傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

小さな毒と小さな解毒剤

 職種がちがうからよくわかんないけど、行きたいとこに行けたんだから、よかったんだよね、おめでとう。友だちの転職祝いの席でみんなが順繰りにお祝いを口にするなかで何気なくそう言うと、彼はやおら椅子から立ち上がり、それだー!と大げさに私を指さして早口で続けた。それだよ、それが正しいせりふってもんだ、あ、みんなはいいんだよ、おめでとう、ありがとう、だもんな、そういうのは言われてうれしい、みんなはいい。
 じゃあ誰がだめだったわけ。誰かがのんきにメニューに目を落としながら訊くと彼はようやく着座し、みんなの知らないやつ、とつぶやいた。みんなが知らなくて、なんか、えらい人。俺、けっこう律儀だからさ、業界の人にはちゃんと、こう、ひとりひとりとは言わないけど、グループ分けして文面考えて辞令もらった日に転職のご報告ってやつをしたわけ。業界関係ない友だちには、わりとてきとうに何日も遅れてLINEで流しただけだけど、仕事だと俺けっこうちゃんとしてんの。
 知ってるよと誰かが言う。それから尋ねる。それでいろんな人から返信が来て、そのなかで嫌なこと言われてストレス溜まっちゃったんでしょ、で、今のマキノのせりふはその嫌なことがどうして嫌だったか、明示的に示すようなものだったわけでしょ。解説ありがとうと彼は言った。声がぐっと小さくなり、やや猫背になって、すこし年をとった顔をして、口をひらいた。
 いろんな人がいろんなこと言うよ、嫌味みたいなのもあった、でも、そんなのはどうってことない。俺はね、前の会社がいやで辞めたんじゃないんだ。みんな良くしてくれたし、評価もしてもらった。小さい会社で、給料とかはそんなによくなかったけど、俺は俺の基準で職場を選んで、面接とかして、合格して、いっしょうけんめい働いて、いろんな人に親切にしてもらってた。でも、前々から興味があって自分で勉強していたジャンルが仕事としてできる場所があって、そこに行けることになったから、移った。前のとこだって好きだったし、好きじゃなきゃもっと早く余所に行ってる。技術職だし、ちょっと前から景気もよくなって人材が動いてるわけだから。
 要するにおまえは前の職場もちゃんとアイしてたわけね。誰かがそう言い、彼は二度首を縦に振る。それから話を続ける。でもさ、その偉い人が、俺のこと買ってくれてはいるんだろうけどなんか俺はあんまり好きじゃなかった人が、転職報告メールの返信を寄越すんだ。自分ひとりじゃなくて関係者とまとめて送信したことにちょっとした苦情を入れて、それからさも寛大そうな雰囲気で、こう書いてきた。ようやくカタギリくんにふさわしい会社に勤めることができてよかったですね。この機会を無駄にしないよう、周囲に感謝し、今日注意したようなことにも気をつけてがんばってください。
 侮辱されたんだ、と私はつぶやいた。侮辱されたんだよ、と彼は繰りかえした。俺は、俺の今までと、俺が好きな人がたくさんいて若いころから良くしてもらったところと、そこでがんばってきた俺を、侮辱されたんだ。不本意なポジションで苦労してみじめだったなお前、まともなとこ行けてラッキィじゃん、あとお前、偉そうだぞ、もっと俺を敬え、って。
 前の会社にずっと出向してた業者さんがロングアサインを終えて帰ることになって、退職一ヶ月後の俺にも連絡くれて、それで送別会行って、前の職場のみんな、「今のとこ、どうよ、楽しんでる?」って訊いてくれて、大変なこともあるけど楽しいよーって俺もふつうに応えて、前の上司なんか「何かあったら戻ってきていいからな」なんて言ってくれて、そういう場所を、メール一本で、くっだらねえやつに、当たり前みたいに侮辱されて、俺は悔しかったんだ。でもそういうのって、自分じゃすぐにはわかんなかった。なんかいやな気分がして、こいつやっぱり嫌いだって思って、でも、業界のえらい人だから、当たり障りのない返信して、ずっと、小さい毒を飲まされたみたいに、ほんのちょっとだけの、でも消えない気持ち悪さがあった。
 さっきのはその解毒剤だったんだね、と誰かが言った。よく知らないけどあなたの望みがかなったならよかったね、って、勝手な格付けと見下しでうっすら傷つけられた人には、いい薬だと思うよ。マキノ今日はいいこと言った。
 そのように解説されてようやく私は納得し、私が口にした当たり前のせりふが解毒剤になってしまうような「格付け」やら「見下し」やらが横行している世界を、あらためてひっそりと憎んだ。笑って別の話題に花を咲かせているみんなには、決して気づかれないように。