読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

儀式を無効にする方途

 よんどころない理由で、あるいはあまりに複合的な問題を抱えていてひとつずつ解決しようと思うと気が遠くなるというような理由で、彼らは離別に合意した。彼らはともに五年を過ごし、五年かけて互いを新鮮に感じることがなくなり、また五年分の若さをうしなった。それらは彼らが問題に立ち向かうだけの気力を最後の一滴までしぼりとった。彼らは困難に打ち勝って関係性を維持するだけの情熱をうしなったのだし、それこそが離別の原因なのだから、ひとことで「飽きたから別れた」と言ってもかまわないと、彼女は思った。
 彼らはすっぱりと別れて二度と連絡しないという選択ができなかった。彼らはたがいの存在に慣れすぎていた。彼らにもはや情熱はなく、しかし相手にまつわる大量の習慣を持っており、別れたらそれをひとつひとつ組み替えていかなければならないのだった。
 ひと月も経つと彼女はそのことにうっすらと気づきはじめた。彼は気づかず、ただ感じていたようだった。彼は電話をかけてきて言った。僕は困っている。欲求が不満なのだと思う。それでは運動をしましょうと彼女はこたえた。ただし私の部屋に来てはだめ。
 彼らはともに長いことひとりで暮らしていて、五年のあいだ互いの部屋を行き来していた。最後の二年十一ヶ月はそのふたつのあいだに新幹線あるいは飛行機の距離が横たわっていた。彼らは休憩という枠のある宿泊施設を好きではなかった。殺伐としている、というのがその理由だった。それはフィクショナルなまでに厚みを欠き、どんな感情もそこには付着しないように思われた。そして別れた今となっては同じ理由でそれを使用しなければならない、と彼女は思った。
 彼らが落ちあったのは夕方で、だから彼は食事をと言いかけて少し黙った。買っていきましょうと彼女は提案した。それはいいねと彼はこたえた。彼らはコンビニエンスストアの食事も好きではなかった。プラスティックの味、といつか彼は言ったことがあった。
 そして彼らはその道具だてに満足した。これでだいじょうぶ、と彼女は思った。そこに生活はない。彼らが必死に築こうとして失敗した彼らの生活の素材はない。彼らは何度かそれを繰りかえした。ほどなくそれはひと月以上ふた月未満に一度の間隔で定着した。今月の運動ですが、と彼は彼女に書き送った。彼女は候補日を書いて返信し、互いの住む都市を交互に訪れた。彼らはともに口数が多く、最初と最後に運動に類するなにかを差しはさみ、そのあいだにプラスティックの食事を流しこんで、あとは話をしていた。
 ある日のプラスティックの食事が終わったあと、彼はプラスティックバッグに残った小さなパッケージを取り出して、はい、と言った。ありがとうと彼女はこたえた。彼は深夜にコンビニエンスストアに寄ってから彼女の部屋に行くとき、彼女の好きな小さなお菓子を買うくせがあった。彼らはほとんど同時に息を止めた。彼はそれを冷蔵庫に入れた。ホテルの冷蔵庫は小さく貧弱でよそよそしかった。彼らはそれを開かなかった。
 彼らがかつてたがいに親切にするために身につけたささやかな習慣は、彼らの自覚以上の効果を発揮していた。相手に少しの快さを与えるためのたくさんの身振りを通じて、彼らは互いにとってよい存在になった。そしてその利益だけをむさぼることはできないのだ、と彼女は思った。ものごとはその受け手からの正統な支払いを求めて、必ず戻ってくる。
 それは儀式だねと私は言った。語りおえた彼女はうんざりした顔つきで、そんなことはわかりきっている、とこたえた。だからそれがない空間でしか私たちは会わなかった。それなのにしみこんでくるんだから怖いっていう、そういう話をしたんじゃないか。マキノみたいに別れた男とまっとうな食事に行くなんて不潔な真似はしてないのにさあ。
 なんにもしてないようと私が反論すると彼女はいたく軽蔑した目をしてみせ、そんなことは問題じゃない、と断定した。あんたらの食事はね、デートだよ、傍から見たらさあ。それに比べて私たちの運動のなんという清潔さよ。
 その自覚と努力はたいしたものだよと私は認めた。でも私たちの感情的な回路はどうやっても漂白できないよ、儀式はいつまでもきっと無効にならない、たとえばあなたの前に真新しいすてきな男の人があらわれてあなたがその人とつきあったとしても、あなたはきっと彼と育てた儀式を持ち込んでしまうよ。私たちはそれにとらわれながらやっていくしかないんだよ。