傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛されない子のピアノ

 両親から相続した小さな二階建てをリフォームしてひとりで住んでいる。空き部屋があるので、ときどきそこに人を住まわせる。たいていは自分の住居を見つけて出て行くから、わたしはまたひとりになる。しばらくひとりでいて、また別の人を住まわせる。わたしのそのような癖を知る友人は「人を拾うなんてよくないことだよ」と言う。

 わたしは楽器メーカーが運営する教室にピアノ教師として雇われている。それからときどき演奏の仕事をする。ディナーショーの伴奏とか、そういうやつだ。忙しくはない。嫌いな仕事ではない。しかし心躍ることもさほどない。

 だからたぶんわたしは暇なのだ。暇でさみしいからときどき人を拾うのである。礼子はわたしのそういうところを見抜いていたように思う。礼子をわたしに紹介したのは音大時代の同級生である。「才能があって生活力がないから空き部屋に置いてやって」ということだった。ピアノを弾かせてみると、おそろしく明晰で隅から隅まできわめて硬質な、ほとんど恐怖を感じさせるような演奏をした。そこには完全なひとつの世界があった。透明で永遠に罅割れることのない孤独だけでできた世界。

 空き部屋に住んでいいと言うと礼子はとても喜んで感謝の意を述べた。それは伝わったが、やりかたはものすごく下手だった。穏当に会話をするだけのコミュニケーション能力がそなわっていないようだった。これじゃあ社会でうまくいくわけがないよな、とわたしは思った。

 礼子はピアノがそれほど好きというわけではなかった。親に習わされていたから弾けるというようなことを礼子は言った。自分の演奏の価値には興味がないようだった。礼子にはもうひとつ才覚がそなわっていた。数学だ。わたしにはわからない分野だが、どうやら極端に数学ができる人間を雇いたい企業があるらしく、礼子には収入があった。ただ、正社員として勤められるだけの社会性がなく、近隣とのトラブルで住んでいたアパートを退去したあと、新しい物件を借りることができずにいるということだった。

 礼子が人を恋しがっていることはわたしにもわからないのではなかった。礼子はどうして自分の人生がうまくいかないのかひどく悩んでいた。わたしが自室にいると、突然ばんばん扉をたたき、扉の外から、どうして自分には友だちができないのだろう、親密な関係が持てないのだろう、というような意味の大量のせりふをものすごい早口で投げかけてきた。わたしにもとくに親密な関係はないと答えると、礼子は「嘘つき」と言った。礼子はめったにピアノを弾いてくれなかったので、わたしはこの同居人と親しく話をしようとは思わなかった。まして踏み込んだ相談に乗る気にはなれなかった。

 ある日、知らない人間の声が聞こえたので、礼子の部屋に入った。礼子は薄汚い女と向かい合って座っていた。その女の身なりはあきらかにまともではなく、部屋には異臭がただよっていた。女は落書きめいたアイライナーの内側の巨大な目をぎょろぎょろと動かし、しかし決してわたしと目を合わせることなく、歯茎を剥き出しにして侮蔑的な表情をつくり、礼子に向かって、何このババア、礼子さんのカラダ目当てなんじゃねえの、こういう終わってるババアまじキモい、と言った。

 わたしは礼子に女を泊めてはならないと告げた。礼子は決して首を縦に振らなかった。女は部屋に居座り、自分はここに住んで当然とばかりにずうずうしく起居しはじめた。わたしは礼子に、あの女を追い出しなさい、と言った。礼子は頑として言うことを聞かなかった。あの子を見捨てることは自分を見捨てることだと言った。礼子からそんなにはっきりとしたことばを聞いたことはなかった。わたしはあの女を追い出さないと警察を呼ぶと宣言した。礼子はべそべそ泣いたり長々と(礼子なりに考えたのであろう)口上を述べたりしたが、わたしは決して応じなかった。礼子はわたしが警察を呼ぶ前に、女と一緒に出て行った。 

