傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

失言を待ち続ける

 部下からのハラスメント報告を持って担当部署に行く。私の部下にハラスメント発言をした人物はもともと私にも失礼で、ハラスメント防止などというかけ声がかけられる前から失礼だったので、新卒三年目あたりで反論と録音と当時の人事部責任者への報告を実行したところ、その後は申し立てるほどの被害がなくなった。けれどもそれは私にかぎってのことで、容易に言い返さない者には差別的な発言を繰りかえすのである。

 人権感覚がなく意識しないまま他者を侮辱するのであれば、単に教育が行き届いていないだけの人間である。それはそれでもちろん迷惑だが、私がより軽蔑するのは、相手を見て差別的な発言をおこなうかどうか決めているタイプの人間だ。石を投げれば噛みつかれるとわかった相手にはしない。噛みつかない相手にだけ石を投げる。石を投げるのが不当だというコンセンサスがこの世にあることは知っているのだ。知っていてなお「自分には石を投げる権利がある」というような、理路のない特権意識を持っている。こういう連中には一刻も早く絶滅してほしいと思っている。

 私が報告を終えると、担当の一人がもう一人の顔を見た。そうして言い合った。どうですかね。どうでしょうねえ。残念ながらこの程度では。ええ、そうですね。私はがっかりして小さい声で言った。そうですか、この会社では今回の報告をハラスメントと判断しないと。

 担当者たちは苦笑した。まさか、と言った。裏付けはとりますが、この発言ならハラスメントは成立しますよ、かなりあからさまです、見過ごされるはずない。私はほっとして、良うございました、と言った。それから尋ねた。ならば、残念ながら、というのは、何のことですか。彼らはさらりと言った。この程度の発言では残念ながらくびにはできないってことですよ。

 私が黙っていると、彼らは言う。これから一般論を話します。特定の誰かの話ではない。ええ、一般的な話です。あのね、勤務中に会社で、人前で、人種差別発言や女性差別発言を繰りかえしている人間が、差別発言だけしていると思いますか。「自分は外国にルーツを持つ人や女性を見下せる立場である」という意識がダダ漏れなわけですよ、そういう人間が、周囲の社員への軽い暴言程度でおさまるはずがないんですよ。たとえばですね、本来の権限を越えて誰かに業務命令を発したり、会社の備品をちょろまかしたり、パートナー企業や顧客に失言をしたり、すると思いませんか。そうしたら経営陣としてはくびにしてやりたいと思いませんか。でも正社員は簡単にくびにできないんですよねえ。証言だけで証拠がないケースも多いし。

 そういう人は、自分の何がいけないのか説明されても、理解できないのでしょうか。私が暗い心持ちで尋ねると、彼らは笑った。笑われたのはハラスメント加害者ではなかった。私だった。何かおかしなことを申しましたか。私がそう尋ねると彼らは、だって、と言った。あんな人間に、説諭なんて、やってもどうせ無駄だけど、やりませんよ、あなた、可笑しなことをおっしゃる、僕らは彼が決定的なことをやらかすのを待っている。小さな不祥事を積み上げて合わせ技一本で首にできるのを待っている。それまでは形式的に始末書を書かせるだけですよ。早くじゅうぶんな「実績」を積み上げてほしいものです。

 私はおじぎして退出した。私はさみしかった。私は、どんなにいやな人間でも、一緒に働いている仲間だと、どこかで思っていたのだった。話せばわかると思っていた。話してわかってもらいたいと思っていた。ハラスメント加害者は制度にのっとって適切な説諭を受け、時に研修を受け、意識を変え、適切な行動をとるようになる。そういう筋道を想像していた。誰かが諄々と話せば加害者だってわかってくれるんじゃないかというような、幼稚な期待を持っていた。

 でもそんなのは持っても無駄な期待なのだった。自分の子どもでもないのに、教育サービスを提供しているのでもないのに、ただの従業員の人格を向上させる義務なんて、企業にはもちろんないのだった。企業の中核にある人々は、態度には出さないまま、ただただ「あいつ、いなくなってほしい」と思っていて、そのためなら誰かがまたひどいことを言われてもかまわないとさえ思っているのだった。

