傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

こいつも仲間じゃなかった

 読み終わった小説やマンガは人にあげる。家に置くときりがないからである。たいていのものは読んでくれそうな人がいて、会うときに持って行ったり、段ボールで送りつけたりしている。

 いつもマンガを引き取ってくれる友人が言う。そういえばマンガ家の、ほらこないだデビュー作をくれた、あの人、二作目を出すみたいだよ。私はそれを聞いて、誰だろ、と言う。友人はちょっと眉を寄せてそのマンガのタイトルを口にする。こないだあんたがくれたマンガだよ、忘れちゃったの?

 忘れていた。言われてみれば読んだ。いま思い出した。私がそう言うと、友人はちょっと上半身をそらして私をながめ、それから、小さい声で言った。ちょっと前からどうもおかしいと思ってたんだけど、あんた、家族愛にあふれたマンガなら平気で楽しく読むくせに、「親兄弟と不仲だった主人公が仲直りする」みたいな展開はすごく嫌いだよね。嫌いっていうか、記憶から消すよね、存在を。あのマンガ家のデビュー作は主人公が家出する話だった。二作目は実家に帰って親と仲直りする話だっていうじゃない。あんた、そのパターンだと、消すよね、読んだ記憶を。

 そうかな、と私は言う。そうだよ、と友人は言う。間違いないよ。毒親ものが流行した時期あるじゃん、そのときに薄々、気づいたんだよね。あんたは、家族愛もの、OK、主人公が新しい家族を作る展開、OK、でも「昔は親を憎んだけど、やっぱり親子の愛情は大切」だけはNG。脳から抹消してる。

 言われてみれば、好みではない、と私は言う。言いながら考える。この友人の言うことはたぶん正しい。私はもともと忘れっぽいが、嫌いになったものはよりすみやかに忘れるところがある。仕事や継続的な人間関係ならいざしらず、娯楽として消費しているコンテンツならいくら忘れても誰も困らない。だから今の今まで指摘されたことがなかったのだろう。そして友人の言うとおり、私は主人公親子が仲直りする展開がすごく嫌いだ。正確に言うと、「ひどい親でも憎めない」「愛してしまう」という展開がいやなのである。どれくらいいやかというと、目の前にあっても焦点がぶれて認識しないくらい。

 実際の親子関係でそうした事例が多いことは私だって知っている。虐待された子どもでも最後まで痛ましく親の愛を求めるのです、みたいな話は、もちろん見聞きしている。だからフィクションでもそれが「リアリティがある」とわかっている。でも私はそれを認めるわけにはいかないのだと思う。認めたら私の人生の基盤が崩れるからである。私には幼いころの記憶がほとんどなく、わずかな記憶をひっかきまわしても両親に対する愛着が一切見当たらない。十五の時分にカルト宗教が地下鉄に毒ガスを撒いたときなど、はっきりと「通勤中の父親が死んでたらいいな」と期待した。

 殺されるほどひどい目に遭った子どもでも健気に親の愛を求め家庭という場に執着するというのに、私のこの冷酷さはなんだ。人格上の問題があるのではないか。あったって私としてはかまいやしないが、他人からそのように認識されるのは不利だ。十八くらいのときにそう思って、親族に関する質問をされたら適当な作り話をすることにした(作り話はわりと得意である)。月日が経つごとにいっそうきれいさっぱり生家の存在を忘れ、愉快に生きてきた。

 まあいいんじゃない。友人が言う。あんたの場合、それ以外の戦略は、ちょっと思いつかないもん。あんたは、図太いから、若いころから、ご両親は?とか言われたら平気で作り話して、そんなのなんでもないって顔してきたわけだけど、それは、意地だよね、そんなことでダメージを受けているとはぜったいに思いたくないから、全力で意地張ってたわけだよね、なんでもないわけ、ないよね、あんたはたぶん、自分の仲間がいてほしかったんだよ、フィクションでもいいから、いてほしかった、同じような境遇で同じような感情を持つ誰かがいてほしかった、でもちょっと似た顔つきのキャラクターがいても、よく見たらべつに仲間じゃなかった。それであんたは「なんだ」と思って、そいつを燃えるゴミの日に出した。頭の中から消した。最初からどう見ても仲間じゃないものにはそういう感情は起きない。仲間かな?と思ってそうじゃなかったから、あんたはそれを憎んだんだ。そしてあんたが何かを憎むときのやりかたは「忘れる」なんだ。かまいやしないよ、消しちまいな、あんたの世界から。