 そのような顛末を話すと、友人はため息をつき、あなたが悪い、と言った。何をどう考えてもあなたが悪い。何ら責任を負うつもりのない相手を自分の家に住まわせて、大家と店子という線引きをせず、相手が親密になりたがってもこたえず、才能だけを鑑賞して、自分の領域には決して踏み込ませない。あなたは、ほんとうにひどいことをした。

 礼子さんが別の人を拾ってきたのは、何のことはない、あなたの真似をしたんだよ。礼子さんはさみしかったんだよ。飢えが筋肉を細らせるようにさみしさに精神を食われていたんだよ。だからどうしても他人を助けてそばに置いておかずにはいられなかったんだよ。

愛された子のピアノ

 メイ先生の家に行く。メイ先生はわたしが小学生のときに近所でピアノ教室をしていたおばあさんである。息子たちが独立して久しく、五年前に夫が亡くなってひとり暮らしをしている。さみしかろうと思ってときどき行く。

 わたしにとってピアノはただの手習いのひとつで、たまたま自分に与えられたものだった。幼いころからそういう認識を持っていたし、両親もそのような姿勢だった。だからてきとうにやっていた。妹も同じようなものだったはずだ。それでも、妹の弾くピアノには自然に人を引きつける響きがあった。妹はときどき、集中しすぎているような、ぼんやりしているような、半ばこの世にいない者のような顔をすることがあって、ピアノを弾いているときもしばしばそうなった。

 妹は特段に造作が整った子というわけではなかった。目から鼻に抜けるような賢いタイプでもなかった。でも妹は特別な子どもだった。はじけるように活発で、思いもかけないことを言い、早弾きみたいに笑った。そのくせときどき手がつけられないほど陰鬱な顔をしてふさぎこんでいた。赤ちゃんみたいなところと大人みたいなところが同居していた。子どもたちは競って妹と仲良くなりたがったし、大人たちも妹を見るとほとんど必ず相好を崩した。

 メイ先生ももちろん妹を可愛がっていた。メイ先生の家は近所で、自宅にピアノを置いて子どもに手習いをさせる、町の教室だった。わたしと妹は週に一度か二度、メイ先生の教室に通っていた。

 わたしにとってメイ先生は大勢いる周囲の大人のひとりにすぎなかった。ピアノも当たり障りのない習い事でしかなかった。でもわたしが愛の不公平さについて知ったのはピアノ教室でのことだった。妹はただピアノを弾いていただけだし、メイ先生もそのそばでときどきアドバイスを与えているだけだった。それなのに、わたしは直感した。義務や利害抜きに、メイ先生は妹を好きなのだ。わたしは絶対に妹のように特別に愛されることはない。そしてそれはメイ先生にかぎったことではない。妹は特別に愛される子どもで、わたしはそうじゃないんだ。わたしはふつうなんだ。

 その感情は喜びでも悲しみでもなかった。高揚感があり、落ち着きのなさがあり、妹がうらやましいと感じる一方で、目立つのは好きじゃないから妹みたいじゃなくてよかったとも思い、そんなにも特別な子どもがわたしの妹だということが誇らしくもあった。わたしたちは仲の良い姉妹だった。

 だった、と思う。でも妹は若くして周囲の誰にも行き先を告げず姿を消した。成人後のことで、事件性も確認されず、本人の意思で行方をくらました、ということになった。残された家族はどうしたらいいかわからなかった。

 そもそもわたしも両親も、妹のことをそれほど理解していなかった気がする。妹の素行や成績は平凡の範疇だったけれど、内面はそうではなかったように思う。妹にはわたしや両親にはない、触覚とかしっぽとか、そういうものが実はついていて、それでもって世界のひどく邪悪な部分、あるいは焼かれるほど美しい部分に触れてしまって、だからわたしたちの知らない世界に行ったんじゃないかと思う。