ふられる時に本性が見える

 会社を辞めることにした。検索して提出書類を作成したものの、よく考えたら会社から書式を指定されるんじゃないかと思って、仕舞っておいた。最初は直属の上司と人事に話をするだけなのだし。

 仕舞っておいた書類の退職理由の欄には「一身上の都合」と書いた。ほんとうは理由などない。転職先は決まっている。今より自分に合うところに行くつもりだけれど、実際のところは入社してみないとわからない。でも他人に向かって「どうなるかわからないけど職場を変える」と言うわけにもいかないので、「転職が決まったから今の会社を辞める」と言う。

 待遇は上がるが、今後はわからない。待遇は実のところ転職の要因ではない。今の職場が嫌でたまらないわけでもない。それなら転職先が決まるより先に辞めている。そういう性格なのだ。

 結局のところ、単に「移りたいから移る」というのが真実だ。他人にはわかってもらいにくいけど、僕には立派な理由だ。放浪癖があり、確定された未来のようなものが見えると全力でそこから逃げたくなる、そういう人間だってこの世にはいるのだ。のたれ死にという言葉を美しいと僕は思う。野を歩きそのまま倒れて死ぬ。素敵だ。「俺が死ぬ日は大雨にしてやる」と言った作家もなかなかのものだけど、僕は晴れた日がいい。晴れていて、死体がすぐに乾くといい。

 僕は結構な社会性を備えているので、シリアスな顔をして直属の上司と面談し辞意を告げた。上司は、そっちかー、と言った。こういう呼び出しは辞めるか結婚するかなんだよねえ、あとは休職したいとか。えっと、次のところの入社予定日はいつ?了解了解、じゃあよしなにしておく。人事のね佐藤さんに連絡しておくね、今日午後くらいにきみからも連絡してね、うんCC入れてね、じゃあ。

 面談は一瞬で終わった。止めないのか、と僕は思った。べつに止めてほしかったわけじゃないけど、上司は僕を評価してくれていたから、なんていうか、ちょっとは惜しまれたい気がした。

 次に面談した人事の偉い人はとにかく無礼だった。話すのははじめてなんだけど、あまりの尊大さに仰天した。そりゃあ、出て行くって言われたらいい気はしないだろうけど、最低限の人間対人間の礼儀ってものがあるだろ。所定の書式はたしかにあって、偉い人はそれを指ではじいて寄越した。紙は計算したようにテーブルを滑り、床に落ちた。僕はさわやかに礼を言いながらそれを拾った。僕はとにかくさわやかに振る舞うことが得意なのだ。

 新しい職場に入る日にSNSの所属欄を書き換えると、僕の前に転職した元同僚からメッセージが入った。辞めた者同士で会うことにした。上司からの慰留、ゼロでさあ。僕は笑い話のつもりで言った。僕は自分のことを、少なくとも仕事に関してはドライだと思ってたけど、そんなことなかったね。止めてもらえないとちょっとさみしいくらいには感情的なんだ。「辞めないでほしい」くらい言ってほしかったな、うん。けっこうがんばって働いてたし、成果も出してたつもりだけど、そうでもなかったのかなあ。

 元同僚はいかにも僕を軽蔑した顔になり、それからこたえた。お前、それ、恵まれてるから。恵まれてる?僕が目で問いかけると、元同僚は言った。俺のときは、話したこともないお偉いさんが出てきて、俺が辞めたら損失が何百万と出る、だから訴えるって言った。ドスの利いた声で怒鳴られた。完全に恫喝だった。

 まじで。僕は訊く。まじで。同僚はこたえる。もちろん、訴えるなんてできっこない。ただの嫌がらせだ。でも転職という疲れる場面でなおのこと疲れたことはたしかだ。馬鹿だなって思った。狭い業界で、専門も決まってるんだから、将来また戻ったり求人の対象になることだってあるのに、あんな嫌がらせしたら何があっても絶対戻らない。それどころか人から「あの会社どう?」って言われたら「やめとけ」って言う。ああいうのが責任ある立場にいるんだから会社そのものへの評価を下げるべきだと俺は思った。

