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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あまい真綿

 彼は仕事でへとへとに疲れて、彼女に連絡すると言ったことを忘れる。起きると彼女からメッセージが入っている。昨夜どうしたの?具合でも悪い?彼は返信する。だいじょうぶ。ごめんね。だいじょうぶならよかったと彼女は送りかえす。そのようなことが何度か起きる。あなたってほんとにいいかげんねと彼女は笑う。彼も笑う。
 彼の仕事は先が読めないので、彼の予定はよく変わる。彼は彼女にそれを告げる。ごめんねごめんねと彼は言う。仕事なんだからしかたがないでしょと彼女は言う。笑って言う。そのうち彼もそう思う。仕事なんだからしかたがない。それからやがて、しかたないとも思わなくなる。予定が立たないならはじめから伝えなければいいのだ。それは当たり前のことで、だから意識なんかしない。
 予定がつぶれても彼女に会いたいので、時間ができた日に彼は彼女にたずねる。今日行ってもいい?彼女は承諾する。彼は喜ぶ。やがて喜ばなくなる。それは当たり前のことで、だから意識なんかしない。彼の時間は平和に流れる。
 ある日彼女はにっこり笑って彼に告げる。ねえ、あなたって私に対して、人間としての最低限の礼儀もないのね。言ったことを実行して、事前に予定を合わせて、相手の生活も考える、それが当たり前でしょう。でもあなたはそれをしないし、改善する気もない。だからもう連絡しないでほしいの。
 彼は仰天していろいろのことを言う。彼女はほほえんだまま話す。人の気持ちはね、後づけのせりふじゃなくて行動でわかるの、何度もやんわり言ったのにわかってくれなかった、だからもうだめなの、ほかの人にはそんなことしないでしょう、私にだけでしょう、それって、私をまともな人間として扱っていないということでしょう。ひどいと、小さい小さい声で彼はつぶやく。
 事実じゃん、彼女べつにひどくないし、むしろやさしい。私は感想を述べ、仕事帰りに軽く飲むことにした残りのふたりもうなずき、彼は眉間に深い皺を刻んで、そうだけどそうじゃないんだと、ぶつぶつこぼす。私は彼のひどく親しい友人というわけではないから、あんまりものを考えないで話す。まあまあ、自分が全面的に悪いと認めてやけ酒でも飲むといいよ、つきあってあげるからさあ。
 だってあんなに甘やかされたらふつう甘えるよ。彼は吐き捨てるように言う。ああ、甘えてた、それは認める。でももうちょっとなんていうか、小出しに言ってくれてもいいだろ。いきなり最後通牒とか、ひどくない?ひどくないです、と私の隣の後輩が答える。やんわり言ってわかんなかったんですよね、じゃあどうしてほしかったんですか、泣きわめくとかしてほしかったんですか、少なくとも私は、自分を見下して無礼をはたらく人間に常識をわからせるためにそういうみっともないことをしてあげなきゃいけないとは、思わないですけど。違うと彼は彼女の語尾を消す。見下してなんかいない。傍からはそうとしか見えないと、後輩は私にだけ聞こえる声で言う。
 俺はその話、わからなくもない。それまで黙っていた彼の同期が割って入る。調子に乗っちゃったんだよね、おまえ。同期は芝居がかって彼の肩を抱く。たしかえらい若い子だったよね、ちょっと地味な感じのさ、そういうのも影響してるんじゃない。彼はものすごく不満そうに同期の腕をふりほどく。
 ああそうだよ、俺は調子に乗ってたよ、一回りも若い子が俺のこと大好きで、甘やかしてくれて、ぜったい怒んないで、いつもにこにこしてくれて、だから調子に乗ってたよ。学生で暇なんだからいいじゃないか、俺に合わせて当然じゃないかと思ってた。でも見下してたとかじゃないんだ、そういうんじゃない。
 じゃあどういうのかって言われると、わかんないんだけどさ。彼は急に小さい声になる。なんかさ、変な考えかもしれないけど、彼女、もしかして、待ってたのかもしれないと思うんだ。俺の甘えが一線を越えるのを、じっと待ってたのかもしれないって。だってすごい理路整然と言うんだ。私はあのときこう言ったでしょう、こうも言ったでしょう、それでもあなたはああしたでしょう、こうしたでしょう、って。俺が真に受けないような言い方をわざとして、準備して、それで、いい気になってるのを突き放したのは、彼女の計画なんじゃないかって。
 それは憎しみがないとできないことじゃないかな。私はそう思い、思ったことを口に出していたようで、なに、と彼に尋ねられる。私は首を横に振る。そうして今度は確実に口に出さずに思う。スポイルを復讐の道具にするなんて手の込んだことは、それなりに強い感情がないと、たぶんできない。

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