 メイ先生を訪ねるとお菓子が出てくる。ブルボンの、うんと昔からある、個包装の菓子だ。ピアノ教室でも同じものをときどきくれた。わたしはもう大人で、メイ先生はおばあさんで、だからわたしはもっとフォーマルなお菓子を手土産にしているけれど、メイ先生が出すものは変わらない。わたしはそれを決まってひとつだけ食べる。

 あなたが小さかったころ、とっても楽しかったわね。メイ先生が言う。お教室にはいろんな子が来たけれど、みんなかわいかった。夕方になるとみんなおうちに帰った。わたしも急いで家族のごはんを作った。家族が帰ってきて、ごはんを食べて、テレビを観て。それ以上のことなんかなかったわ。

 でもね、そういう日々が引き留められないものもあるの。人はいなくなることがあるの。本人の意思かもしれないし、何か恐ろしいことが起きたのかもしれない。真実はわからない。でもいいこと、妹さんがいなくなったのはあなたのせいではないの。あなたの妹さんは、あなたがわかってあげなかったからどこかへ行ってしまったのではないの。何年も何十年も自分を責め続けてはいけないのよ。

 はい、とわたしはつぶやいた。妹はみんなから愛されていた。でもその愛は妹をこの日常に引きとめておく錨にはならなかった。わたしはそのことにずっと納得していなかった。わたしはこんな年齢になるまで、それを認めていなかった。わたしはうつむいて少しだけ泣いた。

長い法要

 もうすぐ帰国します。二週間ほどいるので、お暇な日を教えていただけませんか。日本っぽいものが食べたいな。

 そのようなメッセージが入る。履歴をさかのぼると去年にも似たようなメッセージがある。その前は一昨昨年。海外に住む知人から、「帰国するから食事でも」というメッセージが入ったなら、出かけていく人は多いだろう。

 でもわたしは知っている。人間は、会わないで済ませたい人間には会わない。家族でも親戚でも親しい友人でもない相手に対する「帰国するから」ということばは意味のないエクスキューズにすぎない。彼女はわたしに、一年から二年に一度のペースで会うことを、かなり意図的にやっているのだと思う。

 ごめんなさあい、お待たせしちゃって。彼女はよくとおる、ちょっと甘い声で言う。わたしは胸の中に冷たい水が満ちるように感じ、しかしそれが顔に出るような年齢ではもはやなく、ほどよい笑顔を彼女に向ける。

 彼女は椅子を引く。わたしの目の前にあるメニューを、からだを斜めにして覗きこむ。わたしはできるだけ平然と座っている。肩の触れるようなカウンターの店を選んだのはわたしだ。並んで座って身を寄せるようにして話す状況を作ったのはわたしだ。わたしはそんなの平気なんだと彼女に示してやりたいのかもしれなかった。

 わたしは彼女の顔を見る。女の顔である。化粧をしている。髪が長い。しかし目鼻は彼女の兄にそっくりである。いや、そっくりだったと思う。わたしはもはや彼女の兄の顔を忘れた。わたしは定期的に会わない人の顔をきれいさっぱり忘れてしまう。だから彼女の兄の顔を思い出すこともふだんはない。しかし彼女があらわれると「そうだ、かつてこのような顔の男がいたのだった」と思わざるをえない。

 わたしは彼女と話す。わたしたちにはいくつかの共通点があり、近況と現在の興味だけで二、三時間は楽しく会話することができる。彼女は話す。彼女は笑う。わたしは彼女の声を聞く。女の声である。しかし、音の高さを少し下げてやれば、その声は彼女の兄の声とほとんど同じなのだった。きょうだいとは不思議なものである。話しかたやアクセントの癖もほとんど同じだから、よけいそっくりに聞こえる。興が乗ったときのトーンの上がりかた、息を吸う間合い、笑い声を刻むリズム。ぜんぶ同じだ。