 雇ってた人間に辞めるって言われるのは、いわば振られる側だから、おもしろいはずがないんだけど、そういうときに本性が出るんだよ。お前の上司はお前が気持ちよく転職できるように振る舞ったんだろうと俺は思うよ。辞めない見込みがないなら引き留めてる暇はない、嫌な目に遭わないように手を回して気持ちよく見送る、それが相手のためだろ。

 そこまでいい人かなあ、食えない上司だったけどなあ。そう思いながらSNSを開くと、件の元上司から短いメッセージが届いていた。転職おめでとう。新しい会社で虐められたら、話くらいは聞いてあげよう。

自己決定しないためなら何でもする系

 部下がヤバイ。まじヤバイ。何がヤバイってホウレンソウがすごい。

 同僚が、自分は管理職に向いていないかもしれない、と暗い顔で言うので、とりあえず話を聞いた。やばいのはきみの語彙だ、まず、やばさの内実はプラスかマイナスか。私が尋ねると、意味するところはマイナス、すなわち「上司である自分に対する報告・連絡・相談が多すぎて危機感をおぼえる」ということらしかった。

 いいじゃん、と私はこたえる。うちのチームでは進捗確認と問題の共有をルーティン化してるよ、部下が勝手にやってくれるならこっちはラクじゃん。そのように煽ると彼は大きくかぶりを振り、「ヤバイ」の内実を言語化してくれた。

 彼の問題視する部下は非常に素直でまじめで、何ごとにも前向きに取り組み、入社一年半を迎えようとする現在も緊張感をうしなわない。それだけ聞くと良いことのようにも思えるが、誰が相手であっても、聞き流す、反発するといった態度はあってしかるべきだというのが、彼の言いたいことなのだった。仕事のしかたに完全な正解はないし、上司はもちろん不完全である。一年半も一緒に働いていれば「それは違う」「この上司はこの部分はたいしたことないな」と思うのが当たり前で、いつまでも目をきらきらさせてぜんぶ言うこと聞くのはおかしいだろうと、そう言うのである。最近はそのきらきらした目に恐怖を感じるとさえ言う。

 まあねえ、と私は言う。素直ないい子って、ある意味で怖いもんね、鵜呑みにされるのは怖い、生きた教科書じゃないんだから、見本は複数持ってほしい、そういう気持ちはわかる。でもそれだけじゃないでしょ、素直でいい子っていうだけじゃ、自分に管理職はできないのではないかと思うところまではいかないでしょ。

 彼は声のトーンを一段落として話を続けた。すごくいい子ではあると思う、ルールはきっちり守る、だから、まさかとは思ったんだけど、どうも妻子持ちのチームメンバーとつきあってるっぽいんだよね、俺と同い年の。

 私は椅子に座り直した。それから告げた。その人、「自己決定をしないためなら何でもする系」かもしれない。え、と彼はつぶやいた。いや、少なくとも仕事では、やり方教えればなんでも自分で決めてくるけど、決めてきて報告するけど。

 自己決定とはそういうものではない、と私は説明する。自己決定というのは基準をもらってそれに即して決めることではない。基準を自分で作ることだよ。いっけん自分で決めているように見えて基準はぜんぶよそから持って来たものだっていう人間はけっこういる。進路は親や先生が良いとされているものに近づける、外見は仲間うちで良いとされているものに近づける、趣味は他人から素敵だと言われやすいものを選ぶ、世間が悪いと言うことはしない、それがなぜ悪いかは吟味しない。私はそういう人を「自己決定をしないためなら何でもする系」って呼んでる。

 他者の基準に合わせるのって努力が必要なことだから、がんばり屋ではあるし、結果を出していることも多い。でもそういう人は、基準のあいまいなところに差しかかると新しい基準を探して更なる努力をする必要がでてきて、疲れる上に報われなくなってしまう。基準のないところに放り出されるとガタガタに崩れてしまう。

