傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

正しさより必要なもの

 ぜったいに病院になんか行きたくないと彼女は言う。ため息をつく。どうして自分の意思に基づいた行動を邪魔するのかと尋ねる。死ぬからだ、と私は思う。このままではあなたが、あなたを必要とする小学生の子どもと夫と老いた両親を残して、死んでしまうからだ。そして病院で治療を受ければそこそこ健康なからだを維持できる見通しが高いからだ。
 そう思う。でも言わない。彼女にとってそれは真実ではない。まったくの嘘っぱちだ。彼女は真実を知り、それについてよく学び、正しい生活をおくり、その結果、多くの人に賞賛され、教えを乞われている。そうして私はいろいろなものに騙され、また怠惰であるために、ろくな人生を送っていない。でも私が特別に罪深いわけではない。多くの人はそうなのだから。ただすこし愚かなだけの、気の毒な人なのだから。
 彼女にとって私はそのような人物だ。だから私が何を言っても耳をかたむけてはもらえない。そんなことは十年前からわかっていた。そのころは彼女もまだ私を見捨ててはいなかった。諭してやればわかるだろうと思っていた。けれども私は彼女の話をまったく理解しなかった。いいのよ、と彼女は言った。寛大な顔をしていた。わからない人もいるわ。
 彼女は少女のころから、添加物だらけの食べ物や残忍な環境で生産される食肉を悪だと思っていた。うつくしくていねいな暮らしをすべきだと思っていた。家庭に入ってからはたいていのものを手作りし、環境問題の勉強もした。母親になり、自然派の育児をこころざしてまもなく、彼女が感じたり考えたりしていたことをしっかりと説明してくれる人に出会った。彼女は確信した。自分はずっと正しかったのだと。
 だから彼女はこの世のことわりを知っている。この世のエネルギーがどのようなしくみで流れているか知っている。誤った食生活がいかに人々をそこなっているかを知っている。彼女はよく学び、しっかりと実践した。家庭を第一にしながらも、乞われて正しい料理を教え、健康についての相談にのり、先生と呼ばれていた。
 私にいわせれば彼女の信奉する理論とやらは完全な妄言だ。玄米や菜食や少食はふだん飽食な人が取り入れるから「ヘルシー」なのだ。投薬や予防接種を拒否する理由は何度聞いても理解できなかった。私が肉食や飲酒でからだに大量の毒をたくわえ、いずれ病気になるにちがいなく、不健康に肥満していると彼女は言った。私の体重を聞き出して計算してみせ、BIM19を超えているなんて恥ずかしくないのかと呆れた。私は肥満ではなく、健康診断でも引っかかったことがない。彼女は栄養失調ではないかと思う。子どもは給食と父親の与えるもので、父親は自分で、栄養バランスを整えている。彼女には言わずに。
 ねえ、と私は言う。あなたの正しさを理解しているお医者さんを見つけたの。自然派の治療法と自分の仕事を車輪の両輪ととらえて、害のない範囲で処置をするのですって。あなたが学んだ塾の先生もお墨付きを与えているの。私、叱られちゃった。なんにもわかってないって。きちんとした生活をしている人をよく診ているから、私みたいな生活をしてる人間が行くと腹が立つみたい。
 もちろん、嘘だ。その医師は妄言を信じて根拠のない「治療法」に頼って亡くなった患者のことを忘れず、そのような患者をまずは頭から否定せず医療につなげ、命だけは救いたいと考えているのだという。彼女が信じる「正しい生活」を推進する団体も、その医師については認めていた。標準的な医療を全否定して信者(とは彼らは言わないが)におおっぴらにばんばん死なれても困るという商売上の理由だろうと私は思う。
 彼女は半月前、意思表示が困難になるほど体調を崩して強制的に検査を受けさせられた。その結果を受けて夫と両親が彼女を説得したが、聞き入れられることはなかった。だから私の言うことなんか聞かないと思う。けれども、彼女の正しさを担保している人々が認めているから、行くかもしれなかった。彼女たちの「お手当て」に気のせい以上の効果はない。彼女を否定しない人のところに行って、それで苦痛が減れば、継続して治療を受けるかもしれない。
 彼女が伏せっている部屋を出る。大きくため息をつく。二十分かそこいらで、ひどく疲れていた。彼女が病院に行きますように、と思う。助かりますようにと思う。私だって病気になってひどく辛かったらどんなばかみたいな「治療法」にだってすがると思う。彼女もそうであってほしいと思う。私はみずからの信じる正しさに殉ずることなんかできない。私は嘘をつく。私は人を騙す。私は愚かで一貫性なんかない。