 わたしの視界は少し揺れる。彼女の兄を想起する。しかし彼女は兄の話をしない。わたしも彼女の兄の話をしない。その男は十年前に死んだ。自分の意思で死んだ。彼の遺骸は警察からそのまま火葬場に送られて骨にされた。彼の両親の意向ということであった。家族以外で彼との別れを惜しみたい者は彼の両親の自宅を訪ね、骨壺の入った箱がしつらえられたスペース(宗教色のない祭壇というような体裁で、厳かにととのえられていた)の前で神妙に手を合わせた。わたしもそうした。奇妙なものだなと思った。人間は死んだらそれまでだし、火葬のタイミングだって遺族の好きにしたらいいとわたしは思うけれど、ただ箱の前で神妙にしていても「ああ、あの人は死んだのだな」という気はあまりしないのだった。

 死者の妹が死者のあれこれを欲しがるものだから、手元にあった写真だの何だのをあげた。死者の書いた文章もあげた。そうしたらだんだん「あの人は死んだのだな」という気分になってきた。助かった、と思った。

 彼の妹はその後、海外に就職した。そうして忘れたころに「帰国します」というメッセージを送ってくるようになった。会えば食事をともにし、近況を話す。まるで昔のクラスメートか何かみたいに。でもわたしと彼女が最初に会ったのは死んだ男の骨の前だ。わたしと彼女はただ死んだ男によってのみつながっている。

 死んだ男にそっくりの目鼻と死んだ男にそっくりの声音が定期的にわたしの前に提示される。何かのしるしのように。何かの信号のように。

 彼女は生きているので年をとる。笑うと目尻にさざなみのように皺が寄る。それは彼にはなかった。あったらきっと似合っていただろうと思う。そう思わせるために、彼女はわたしの目の前に来るのかもしれない。

 駅まで歩く。彼女は楽しそうに話している。わたしも楽しく話している。駅に着く。それではと言う。彼女はわたしに抱きつく。ハグしましょうよと言う。わたしは彼女に向き直り、あいさつにふさわしい動作で軽く抱きしめる。彼女は背の高い女で、ヒールを履くと兄と同じ身長になる。電車がやってくる。わたしは彼女に手を振る。彼女はわたしに手を振る。

あなたが憎くはないけれど

 この世には暗黙の了解とされることがたくさんある。彼女はそのルールをこまかく読むことのできる人間である。職においては短いスパンで客先に常駐し、大量の聞き取り調査を実施し、その場その場の暗黙のルールを察知する。暗黙のルールはだいたいの場合、職場を腐らせて生産効率を下げているものなの、と彼女は言う。

 彼女は柔和な印象を与える小柄な女性で、年相応の落ち着いた口調ながら声はややハイトーン、いつもにこやかだ。服装、化粧、表情、すべての要素にそつがない。全身から「自分は脅威を与えない」という空気を発している感じがする。私は彼女を企業忍者と呼んでいる。忍者は企業に雇われて現場に入る。忍者はわずかな期間で人々の不満を聞き取り、組織図にない上下関係や表沙汰にされていない軋轢を察知する。そうして「空気を読まない」業務フロー改善案を提出し、それに見合ったフィーを受け取って、去る。

 おっかねえ女、と私が言うと、怖いのは暗黙の了解に乗っかっている人間の意識のほう、と彼女は言う。人々は「それが普通だ」と言う、「当たり前だ」と言う、言うならまだましで、なんなら自分たちのローカルルールにすぎないものを空や大地のように受け取っている。そちらのほうがよほど恐ろしいことじゃないの、隣の会社に行ったらぜんぜん通用しないことをこの世の真理みたいに思っているなんて。

 彼女は子どものころから身体が小さく、声も小さく、性別は女で、家庭でも学校でも「普通」であれという教育を受けてきた。この場合の普通とは「その場の序列を察知せよ、控えめにしていろ、可愛くしていろ、しかし魅力をアピールしすぎてはいけない、そして補助的な目立たない仕事を進んで引き受け、それを美徳とせよ」という教育である。彼女はまず言われたとおりにした。それからその内実を考えた。その結果、ふざけるな、と思った。要するに弱そうな人間が面倒なことやって卑屈にしてろってことじゃん。そんなの身分制度じゃん。ふざけるな。