 それがなんで不倫に結びつくの。彼が訊くので、想像だけど、と私は言う。想像だけど、基準があいまいな中で不安になっていたところに、自信をもって仕事をしているように見える先輩が「俺の言うとおりにすればいい」と言ってくれて、しかも自分を特別扱いしてくれるから、世間で悪いと言われることだというストレスを感じつつも陥落するんだと思うよ。なんで結婚してる人と寝るのが悪いかとか考えたことがない若い子だったら、手練れの悪い年長者に言いくるめられてもおかしくない。女子の場合はさらに「自分より優れた男に付き従う恋愛は良いものだ」っていうしょうもない通念もあるし。直属の上司がいちばんそのポジションに近いんだけどね、きみはよほど好みじゃなかったんだね、彼女の。

 彼は行儀悪く背筋を曲げてテーブルに顎をつけ、がー、と唸った。がー、と唸り返すと、やだやだ俺もうやだ何でそんな人間ができあがっちゃうんだ、と嘆いた。自己決定する自由を得るためなら何でもするだろ、普通そうだろ、何で反対側に行くんだ。そうだねえと私は言う。私もそう思うけど、「普通」っていうのはたいそう恣意的なものだから、私たちはその言葉を捨てて他者を見なければならないと思うよ。がー、ってなるけど。

おばさんたちのいたところ

 アルバムを見ると、未熟児のための治療室から出て間もないころから、母親でないおばさんたちが、代わる代わる僕(だという気はしない脆弱そうな子)を抱いて、ばかみたいに大きな笑顔で写真におさまっている。おばさんたちは野太いものからかぼそいものまでさまざまの腕に僕と年子の兄の幼い日の姿を抱え、僕らきょうだいが小学校を出るあたりまで、なにかというと写真に写りこんでいる。誕生日、旅行、バーベキューやキャンプ、クリスマスだのハロウィンだのと理由をつけて集まっていたホームパーティ。

 父は内気で無口な人で、僕と兄の幼いころには、いつも夜のおぼろな記憶の、あるいは母の留守居の姿であって、眉根を寄せた笑顔をしている。父はおろおろと僕らをあやし、僕らは元気にだだをこねた。父はうまく僕らを叱らなかった。僕らを叱るのは母と「おばさんたち」だった。

 「おばさん」の筆頭にして代表は芙蓉ちゃんだった。芙蓉という名でフユと読む。僕らの家の近所に住んでいた母の五つ年下の妹で、母と父に次ぐ僕らの育児の主戦力だった。叔母は手先の器用な医療者で、僕らきょうだいが髪を切るといってははさみを持ち、熱を出したといっては勤務明けに顔を出した。叔母は僕が中学に上がるころに遅い結婚をしてその相手の国に職を見つけ、年に一度も帰ってこない。

 叔母がしょっちゅううちにいて僕らの面倒を見たので、そのほかのおばさんたちのこともとくにおかしいと思ったことがなかった。母の友人は職場の知己だの中高大学の同級生だの先輩後輩だので、ずいぶんとたくさんいた。僕や兄が名を覚えている者だけで1ダースを超える。そんなだから、僕と兄はなにかというと余所のおばさんが家に来ることや一緒に旅行に行くことを、当たり前だと思っていた。どうやらそれは、当たり前ではないらしかった。

