてほしいことくらい自分のところで詰めてから持ってくるのが道理でしょう。あとからひっくり返されたの、一度や二度じゃありませんよ。役職上の機能を果たしていません。私のチーム全体の業務が圧迫されているんです。いいかげんに申し入れをさせてください。
 私が感情的になるまいとするあまり不明瞭な口調でぼそぼそと口上を述べているあいだ、上長は無表情で私を見ていた。私が黙ると、うんともううんともいえない音声を発した。それからいつもの軽薄な笑みに戻り、言った。ねえ、マキノさん、彼、マキノさんに嫌われてるってショック受けてたよお。僕あんなに女の人に冷たくされたのはじめてです、って。そんなに感じ悪かったですかねえ、って。
 私は自分のなかの腹立たしさがあっけなく消えるのを感じた。他人に腹を立てるのは期待しているからだ。相手を自分に理解可能な存在と考えているからだ。その範囲を超えると腹は立たない。そうですか、と私は言った。そう、と上長はこたえた。彼、イケメンだもんねえ。うちの奥さんも、ああいう顔がもてるのよって言ってた。それだから、女の人に冷たくされたこと、なかったんだねえ。
 さっきまでここにその「イケメン」がいた。私はその外見をどうとも思わないけれども、いいと思う人は多いのだろう。そうして、それがなんだというのだろう。「イケメン」はいつもうっすら笑っていて、その笑いを私は嫌いだった。その理由がよくわかった。あれは私、否、「女の人」に投げ与えられたエサだったのだ。女の人はイケメンが笑いかければ嬉しいんでしょ、という。
 仕事上の関係しかないのに仕事とはまったく関係のないエサを投げておけばいいと考える、その発想がどれだけの侮蔑を前提としているか、想像したことがないのだろうか。もちろん、ないのだろう。どんなにていねいに業務上の問題を指摘してもわかってもらえないのも道理だ。彼にとって私は「女の人」でしかないのだから。ちゃんと笑っているのに嫌われたのがショックなくらい、「女の人」でしかないのだから。職場での立場上、対立する、だから険悪になることもある。そんなふうには考えない。
 そうですか、と私は繰りかえした。私がここでは「女の人」である以前に会社の人だと、彼は思わないんですね。
 うん、と上長は言った。マキノさんはなめられてるの。たぶん、彼は、完全に無能な人間ではないよ。でも彼にはじゅうぶんな権限が与えられていなくて、だから彼に何を言っても事態は改善しないんだよ。伝書鳩かよってマキノさんは思ったみたいけど、うん、伝書鳩なんだ、実際のところ。長いこと伝書鳩ポジションに置かれた人間がどれだけの憤懣をかかえているか、いっぺん想像してみて。その感情はもちろん彼が自分でなんとかすべきものなんだけど、彼にはそれができない。そうして、長いことためこんだ憤懣は、自分より弱そうなのを選んでなめてかかるという形にしばしば変換されるんだ。マキノさんがちょっとまじめに話したら彼、言うじゃん。こわーい、って。ほんとに怖い相手にこわーいって言わないよ。あれは「弱いくせに対等っぽいこと言いやがる相手」に対する揶揄だよ。要するに、なめてるんだよ。
 そうですね、と私は繰りかえした。私は私の憤懣がへんな形に変換されるまえに正しく噴出させたいのですが、どうしたらいいでしょうか。うん、と上長は言った。やり方を考えないといけないね、ちょっと相談しようか。