傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

堆積する鎧

 お盆の東京は寂しくて好きだ。みんなどこか楽しいところ、美しいところへ行ったのだ、と思う。よかったなあ、と思う。もちろんどこへも行かない人もいる。私もそうだし、これから尋ねる友人もそのひとりだ。

 彼女は夫と娘の三人暮らしだ。お盆のあいだ、夫は娘を連れて彼の故郷に戻っている。夫はねえ、と彼女は言った。わたしが調子悪いときにはあまり家にいないの。自分の仕事と娘の面倒見るのに専念すればいいから楽といえば楽かな、娘はもうそんなに手がかからないし。

 おじゃまします、と私は言う。よろしくお願いします、と彼女が言う。玄関をあけると箱が積み重なっている。シューズクローゼットが少しひらいていて、傾いだ靴がのぞいている。リビングは少しごたついているけれども、ひどく散らかっているというほどではない。子ども部屋も似たような感じだ。問題は寝室である。衣類や書籍、小型の家具、空き箱などが不規則に詰め込まれ、文字どおり足の踏み場がない。ベッドの上、枕のあるべき位置には横倒しの電気スタンドと子どもの靴下、それになぜか、きれいな空き瓶があった。

 彼女のすみかがこのようになるのは八年ぶり五回目である。結婚前はすみか全体が、結婚後は寝室と台所が、なぜだかカオスに飲みこまれる。いつもではない。いつもはふつうだ。調子を崩すとあっというまにものが増え、混沌を形成する。徐々に間遠になりながら繰り返し起きている。前回は産後の育児休暇中だった。

 それが起きたとき、私は彼女の家に行く。私は掃除が得意なのではない。自室の隅の埃は見て見ぬふりをしている。ただ、やたらとものを捨てる。そういう性分なのだ。自宅に不要なものがない、といえば聞こえが良いが、どうかすると必要なものもない。「常時夜逃げ前のような女」などと言われる。他人のものでも許可があればにこにこして捨てる。そんなだから、彼女は私を呼ぶ。

 この靴いいね、と私は言う。彼女はあいまいにうなずく。そしてその靴を履く。どう、と訊くと、足が痛いと応える。私はその靴をゴミ袋に入れる。この靴は底がすり切れているね、捨てる。そう言うと彼女はやはりあいまいにうなずく。私はその靴と似た色とかたちのものを探し、彼女に履かせる。それを繰り返す。

 ゴミはゴミ袋に入れて積み上げる。人によっては資源というのだろうし、彼女の家の場合、ほとんど新品みたいな製品も少なくない。パッケージに入ったままのものさえある。リサイクルしなくては、有効活用される場所もあるだろう、とっておけば使うだろう。そういう考えは、私にはない。そんなことができる状態なら他人に助けを求めない。

 彼女にはゴミ袋に入れるところを見ていてもらい、止めたいときに止めてもらう。どうしようもなく迷ったものはミカン箱ひとつの範囲で迷い続けてもらう。彼女の場合、八年前になかったものがほとんどだから、迷いの範疇は比較的狭くて済む。精神力が落ちるとまずできなくなるのが判断である。だからあまりに具合が悪いさなかには、彼女は私を呼ばない。私のすることは結局のところ判断の強要だと知っているのだ。

 たくさん買ったねえ、と私は言う。たくさん買ったんだねえ、と彼女も言う。寝室で大量のパッケージごみを捨て、書籍を古書店行きの箱に詰め、残す服を決めるためのファッションショーをやっているときだった。すてきな服だねえ、と私は言う。本もたくさんあるねえ。

 捨てるものを詰めた袋や箱が積み上がった寝室で彼女は言う。これはね、わたしの鎧だったものなの。わたしは不安になるとものを買うの。家事がうまくこなせないと家電やキッチン小物や掃除用具を買う、自分の能力が足りないと感じたら育児書やビジネス本を買う、醜くなってしまったと思ったら服や化粧品を買う、そして少し安心する。

 そうか、と私は言う。安心するなら買ったらいいよ。でもあなたは醜くなんかないし、有能だし、家だっていつもはちゃんとしてるよ。わかってる、と彼女は言う。ものを手に入れると安心するけど、でも、これじゃないって、いつも思ってる。気がついたら調子が悪くて、なんだかぼんやりして、ものがたくさんあるとぼんやりしてても苦しくなくて、後ろめたいのにやめられなくなる。もういい年で、自分のパターンもわかってるから、調子が戻ったら買わなくなるんだけど、そうなると溜まったものをどうやって捨てていいかわかんなくなっちゃって。何で繰り返すのかな。いいじゃん、と私は言う。繰り返せばいいじゃん。五年や十年に一回具合が悪くなるなんて、むしろ健康だよ。私だって別の具合の悪くなりかたしてるよ。