 母の友人の「おばさん」たちはしばしば母に招かれて僕と兄のいるところに来た。幼い僕らをあやし、おむつを換え、着替えをさせ、風呂や温泉に入れ、寝かしつけ、手をふりほどくのを追って走り、車が通れば自分が先に轢かれる位置についた。僕らをその真っ白い、あるいは日に焼けた腕で抱きかかえて、世界のいろんな道をのしのしと歩いた。自分の子を連れて来て、あるいは子を持たず、幼い僕らのよだれを肩口にしみこませ、膝をついて鼻水を取り、泣く兆候を察知して巧みにごまかした。公共の場で騒げば僕らの目をじっと見てドスの利いた声で騒ぐべきでない理由をささやき、効果がなければ問答無用で僕らを引きずってその場を出た。
 僕と兄は幼いころ「誰でもいいやつら」という、えらく不名誉なあだ名をつけられていた。犯人はもちろん、おばさんたちである。自分の子を連れてきたおばさんのひとりが僕らをダシにしたことを、僕は覚えている。あのきょうだいを見なさい、とそのおばさんは言った。あのきょうだいは、誰でもいい、だっこしてくれるなら誰もいい、手をつなぐ相手は誰でもいい、あなたもそうあるべきです。ママ、ママ、っていつまでも言ってるのはあなただけ。よく聞きなさい。あなたに何をしてくれるのも、ママじゃなくていいの。まったくかまわないの。ママママ言って泣くのは、幻想です。
 おばさんたちは写真の中で、幼い僕らに足跡をつけられた服をそのままに、一緒に昼寝している。僕らの汚れた指を口に突っ込まれたまま僕らの口元をぬぐっている。そのうちのひとりが、今日、僕の家のリビングで母と向かい合って座っていた。あのねえ、と言った。わたし余命三年なのですって。
 僕はもう子どもではないから、おばさんたちが家に来ても放っておく。おばさんたちは相変わらずしょっちゅう僕の母を訪ねて来て、リビングで母と飲み食いしている。僕も兄も理由がなければそんなダルい場所に行かない。たまたまダイニングに水を飲みに来たらリビングからおばさんの声が聞こえた。だいたい三年、とおばさんが言った。それで、と僕は訊いた。別に反抗期とかじゃない。口を利くこともある。おばさん、死ぬの。
 おばさんは、うん、と言った。わたしは死ぬ。癌でじきに死ぬ。芙蓉ちゃんに治してもらおう、と僕は言った。それからその発言のあまりの幼さに狼狽し、今のは、と言った。今のはなし、とおばさんは笑った。昔、よくそう言ってたよねえ。芙蓉ちゃんにだって治せない病気がある、きみはもう、そんなこともわかっている、いい子だ、今の話は忘れなさい、おばさんたちは生きて、働いて、死ぬ、それだけのことだ、きみがそのことを気にしてくれたから、わたしは、ちょっとうれしい。いい子だね、おやすみなさい。

