傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

俺に口を利くなというのか

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのときわたしは一人暮らしだった。こんな世の中だから、とわたしの交際相手は言った。不安だよね。一緒に暮らそう。結婚しよう。
 そうしてわたしたちはたがいの両親に会い、いささか古いと思いながらも「婚約」というプロセスもやることにした。区役所に婚姻届を出す前に結婚式の準備をしながら同居して生活を整える期間をもうけたのだ。
 結果として、これは正解だった。さっさと籍を入れていたらより面倒なことになったはずだからだ。婚約してよかった。そう、わたしは婚約から半年後、それを破棄したのである。

 最初に疑問を感じたのは彼の「いいよ」ということばだった。
 結婚すると決めて以降、この小さなことばの使い方が、ほんの少し変わったように感じたのだ。それまでは「コンビニ寄っていい?」「いいよ」といった使い方だった。これはぜんぜんおかしくない。友だちにも親きょうだいにも言うし、言われる。
 わたしたちはともにフルタイムで、生活費を等分に負担した。一方、家事はわたしのほうが多く負担した。それ自体についてはわたしも了承していた。彼の家事能力は低い。完全な公平を追究することは難しい。そのときどきで多少負担が偏ってもできる範囲で協力しあうのがいいかなと思った。
 彼がわたしの手料理を食べたいと言うので、わたしは彼に炊事と掃除を分担することを提案し、彼は了承した。彼はロボット掃除機を走らせ、風呂掃除をした。わたしはそれを褒めた。ほんとうは彼が「どうしてもできない」と言い張るトイレ掃除や、当然のように手をつけない洗面台の掃除も彼がするべきだとは思ったけれど。
 ある日、わたしは彼にこう言った。今日はカレイが安かったから煮付けにしたよ、あと冷凍庫に半端な量の豚バラが余ってたから冷しゃぶっぽくサラダ仕立てにした。すると彼は食卓を見回して、少しだけ間をあけ、こう言った。いいよ。

 わたしはその夜、よくよく考えた。たったのひとことだし、本人に確認できるようなことでもない。だから暫定的な判断ではあるのだが、あれは「許可」だった。割り当ての家事をした人へのお礼ではない。「不満はあるが、許す」という意味だった。

 それからわたしはやや敏感になった。わたしの行動への許可のような「いいよ」、あるいは却下のような「へえ」「そうするんだ」が出るたびに、はっきりと言った。わたしは、これって、あなたの許可を貰うことじゃないと思う。すると彼は誤解だと言い、ホルモンバランス、とつぶやいた。
 彼はわたしと食事をともにしないことが増えた。ふたりとも働いているから不自然ではないが、意図的にずらしているようにも思われた。いい気分ではなかった。
 彼がわたしの作ったものをひとりで食べると、一人で食べたときには洗っておくという合意を取った食器以外のもの(ドレッシングとか)を食卓に置き去りにするので、それが地味にイヤだった。そういうの片づけてよとわたしは言った。
 彼は返事をしなかった。のちに共通の知人から聞いたところによれば「あいつ口うるさいんだよ。俺も最初は下手に出ちゃったから、それが悪かったんだよな」と言っていたそうだ。

 二つ目に疑問を感じたのは「クイズ」だった。
 わたしは料理を担当するから、余裕があればリクエストを聞く。その日もそうした。鶏モモがあるんだけどチキンカレーと唐揚げとどっちがいい?
 彼は「あ、考えて」というようなことを言った。だからわたしは自分が食べたかった唐揚げにした。
 すると彼は特段に陽気な、上機嫌な、そのくせどこか逼迫した気配を含んだ声で、言った。いやー、惜しいなあ。チキンカレーなら正解だったんだけどな。

 正解?

 わたしは唐揚げをむしゃむしゃ食べた。わたしの唐揚げはうまい。
 食べながら理解した。彼はわたしをジャッジする立場でいたいのだ。いたいというか、自分をそういう立場だと思っていて、その立場を確認するために許可を出したりクイズを出したりしているのだ。

 わたしは第三者を入れた話し合いの場をもうけ、メモをもとに「だから別れてくれ」と説明した。すると彼は見たこともない顔で(なんというか、ほとんどハイみたいな顔で)言った。俺に口きくなって言うの? そんなことが不満なんだったら口きけないじゃん、おまえと、誰も。
 彼がわたしを「おまえ」と呼んだのはその一度きりである。心の中ではずっとそう呼んでいたのだろうなと思った。

 そうしてわたしは婚約を破棄した。
 わたしが思うに、彼は相手の上か、さもなくば下かでないと、口をきけないのである。