傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私はあなたを裁かない

 どうにもやりきれない話を、やや長いあいだ、それでもおそろしく圧縮されたのであろうバージョンで、聞く。そのあいだ何度か、私はうなずいた。正確には首をちいさく動かした。否定にも肯定にもなるようなならないような、とても意味のない動きだ。そこからは人のしぐさから生じる棘の一切をあらかじめ注意深く取り払ってある。意味がないこと、害がないこと、手頃な壁のようであること。私はときどきそのような役割を、わりあい自覚的に負う。
 彼女は言う。あなたは悪くないって夫は言うのよ、お医者さんもね、私に責任があることじゃないからって、でも、私は、どうしてもそうは思えないし、自分が悪いと思ってしまうこと自体が間違ったおこないで、それを捨てることのできない自分が「悪い」というふうに、堂々巡りをしてしまうの、自己憐憫で現実を受け止めずにやりすごそうとしているんじゃないかと思うの、私は現実的にできることをほんとうにはぜんぶやっていないのではないかと思うの、夫は、私について、よくやっていると言う、お医者さんは、少し休んでくださいと言う、けれども私は、私がうまくやれていないとしか思えないし、かわいそうなふりをして同情させるためにどんなパフォーマンスをしてしまったのだろうって、思う、あの善人たちの同情を買うためにどんなずるいお芝居をしたんだろうって。
 私はまたすこしわずかな首の運動をし、まぶたも少し動かす。無意味で無害で手頃な壁のすがたを、具体的にイメージする。そういうのってけっこう効果的なのだ。自分が心理的になりたいものについて具体的に思い描くこと。私のふだんの内面に関する自己イメージはフランシス・ベーコンの走る犬の絵で、それもたしか習作なのだが、とにかく暗く、そのくせ速く、みじめで、そのくせ犬の行方には走りつづけるための空間が展開されている気配があり、かつ、一秒後に側溝のどぶに落ちたり誰かに蹴られたりして死ぬようにも見える。ひとりでいるとき、あるいは親しい人の前で率直に話すとき、私はこの犬のイメージを内面に持っている。でも、いまは犬ではだめだ。壁でなくては。残念ながらちょうどいい壁の絵を知らないので自分で細部を考案する。ユトリロの壁?あれはだめだ、優美でやさしいけれど、なんらかの価値判断のようなものを感じる。
 彼女は語りつづける。私は、悪くないと、言われたくない、私は、私が悪いと思いたい。私が悪い、私が悪ければ、反省して悪かったことをあらためればものごとは良くなるかもしれないでしょう、それが無理でも何らかのかたちで罪を償うことができるでしょう、私が悪いのでなければ、私はどうしたらいいの、なんにもできないじゃないの。
 彼女はそこでぷつりとことばを止める。それから言う。そうか。私は状況を少しでもコントロールしたいから、コントロールできなくても理由づけがしたいから、自分が悪いと思いたかったんだ。そうじゃなかったら話の落としどころがないから。だから自分が悪いと思わずにはいられなくて、それに夫まで巻きこんでしまっていたのね。
 私は彼女を見る。すこし上目遣いになっていると思う。彼女はため息をつき、それから貴婦人みたいに良い姿勢をとり、首をゆっくりと回した。折れそうな音がした。マキノ、と彼女が言った。私は「おまえが悪い」と言ってもらうために、あらゆる相手を利用しようとしていたんだと思う、夫も医者も友だちもあなたは悪くないと言った、私は、それが、つらかった、でもそれがなぜだかわからなかった、マキノは、どうして私を、悪いとも悪くないとも言わなかったの。
 たしかに、彼女の行動とようすを見て「あなたは悪くない」と言わない人はなかなかいないだろう、と思う。私が良いとも悪いとも言わなかったことで彼女はなにかに気づいたようだけれど、それは私の手柄ではない。彼女が勝手に気づいたのだ。自分としっかり会話して、自分の感情的な問題の所在を確かめ、そのかたちを見据え、手で持って、得体の知れないものではなく彼女自身の感情として認知したのだ。
 彼女はもう一度、問う。どうして私に、あなたは悪くないと言わないでいてくれたの。私はこたえる。えっと、私は、ときどきそうなるんだよ、ほとんどあらゆる意味で相手を裁かない存在になる、言ってみれば壁みたいなものになる、私がいることが必要なんじゃなくて、壁打ちの壁が必要だっていう状態は、たしかにあるんだ、さっきのあなたみたいに、そういうときには、私は目の前の相手を、決して裁くことがない、たとえその人が誰かの命を救っていたとしても、誰かの命を奪っていたとしても。