梅雨だからといって四六時中雨が降っているのではない。今は雨が洗い流したあとに陽の差している美しい午前で、窓の外のごみごみした風景でさえ、内側から発光しているように見える。目の前の景色なのに遠いところのように見える。美しいものはなぜだか遠くにあるように感じられる。すぐに落とすから、化粧は日焼け止め程度にする。ヒールのないサンダルを履く。
自宅を出る。はす向かいの建物の外階段に青年がふたり座っている。今日は平日だけれど、言うまでもなく、平日に働いている人間ばかりでこの世ができているのではない。青年たちは飲みものを片手に笑顔で語らっている。彼らの視界にわたしが入る。彼らはちょっと首をのばしてわたしを見る。わたしは軽く会釈する。ひとりが会釈をかえす。はす向かいの建物はタイル張りも愛らしい古い個人住宅で、しばらく人の気配がなかった。新しい住民が入ったのだろう。わたしは歩く。角を曲がるとにぎやかな外国語が聞こえる。外国人向けの語学学校があって、生徒たちがたむろしているのだ。彼らはわたしを見る。彼らはみな若い。
わたしは歩く。道路にはみ出して植木鉢を置いている家の、その植木鉢のあいだにちいさな椅子があって、朝な夕な老人が座っている。彼はゆったりとたばこをふかし、そのほかにはなにもしない。わたしは会釈する。彼も会釈をかえす。わたしはいつか彼と話をしてみたいと思う。わたしには自分よりうんと年上の人間と話す機会がない。初老の者として、老人の先輩に聞いてみたいことがいくつかある。若い人たちの美しさを見てどのように感じるのだろう。人生が目の前を通り過ぎてしまったと感じたのはいつのことだろう。それとも、いまだにそうは感じていないのだろうか。
わたしは歩く。川を渡る。澄んでいるとはいいがたい東京の川の、それでも昔よりずっときれいになった水面が、直射日光を受けて繊細にまたたく。わたしは区立体育館に入る。プールの入り口に向かう。受付が顔見知りの人でなかったので、こんにちは、と言う。一瞬の硬直ののち、こんにちは、と言ってもらえた。わたしは会釈する。わたしは受付を振り返ってから更衣室に入る。
帰ってくると、はす向かいの家の外階段には青年がひとりだけ腰掛け、頬杖をついてぼんやりしている。わたしはその下を通り過ぎて自宅に入る。単身者が多数を占めるこのマンションで、わたしは少数派に属する。単身者が多い集合住宅は徹底して他者に無関心で、わたしには都合が良い。妻にも都合が良い。
定年退職してから二年少々が過ぎた。すなわち、わたしがいつでも女の格好をするようになって二年、妻とふたりでこの建物に引っ越してきて二年、近隣にあった古い持ち家を処分して二年、娘が寄りつかなくなって二年である。
物心ついたときから、女の格好をすると落ち着く。化粧は楽しい。妻はわりあいに若い時分からそのことを知っている。会社勤めのあいだ、わたしは休日にしかるべき場に出かけ、そこで女の格好をしていた。あるとき妻がその場を見たいというので、連れていった。妻は顔面蒼白となり、しばらく塞いでいたが、そのうち元気になった。
わたしは長い長いあいだ男の格好をして、そのことに疲れた。ほんとうに疲れた。定年が来たら昼日中から女の格好をすると、ずいぶん前から決めていた。だから娘にも見せた。娘は嫌な臭いをかがされた人のように身を引いた。妻があとから聞いたところによると、女装が嫌なのではないという。都内とはいえ離れたところに住んでいるから、世間体を気にしているのでもないという。醜いから嫌だというのだった。美しい者だけが好きな格好をしていいなんて法があるか、あの子の言うことはむちゃくちゃだ。妻はそう言って怒っていたが、わたしは腹が立たなかった。親の醜いところを見たくないというのはある種の愛情である。わたしが男の格好をして娘に会いに行けば済むことだ。
そう思ってもう二年、娘と顔を合わせていない。わたしにも後ろめたさがあったのだと思う。妻はよく行事食をつくって娘に届けている。正月にはおせち、三月にはちらし寿司、五月にはちまき。わたしたちに男の子はいないから、昔は作っていなかった。娘に会う口実がほしくて作るのだろうと思う。娘は元気にしているという。元気ならいいと思う。わたしは長いスカートの裾をさばき、サンダルのストラップを外す。わたしの老いた足首、わたしの無骨な足指。ようやく好きな格好ができるようになったとき、人生はすでにわたしの目の前を過ぎてしまっていた。そう思う。だって、美しいものたちが、こんなにも遠い。