恐がりやの悪徳

 手術か経過観察かを選ぶことになります、と医師は告げた。よし、手術しよう、とわたしは思った。経過観察という状態はどうも性に合わない。さっさとかっさばいて取ってすっきりしたい。少々のリスクや傷跡は、まあしかたのないことである。死ぬ可能性はいつだってあるのだ。毎年更新している遺書を書き直しておこう。そこまで考えて時計を見ると、医師のせりふから五秒が経過していた。
 やっちまいましょう、手術。そう宣言した。医師は職業的な笑顔で、それではゆっくり決めてください、と言い、診察を終了させた。何が「それでは」だ。もう決めたと言っているのに。
 自分の病気に関する情報はいちおう集めた。ただ、わたしは思うんだけれど、情報収集能力や情報処理能力があればものごとが決められるというものではない。情報がじゅうぶんに与えられて決断するという場面はむしろ少ないからだ。わたしたちはしばしば、決定のためのリソースを欠いたまま岐路に立つ。何かをすることはもちろん本人の意思だけれども、しない、というのも、一見決めていないように見えて、結局のところ本人の決定の一種である。それなら明確に決めたい。
 たいていのものごとは放っておくと現状が維持されるように見える。けれども実はそうではない。現状維持というのはまぼろしだ。わたしたちは刻々と老いて死に向かっているのだし、周囲の環境だって「維持」なんかされるはずがない。わたしたちは時間が経つにつれ少しずつ可能性をうしない、選択肢をうしない、何かを積み上げている。良くも悪くも。それなら選択肢をきっちり見て能動的に決断したほうが寝覚めがよい、とわたしは思う。
 それはさあ、と友人が言う。思いきりが良いように見えるけどさ、最適なタイミングまで待てない愚か者のやり方じゃないかなあ。めったなことでは死んだりしない手術だってあんたは言うけど、死ななきゃいいってもんじゃないでしょう。メスを入れるって結構なことだよ。切らなくて済むならそれに越したことはない。ていうか、手術するならするで、まあいいんだけど、なにも告知されたその場で決める必要はないでしょう。ちょっと間を置きなよ。誰かに相談するとか。あんたと一緒に住んでる男はなんだ、棒っきれかなにかか。
 とにかくさっさと切っちゃいたいの、一日も早く。そう答えてからわたしは、その理由を思いついて、話す。わたしは、手術そのものより、「結局は手術しなければならないかもしれない」と思い続けているほうがいやだ、というか、「切らなくて済むかもしれない」と期待してあとでがっかりするのがいやなんだと思う。
 あんたって、こらえ性がないよね。友人が言う。なんていうか、確率の低い希望に対する耐性がない。あんたから聞いたぎょっとするようなせりふ、だいたいその耐性のなさによるものだって気がしてきた。たとえばさ、仕事の愚痴を言う人がみんな職場改善したいとか転職したいとか思ってるわけじゃないんだよ、なんとなく「もっとましにならないかな」って思ってるだけなんだよ、あんたには信じられないだろうけど。そうだ、「結婚したい」っていう人に「じゃあ具体策を練ろう、私の知り合いを紹介しようか?あれはどう?これは?」って提案しだしたこともあったよね。「結婚したい」って口にしたほうはさ、「今すぐさまざまな方法を試し一定期間のうちに伴侶を見つけたい」とは言ってないわけ。あの話しぶりだと、「自然にいい人があらわれてなんとなくうまくいって結婚できたらいいのにな」っていう程度だったんだと思う。あんたはそういうぼんやりした希望みたいなものを人生から排除してるんだよ。
 だってそんな、口あけてたら飴が落ちてくるみたいな現象、あるわけないじゃん。わたしはそう反論しかけ、それから口をつぐんだ。あった。想像さえしていなかったような、都合の良いお話みたいな幸運は、わたしの人生にも、あった。それは交通事故みたいに突然やってきた。しかも一度ではなかった。飴どころか、もっとずっと、いいものだった。
 友人は言う。世の中はけっこう甘い。世界はときどきやさしい。フィクションならご都合主義だと言われるようなことだって起こる。それをあてにするのはまちがっているかもしれないけど、そんなのあるわけないって決めてかかって幸運をぞんざいにあつかうのも正しくはないと思うよ。いっけん勇ましいように見えるけど、恐がりやの過剰防衛というものだよ。決断力があるのはとってもいいことだ。いいことだけど、あんたの場合は、もうちょっと世界に期待したほうがいいと思う。

可能性を燃やす

 わたしたちはずっと夫婦ふたりで暮らしている。学生時代からのありふれたつきあいで、双方が二十七になる年に結婚した。わたしは子どもを産んでも仕事を辞めるつもりはなかったし、夫もそれに同意していた。わたしたちはそれぞれ、一人で暮らすぶんには問題がなかった。だからふたりで暮らすぶんにも問題ないだろうと、そのように甘く考えていた。わたしたちは家事を回し、どちらかが出張に出かけ、どちらかあるいは両方が忙しくなって家事のバランスが狂い、壮絶なけんかをした。それから少しの時間をかけて、あやうくバランスをとった。

 わたしたちの家庭に歪なところがなかった、とは言わない。新婚当初はあきらかにわたしの負荷が大きく、わたしはしばらくそれに悩み、そのあとシリアスな話し合いと一度の家出をし、また話をして、それからしばらく右往左往して、どうにかおさまった。わたしはそのように記憶している。夫はそれほど大きな問題はなかったと思っているようだ。あの家出は夫がわたしの誕生日を忘れたからだと、そう記憶しているようだった。誕生日?

