傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

仮定による傷、処方としての贈与

災害のためでなく、もとより私たちのあいだには電話を使う習慣がなかった。ふたりともけちなのだ。だからおしゃべりにはskypeを、それが普及する前はチャットを使っていた。
私は内心、skypeがある時代でよかったと思っていた。たいした被害も受けていなかったのに、人の声を聞いたら肩の力が抜けた。人の声がことのほかいいものに感じられた。
彼女は茨城のご両親の無事を報告し、それから、募金どこにするのと訊く。赤十字かなと私はこたえる。うちの会社もやるんだと彼女は言う。その発表したらなんかね、きたよ、偽善者ー!みたいな匿名メール。うちみたいなちっちゃい会社にそんなメール送ったっていいことなんにもないのにね。うちの関係者なんだろうけど。
糾弾はある意味でもっとも簡単な参加の方法だからねと私はこたえる。私は思うんだけど、こういう大きな災害とかって、自分の中に位置づけるのがけっこうたいへんなんだよ、直接被災したんじゃなくて、何日か怖かったとかたいへんだったとか、その程度なら余計に。実際的な被害以上のもやもやが胸に残ってしまう。
そうかもねと彼女は言う。そこで糾弾ですよと私は言う。とりあえず誰か悪者を見つければ、物語は簡単に浮かびあがる。無能な誰か、迷惑をかけている誰か、そして偽善をはたらく誰か。そんな相手を見つけさえすれば、自分の立ち位置がはっきりして、すっきりする。
相変わらず性格わるいねと彼女は言う。悪いともと私はこたえる。彼らは否定というかたちで他者の物語に寄りかからないと、自分の人生に訪れてたできごとを意味づけるストーリィをつくることができないの。だから放っておけばいいよ。
放っておくけどさと彼女は言う。でも私、自分でも不思議なんだよね。旦那と「うちの家計からも出そうか」なんて言ってて、なんで私たち、そんなことしたいんだろうね、そんな、善意とか、ないのに、私。
私にもそんなものはない。私は身勝手で視野の狭い人間だ。でも私たちはときに募金をする。そうしなければおさまらない気持ちになる。私は考えて口をひらく。地震の日って会社に泊まったんだよね。
そうそうと彼女はこたえた。やけになってちょう仕事した。でもそれはただの徹夜仕事じゃないでしょうと私はたずねる。もちろんと彼女はこたえる。怖いニュースばかり流れてるし、茨城の情報は入ってこないし、外には人がぞろぞろ歩いてて、みんな寒そうだし、おなかもすいてるだろうなって。サヤカは?
棚が落ちてきてねと私は語る。部屋の入り口で振り返ったら壁一面の、天井までの棚がばーんと倒れててね、私のいたデスクの上にも。
怖かったねと彼女は言う。怖くないよと私はこたえる。だって私はそのときもう扉まで逃げてたんだもの。私の上にはなにも落ちてこなかったんだもの。でも落ちたかもしれなかった、と彼女は言った。あなたも、と私も言った。寒くてひもじかったかもしれなかった、水と火と電気を絶たれていたかもしれなかった。
私たちはたぶん、そういう仮定によってもうっすらと損なわれるんだよと私は言った。でもその傷には実体がないから実体のないもので癒さなければならない。たとえば仮定に似た他者に対する贈与だとかで。私たちのしてることってそういうことなんじゃないかと思う。
相変わらずややこしい人だねと彼女は言う。ややこしくないよと私は言う。そう考えると納得いくんだよ、つまり、寄付みたいなことについて、「アピールするのは偽善。黙ってやれ」みたいに言う人は、仮定によって傷つかないたぐいの人なんでしょう、それはそれで、ある種の強さだと思う。
でも仮定によっても損なわれる人間は、アピールとまではいかなくても、贈与の事実を誰かとシェアする必要がある。たとえばあなたが旦那さんと相談したり、私に話したりしたように。なんでかっていうと、仮定に似た対象の役に立てたということを、誰かに保証してもらいたいからだよ。実は対象の迷惑になってました、みたいなケースじゃなければ、それは否定されるべきことではないよ。私は保証するし、保証されたい。
自己満足の相互保証、と彼女は言い、私たちはひっそりと笑いあう。募金が済んだらメールちょうだいと彼女は言った。何かが落ちてきた人のためになるね、きっと役に立つねって、何度も言ってあげる。