傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

可能性を燃やす

 わたしたちはずっと夫婦ふたりで暮らしている。学生時代からのありふれたつきあいで、双方が二十七になる年に結婚した。わたしは子どもを産んでも仕事を辞めるつもりはなかったし、夫もそれに同意していた。わたしたちはそれぞれ、一人で暮らすぶんには問題がなかった。だからふたりで暮らすぶんにも問題ないだろうと、そのように甘く考えていた。わたしたちは家事を回し、どちらかが出張に出かけ、どちらかあるいは両方が忙しくなって家事のバランスが狂い、壮絶なけんかをした。それから少しの時間をかけて、あやうくバランスをとった。

 わたしたちの家庭に歪なところがなかった、とは言わない。新婚当初はあきらかにわたしの負荷が大きく、わたしはしばらくそれに悩み、そのあとシリアスな話し合いと一度の家出をし、また話をして、それからしばらく右往左往して、どうにかおさまった。わたしはそのように記憶している。夫はそれほど大きな問題はなかったと思っているようだ。あの家出は夫がわたしの誕生日を忘れたからだと、そう記憶しているようだった。誕生日?

 どちらの記憶が正しいか追求するつもりはない。栓ないことである。わたしたちは裁判をしているのではない。家庭を築いているのだ。記憶の食い違いくらいたいしたことはない。わたしがまちがっている可能性だってなくはないのだし。そう思ってわたしは、あいまいに笑う。

 わたしたちは夫婦ふたりきりで暮らしている。わたしたちは今年で四十になる。その事実はごくゆっくりした間欠泉のように、あるいは水中深くに潜ったくじらの漏らす息のように、不意に意識に浮かんでくる。わたしたちは仕事をする。わたしたちは食事を作る。わたしたちは皿を洗う。わたしたちは眠りに就く。

 三十過ぎまで、自分のせいだと思っていた。そのときは悩んでいたつもりだったけれども、それほど深刻ではなかった。三十二のとき、ほとんど確認のような気持ちで不妊検査をした。治療にいくらかかるかなあと思ってため息をついた。検査の結果を聞きに行ったとき、は?とわたしは言った。ふだんはそんな言葉遣いをしない。あのときだけだ。だって、医者が、わたしに異常がないなんて言うから。

 そんなことはまったく想定していなかった。子ができないのはわたしが不妊症だからで、治療してどうにかなればよいが、もしかすると子を諦めなければならないかもしれないと、そう思っていた。それしか思っていなかった。わたしはその検査結果を握りつぶした。

 それから数年は、待っていたように思う。夫が不満を口にするだろうと思って、待っていた。たぶん。一度だけ、親戚の子が遊びに来たあとで、うちには来ないねえ、と言った。そうだねとわたしはこたえ、それから黙った。そのあと夫が何を話したかは覚えていないが、少なくともわたしたちの子どもについての話ではない。それだけは確かだ。

 わたしは何を避けているのだろうか、と思う。わたしは何を避けて、そのために子どもを産む可能性をうしないつつあるのだろうか。否、うしなうのではない、投げ捨ててきたのだ。何年もかけて、少しずつ燃やすみたいに。どうして?夫のせいで子ができないとわかるのがいやだったのか。少し考えて、否、と思う。それを想像しても、それほど怖くはない。

 漠然とした疑惑だけがずっとあった。わたしのせいではなく、あなたのせいではなく、わたしたちの組み合わせが、だめなんじゃないのか。

 わたしが怖かったのはきっとそちらのほうだ。子が持てないこと自体がそんなにも恐ろしいのではなかった。数年前、自分が不妊でもまあしょうがないやと思って病院に行ったのだ。わたしが怖かったのは、わたしと誰か別の男性、夫と誰か別の女性であればぱっと子どもができる、という可能性だった。そこに思いが至ると、目の前がさっと白くなった。わたしがずっと恐れていたのはこれだったのだ、と思った。言語化と自覚を抑圧するほどに強く怖れていたこと。

 どうして今ごろ自覚したんだろう。そう思う。少なくとも自分は誰が相手でもそうそう子どもはできない年齢になったからかな、と思う。夫はまだ可能性があるのに、と思う。わたしはなにがそんなに怖かったのだろう。

 わたしの中に長いことあったはずの恐怖はもうぼんやりとした記憶に変じていた。数分しか経っていないのに、今はもう、怖かったことだけを覚えていて、どうして怖かったのかはわからないのだった。夫に言おう、と思った。子どもについての話をしよう。わたしたちが夫婦ふたりきりでずっと暮らしてきたことについて話をしよう。