 どちらの記憶が正しいか追求するつもりはない。栓ないことである。わたしたちは裁判をしているのではない。家庭を築いているのだ。記憶の食い違いくらいたいしたことはない。わたしがまちがっている可能性だってなくはないのだし。そう思ってわたしは、あいまいに笑う。

 わたしたちは夫婦ふたりきりで暮らしている。わたしたちは今年で四十になる。その事実はごくゆっくりした間欠泉のように、あるいは水中深くに潜ったくじらの漏らす息のように、不意に意識に浮かんでくる。わたしたちは仕事をする。わたしたちは食事を作る。わたしたちは皿を洗う。わたしたちは眠りに就く。

 三十過ぎまで、自分のせいだと思っていた。そのときは悩んでいたつもりだったけれども、それほど深刻ではなかった。三十二のとき、ほとんど確認のような気持ちで不妊検査をした。治療にいくらかかるかなあと思ってため息をついた。検査の結果を聞きに行ったとき、は?とわたしは言った。ふだんはそんな言葉遣いをしない。あのときだけだ。だって、医者が、わたしに異常がないなんて言うから。

 そんなことはまったく想定していなかった。子ができないのはわたしが不妊症だからで、治療してどうにかなればよいが、もしかすると子を諦めなければならないかもしれないと、そう思っていた。それしか思っていなかった。わたしはその検査結果を握りつぶした。

 それから数年は、待っていたように思う。夫が不満を口にするだろうと思って、待っていた。たぶん。一度だけ、親戚の子が遊びに来たあとで、うちには来ないねえ、と言った。そうだねとわたしはこたえ、それから黙った。そのあと夫が何を話したかは覚えていないが、少なくともわたしたちの子どもについての話ではない。それだけは確かだ。

 わたしは何を避けているのだろうか、と思う。わたしは何を避けて、そのために子どもを産む可能性をうしないつつあるのだろうか。否、うしなうのではない、投げ捨ててきたのだ。何年もかけて、少しずつ燃やすみたいに。どうして?夫のせいで子ができないとわかるのがいやだったのか。少し考えて、否、と思う。それを想像しても、それほど怖くはない。

 漠然とした疑惑だけがずっとあった。わたしのせいではなく、あなたのせいではなく、わたしたちの組み合わせが、だめなんじゃないのか。

 わたしが怖かったのはきっとそちらのほうだ。子が持てないこと自体がそんなにも恐ろしいのではなかった。数年前、自分が不妊でもまあしょうがないやと思って病院に行ったのだ。わたしが怖かったのは、わたしと誰か別の男性、夫と誰か別の女性であればぱっと子どもができる、という可能性だった。そこに思いが至ると、目の前がさっと白くなった。わたしがずっと恐れていたのはこれだったのだ、と思った。言語化と自覚を抑圧するほどに強く怖れていたこと。

 どうして今ごろ自覚したんだろう。そう思う。少なくとも自分は誰が相手でもそうそう子どもはできない年齢になったからかな、と思う。夫はまだ可能性があるのに、と思う。わたしはなにがそんなに怖かったのだろう。

 わたしの中に長いことあったはずの恐怖はもうぼんやりとした記憶に変じていた。数分しか経っていないのに、今はもう、怖かったことだけを覚えていて、どうして怖かったのかはわからないのだった。夫に言おう、と思った。子どもについての話をしよう。わたしたちが夫婦ふたりきりでずっと暮らしてきたことについて話をしよう。

堆積する鎧

 お盆の東京は寂しくて好きだ。みんなどこか楽しいところ、美しいところへ行ったのだ、と思う。よかったなあ、と思う。もちろんどこへも行かない人もいる。私もそうだし、これから尋ねる友人もそのひとりだ。

 彼女は夫と娘の三人暮らしだ。お盆のあいだ、夫は娘を連れて彼の故郷に戻っている。夫はねえ、と彼女は言った。わたしが調子悪いときにはあまり家にいないの。自分の仕事と娘の面倒見るのに専念すればいいから楽といえば楽かな、娘はもうそんなに手がかからないし。

