傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

瓶詰めにできないシステム

コンサート、よかったら一緒に予約しておくよ、と彼女が言うので、ありがたくお願いした。彼女は自分と夫と私、それにもう一人の友だちのチケットを押さえた。
終演後の会場から駅に向かって歩きながら、私は彼女にこっそり訊いてみる。ねえ、どうして私とかも誘ってくれたの。前は旦那さんと二人で行ってたじゃない。彼女は前方に目を遣る。べつの友だちが手振りをまじえて彼女の夫に話しかけながら歩いている。
彼女と彼女の夫は共に社交的とはいえないたちで、いつもふたりでいることを好んでいた。彼らは特別にあつらえた空気に包まれているように見えた。彼らふたりが慎重に配合した、私たちが不用意に吸ってはいけない空気だ。
コリドーって知ってる、と彼女は言った。こり、なに、と私が訊きかえすと、彼女は、水辺なんかで生態系のありかたを観察したことはある、と質問を重ねる。私はおぼつかなくこたえる。えっと、なんか、小さい池とかで、ぐるっと生命が循環するようになってるの見たことある、大きい公園で。そう、そういうのを指してビオトープということもあるね、と彼女は言う。学習用に小さいサイズの生態系をつくって子どもに見せたりするの、観察したことある?ない、と私はこたえる。じゃあ想像してと彼女は言う。
ビオトープを観察するとよくわかるんだけど、生態系は瓶詰めにできない。必ず他の生態系と隣接している。そうでないと維持できないの。ある生態系を破壊したとする、そうすると隣接している生態系も強い影響を受ける。一緒に破壊されることもある。だから、たとえばある生態系と別の生態系との間を隔てる人工物を構築せざるをえないとき、隣接すべき生態系とのあいだに道を通しておく。それがコリドー。
ふむふむと私はうなずく。私は知らないことばについて、それをよく知っている人から説明されるのが好きだ。エキスパートによるその分野の基礎的な語の説明は音楽的な響きをもつ。生態系についてでも、先物取引についてでも、旋盤加工についてでも。
他の生態系との接点が小さければ小さいほどその生態系はもろい、と彼女は続ける。とくにそのものが小さく、構成要素が少なくて孤立しているものはもろい。まして隔絶させることはできない。エコシステムは瓶詰めにすることができないんだよ。
透明なアクリルの球のなかに水と砂と少しの水草とちいさい魚を入れて閉じこめた商品を見たことがあるよ、と私は言う。あれは瓶詰めにした生態系ではないの。
気体を入れる管はついていなかった、と彼女は訊く。ついていたかもしれないと私はこたえる。魚が死んだらどうなると彼女は訊く。循環が止まるねと私はこたえる。彼女はほとんど楽しそうに言う。十全な環境でも小さい魚の寿命は短い、魚が腹を上にして浮いたらそれが全体の腐敗のはじまり、水草は死ぬ、水は腐る、砂のあいだに細菌がはびこる、すべては濁って、持ち主はクリア・アクリルの球の捨て方に少し困る。そのおもちゃにはそれだけの寿命しかない。寿命が長いのがえらいのではないけれど、でも長生きなのはやっぱりいいことでしょう?
そうだねと私は言う。私の話したことなんとなくわかった、と彼女は訊く。なんとなくわかった、と私はこたえる。たいしてわからなくていい、想像してくれればいい、これは、比喩だから、と彼女は言う。私はびっくりして、今の比喩なの、と訊きかえす。彼女は可笑しそうに笑って言う。説明の内容はおおよそ間違ってない、生態系を私たちの比喩として受けとってちょうだい、という意味。
彼女のことばを少し耳の中でころがしてから、コリドーを通しているのと私は訊く。コリドーを通しているのと彼女はこたえる。私たちは、ふたりだけでいたい、あなたたちは邪魔だよ、私たちのほか世界に誰もいないのがいい、私たちは私たちを瓶に詰めて箱の中にしまっておきたい、瓶の中身が腐ってどろどろに溶けてしまうまで。
反社会的だなあと私は言う。恋愛は反社会的なものだよと彼女は言う。でも邪魔がないと私たちはきっとどんどんもろくなってしまうからね、意図的に社会的なおこないを注入している。つまり私たちは今、私たちを長持ちさせるために、私たちを薄めているの。それが家庭のあるべき姿だと思って、そうしてる。なにしろ家庭って、社会的なものだからね。