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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

短時間の小規模な孤独

 舐められたもんですねと同僚が言い、やっぱりそうですよね、と私はこたえる。彼は私を見て目頭に薄い皺を寄せ、いただきますと手を合わせてから味噌汁に箸を添えてひとくち飲みこみ、焼いた鯖の焦げた皮のふくらみをぱりんと割って、槙野さんって怒らないの、と訊く。私は笑い、怒らない人間なんていませんと言う。私はけっこう怒りっぽいほうです。怒鳴ったりものを投げたりします。でも今はごはん食べてるし、そういうのはあとでいいです、銀鱈の煮つけのほうがだいじ。
 私たちの会社では数人が通常業務とはべつに会社説明会にアサインされている。私もそのひとりだ。会社説明会には管理部の社員と別の部署の社員が二人組になって行く。管理部が会社全体の説明、その他の部署が具体的な業務内容の紹介を担当する。
 会場に行くとはじめて組む管理部の社員が資料を並べていた。私はそれを手伝った。それから控えの席に座ろうとした。管理部が私を呼び止めた。こちらにいらしてくださいと言うのだった。もうすぐですから。私は少し戸惑い、最初の説明は管理部の方がするでしょう、と言う。前半はお願いして、途中で交代するんですよね。いえ今度からプレゼンはお任せすることになったんですよ、よろしくお願いしますね。
 そう言われて私はあたりを見渡す。予定の時間までいくらもない。やれと言われてできないことでもない。だから私はそれをした。学生や第二新卒の若者たちの質問にも対応した。話した人間が答えるものだから、今日はぜんぶ自分がこたえるような気が、なんとなくしていた。管理部は私の立っている斜め後ろの椅子に掛けてPCに向かっていた。ときどき顔をあげている気配がした。立って歩くこともあるようだった。私はリクルートスーツの群れのほうを見ていたからよく知らない。
 あの人はいなくてもいいなと私は思った。この説明会を回してるのは私ひとりじゃないか。仕事してるような顔してる人間がもう一人いるけど、でも、私だけでしている。私はそう思ってつるつるした肌の若い人たちを見る。いろんな会社がある中でうちに来てくれたんだからじゅうぶんな説明をしたいと思う。後輩になる人がいるかもしれないと思う。それから私はもう一度、今日はひとりだから、と思う。
 同僚は私が「説明会、私が一人でしゃべることになってるって言われてそうしてきたんですよね」と口火を切ったときには舐められたんだと即答したくせに、私に詳細をうながしたらあとは何も言わないのだった。彼は塩鯖と米とほうれん草のおひたしとごく小さい冷奴と香の物と刻んだ油揚げの味噌汁のあいだで箸を動かし、適当な感じで私に相槌を打った。私は唐突に口を閉じた。話は終わっていた。意識しないうちに私は覚えていることをぜんぶ洗いざらいしゃべっていた。どうしてこんなに細かいことまで話したんだろうと思った。要約すれば最初のひとことで終わる話じゃないか。
 それはいやでしたねと同僚は言った。難しい仕事じゃないですよ、説明するだけ、と私はこたえた。そういうんじゃないですと彼は言った。誰かと一緒にやるものだと思って行ってひとりだったらさみしいです、同じ立場の人間がもうひとりいるのに知らん顔してて自分だけ気を張ってるなんてずいぶん孤独なことです。それに結局槙野さんがぜんぶ話さなきゃいけないっていうのは嘘だったわけですよね。
 私はうなずく。私は他の社員何人かにそのことを確認した。彼は空になった食器の群れを未練げに眺めてから私に視線を戻して言う。すぐばれるような適当な嘘でたいしてたいへんでもない仕事を押しつけるのは完全に舐めてかかっているからです、その人にとって槙野さんは心底どうでもいいやつなんです、それはそれはどうでもいい、一グラムの価値もない存在なんだ。好きとか嫌いとか以前の、使えるなら使うというだけのもの。槙野さんに自分と似た内面があり感情があるなんて思ってみたこともない。そういうふうに扱われてるのって事実確認なんかの前にわかります、肌でわかるっていうのかな。だから傷ついたんでしょう。
 私はうなずいた。それから、そうか私は傷ついたのか、と思った。こういうのが十倍の濃度で来たら泣いたりするんだけどなと思った。とりあえずため息でもついておこうと私は思って、そうした。それはずいぶんと小さかった。
 誰にばらしてやろうかな、と彼は言った。槙野さんを傷つけたのはごく短時間の小規模な孤独だったと思う、槙野さんはすぐにそれを忘れると思う、でもそれを不当に他人に与えたやつはそれに見あった代償を受けるべきです。僕はそう思う。