 おじゃまします、と私は言う。よろしくお願いします、と彼女が言う。玄関をあけると箱が積み重なっている。シューズクローゼットが少しひらいていて、傾いだ靴がのぞいている。リビングは少しごたついているけれども、ひどく散らかっているというほどではない。子ども部屋も似たような感じだ。問題は寝室である。衣類や書籍、小型の家具、空き箱などが不規則に詰め込まれ、文字どおり足の踏み場がない。ベッドの上、枕のあるべき位置には横倒しの電気スタンドと子どもの靴下、それになぜか、きれいな空き瓶があった。

 彼女のすみかがこのようになるのは八年ぶり五回目である。結婚前はすみか全体が、結婚後は寝室と台所が、なぜだかカオスに飲みこまれる。いつもではない。いつもはふつうだ。調子を崩すとあっというまにものが増え、混沌を形成する。徐々に間遠になりながら繰り返し起きている。前回は産後の育児休暇中だった。

 それが起きたとき、私は彼女の家に行く。私は掃除が得意なのではない。自室の隅の埃は見て見ぬふりをしている。ただ、やたらとものを捨てる。そういう性分なのだ。自宅に不要なものがない、といえば聞こえが良いが、どうかすると必要なものもない。「常時夜逃げ前のような女」などと言われる。他人のものでも許可があればにこにこして捨てる。そんなだから、彼女は私を呼ぶ。

 この靴いいね、と私は言う。彼女はあいまいにうなずく。そしてその靴を履く。どう、と訊くと、足が痛いと応える。私はその靴をゴミ袋に入れる。この靴は底がすり切れているね、捨てる。そう言うと彼女はやはりあいまいにうなずく。私はその靴と似た色とかたちのものを探し、彼女に履かせる。それを繰り返す。

 ゴミはゴミ袋に入れて積み上げる。人によっては資源というのだろうし、彼女の家の場合、ほとんど新品みたいな製品も少なくない。パッケージに入ったままのものさえある。リサイクルしなくては、有効活用される場所もあるだろう、とっておけば使うだろう。そういう考えは、私にはない。そんなことができる状態なら他人に助けを求めない。

 彼女にはゴミ袋に入れるところを見ていてもらい、止めたいときに止めてもらう。どうしようもなく迷ったものはミカン箱ひとつの範囲で迷い続けてもらう。彼女の場合、八年前になかったものがほとんどだから、迷いの範疇は比較的狭くて済む。精神力が落ちるとまずできなくなるのが判断である。だからあまりに具合が悪いさなかには、彼女は私を呼ばない。私のすることは結局のところ判断の強要だと知っているのだ。

 たくさん買ったねえ、と私は言う。たくさん買ったんだねえ、と彼女も言う。寝室で大量のパッケージごみを捨て、書籍を古書店行きの箱に詰め、残す服を決めるためのファッションショーをやっているときだった。すてきな服だねえ、と私は言う。本もたくさんあるねえ。

 捨てるものを詰めた袋や箱が積み上がった寝室で彼女は言う。これはね、わたしの鎧だったものなの。わたしは不安になるとものを買うの。家事がうまくこなせないと家電やキッチン小物や掃除用具を買う、自分の能力が足りないと感じたら育児書やビジネス本を買う、醜くなってしまったと思ったら服や化粧品を買う、そして少し安心する。

 そうか、と私は言う。安心するなら買ったらいいよ。でもあなたは醜くなんかないし、有能だし、家だっていつもはちゃんとしてるよ。わかってる、と彼女は言う。ものを手に入れると安心するけど、でも、これじゃないって、いつも思ってる。気がついたら調子が悪くて、なんだかぼんやりして、ものがたくさんあるとぼんやりしてても苦しくなくて、後ろめたいのにやめられなくなる。もういい年で、自分のパターンもわかってるから、調子が戻ったら買わなくなるんだけど、そうなると溜まったものをどうやって捨てていいかわかんなくなっちゃって。何で繰り返すのかな。いいじゃん、と私は言う。繰り返せばいいじゃん。五年や十年に一回具合が悪くなるなんて、むしろ健康だよ。私だって別の具合の悪くなりかたしてるよ。