傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2015-01-01から1年間の記事一覧

お利口な子猫ちゃんのお仕事

うちに来ればいい。彼は何度も何度も、従弟に向かってそう言った。まだ社会人三年目のワンルーム住まいだけれども、子どものころから知っている従弟ならそこいらにいたってとくに気にはならないし、自分と同じものを食わせるくらいの収入はある。従弟の高校…

ハッピーバースディ・トレーニング

生まれるねえ、と彼は言った。たぶん、と彼女はこたえた。彼は仕事帰りのスーツ姿のまま、リビングの半端な位置の床の上に座りこんで、ぼうっと彼女のおなかを見ていた。とても不思議そうだった。彼女は言った。私も産むのはじめてだからまだよくわかんない…

精神的おむつ替えサービスに対する誇り

ねえサヤカ、昨日彼のBMでデートしてたんだけど、お店がちょっと複雑な場所にあったから、彼、ちょっと迷っちゃったみたいで、だから私、コンビニ寄りたいなあって言って、店員さんにお店の場所きいたの。そしたらすぐ見つかったんだけど、そのあと彼すごく…

ゆるやかな減少とその終わり

友人の新居に行くと新しいソファがあったので、連れだって行ったもうひとりとそろって褒めそやした。えらいねえ、がんばったねえ、いいの買ったねえ。 友人は新卒時代から同じアパートに住んでいて、去年取り壊しになったので越した。学生寮から引っ越してお…

小さな毒と小さな解毒剤

職種がちがうからよくわかんないけど、行きたいとこに行けたんだから、よかったんだよね、おめでとう。友だちの転職祝いの席でみんなが順繰りにお祝いを口にするなかで何気なくそう言うと、彼はやおら椅子から立ち上がり、それだー!と大げさに私を指さして…

アムステルダムの彫金師の一族

友人が何人か集まったときの話題のうち、仕事のそれに関する比率が高まっている。学生時代からの友人で、職場どころか職種もばらばらであるにもかかわらずだ。私たちもすっかり中年だなあと思う。中年はなにかというと仕事の話をし、健康診断の結果や持病の…

私はあなたを裁かない

どうにもやりきれない話を、やや長いあいだ、それでもおそろしく圧縮されたのであろうバージョンで、聞く。そのあいだ何度か、私はうなずいた。正確には首をちいさく動かした。否定にも肯定にもなるようなならないような、とても意味のない動きだ。そこから…

苦労知らずと呼ばれる勝利

そりゃね、ああやって親切にしてあげるのはいいことだ、きみがうちの小学生の娘なら褒めるさ。でも世の中、そんな、いいやつばかりじゃないんだから、騙されないように気をつけなきゃだめですよ。課長、そんなこと言うと社内になんかまずい人がいるみたいじ…

痛みに対する適切な対処

薬にまつわる辛い目にあった人の話を聞いて、べつの人がつぶやく。悪意やコントロールの意図があるかは別として、薬が嫌いという人はいるよね。簡単に薬を飲むなっていう。うちは、おばあちゃんがそうで、母は普通に服用するものだと思ってたから、そこでま…

痛みの邪悪な使いかた

痛み止めを捨てられたのだとその知人は言った。彼女の夫は彼女が毎月のように頭痛で寝こんで家事と育児の一切をしなくなり、ときに有給休暇を取得までする数時間を、どうしても許容することができないのだった。 それが平日の昼間にやってきたなら、彼女の上…

あなたの不適切なみじめさ

久しぶりに電話をかけてきた知人から、転職後の近況の話を聞いた。十分ばかり具体的な話をしたあと、彼は自嘲して言った。悪くはない、ああ、悪くはないんだと思う、でも前の職場で挫折して、もうあいつらとは生活レベルから何から違うんだって、そう思った…

悪い反射の防ぎかた

けれども彼はそこに存在してるわけだよね。彼女は言う。そうだねと私はこたえる。彼がどんなに邪悪でも、彼のなかで女の大半が人間じゃないとしても、他人をただただ機能としてあつかうことで彼自身の人間性みたいなものが深く不可逆的にそこなわれつづけて…

人間性をうしなうためのほとんど確実な法式

彼は早めに結婚し、二十代のうちに離婚して、それからというもの彼女をとっかえひっかえするようになったのだそうだ。離婚から数年たって現在に至るまで、私は何人かの共通の知人から、彼に関する派手な、あるいは醜い噂を聞いていた。誰かがその話をするた…

愛に関する事後的な学習

人を上手にだいじにできる人ってやっぱり生育歴上で親とかに上手にだいじにされてきたことが多いよ、つまり、愛情に関して育ちが良い。そりゃそうだ、愛情に関する学習は親とか養育者の影響が初期値だもの、だけどさ、私は初期値が不利だからって人を上手に…

やさしさのための技術とその運用

人にやさしくしたいんだけどどうしたらいいかねえ。なにそれ。いや、だからさ、やさしくしたいんだけど、具体的にどうすればいいか考えると、悩む、という話、相手と状況は考慮する、でも内面まではわかんなかったりするでしょ、だってたとえば私が今やさし…

働いているだけで背後から石を投げられる話

だからさあ槙野さんみたいな人は俺の嫁さんみたいな人に感謝してほしいわけよ。突然の大声に視線を向けるとすこし離れた席に私の嫌いな同僚がいて私の嫌いな笑いを笑っていた。この人と話をすると不愉快になると入社当初から思っていた。幸いなことにふだん…

私の空想上の皮膚のいくつかの場所

移動中、三年会っていない友だちからメールが入って、携帯情報端末ってほんとうにすばらしいなと思う。彼女はずっと家にいて、一人で出てきて私と話す、あるいは子を連れてきて話すといったことはない。事前に約束することはない。何かの用事で一時間なり二…

救い主が戻るまで

うなずく。うなずく。うなずく。首をわずかに横に振る。問いかけに応える。質問の内容にそのまま答えるのではない。なぜなら私がされているのは質問ではない。私の目の前にいるのは突然姿を消してしまった友人の夫と両親と義理の両親だ。彼女がいなくなった…

あなたはもうそれを求めなくていい

この一年はねえずっとこうなのよお、なんかねえ、ラク、その前はちょっとした浮き沈みがあったんだけど、まああんまり気にしなかった。私の正面に座って彼女は言う。私はひどく驚いて彼女をじろじろ見てしまう。すんなりと長いきれいな手足をして腫れたよう…

黒い犬の会

ごちそうさま、うん、人の手料理はいいわあ。旦那に作ってもらえばいいじゃん。旦那の手料理はあれよ、人の手料理というより分担してる家事の一部だからさ、いやあ、別世帯の手料理はいいわあ。なるほど。ねえここ、何畳。その仕切りの向こうもあわせて十二…

調達、贈与、消費

話せるかと尋ねるメッセージが届く。OKと返信する。通話の着信がある。話を聞く。肯定の語を口にする。話を聞く。気持ちについての語彙をパラフレーズする。話を聞く。心配だよと言う。話を聞く。体感温度と部屋の温度を尋ねる。話を聞く。今日食べたものを…