 そう、彼女は「普通」を読みこみながら、決してそれを内面化しなかった。それに適応したそぶりをしながら、ずっと怒っていたのだった。小学校五年生の運動会の組体操でクラスメイトにけが人が出るにおよんで、彼女は強く決意した。人間を積み上げてけがをさせるのが「普通」か。それならばわたしは「普通」を憎む。「普通」を手なずけたわたしが内部から「普通」を破壊してやる。

 そうして彼女は企業忍者になった。ここまでなら、めでたしめでたし、である。しかし彼女はなにしろ「普通」を手なずけているので、「普通」を好む人間に愛される。男性たちは彼女のことを、時代に応じた有能さを持ちながら自分をサポートしてくれる恋人候補だと思いこむ。女性たちは彼女のことを、自分の気持ちをわかってくれて一緒にがまんをしてくれる、自分の愚痴を聞いてくれる友人候補だと思いこむ。年にひとりずつくらい、そのようにして彼女を愛する者があらわれる。

 彼女は彼らの相手をする。たいていの場合、うまくいくように見える。しかしあるところで彼らは彼女に負荷をかける。典型的な例は、予定を一方的に変更しつづける、といったものである。彼女は一定期間、にこやかにそれを見のがす。忙しいのね、と言う。すると彼らはほとんど必ず増長する。彼女が自分に合わせることが「普通」と認識する。その瞬間、彼女は去る。失礼な人とはおつきあいできません、とだけ言って、相手の言い訳はひとことも聞いてやらない。相手はびっくりして混乱して傷つく。

 なるほど、たしかに相手は無礼をはたらいた。だからといってその切り捨て方はない。私はそう思う。まずは警告をしてやって、たがいの礼節をすりあわせる、それが人間関係のあるべき姿ではないか。私がそう言うと彼女は善良な笑顔で語る。

 わたしはねえ、運動会の指示をする教師だけじゃなく、組体操でいい目をみようとするやつらも全員憎かったの。見えないところで体重をかけてくる連中、当たり前みたいに踏みつけてくる連中。「それが普通だから」で生きている連中。ほんとうに憎かった。だから乗っかってくる人間を切って捨てて楽しむの。その人たちひとりひとりは、まあ、いい人なんでしょう。彼ら個々人を憎いと思ったことはない。でも増長した彼らを傷つけるのはとても気持ちがいいの。あの瞬間ほどの快感はほかにないの。え?そんなことをしてはいけない?どうして?彼らは「常識を知らなかった」、「空気を読めなかった」、それだけのことでしょう。

かわいいを作れない

 彼女は美容師である。都心の、美容室とギャラリーとファッションブランドが延々と並ぶ街で働いている。彼女のキャリアは結構なものだし、料金も高めなので、主なお客は二十代半ばから三十代の、美容に関心の高い女性だ。キュートなスタイルが得意で、美容室の口コミには「かわいくしてもらった」「大人かわいく」といった文言が並ぶ。

 かわいさは絶対、引き出せます、と彼女は言う。わたしは、とにかくその方のお話さえ伺えれば、かわいくできる自信あるんで、いや、綺麗とかでもいいですけど、ええ、言ってることわかりますよね、うん、かわいいは作れる。

 かわいくできなかった人はいないのかって?あっはっは、いー質問ですねー、うん、ゼロではないっすね。お話さえ伺えればって、さっき言ったでしょ、あのね、世の中には、聞いても聞いても「かわいい」の中身が出てこない方がいらっしゃいます。特定のお客さまの噂話はしない主義なんで、今からする話は、わたしの作り話だと思って聞いてください。

 かわいさというのはですね、まず最初からは誰も持ってないし、ヒャクパー満足ということもないです。直したいとこ絶対あるんで。でも、がんばればかわいくなるし、どんなに恵まれててもがんばらずにかわいい人はいない。自分の生まれ持った顔と身体と、作り上げてきた雰囲気と、美意識と、今の環境と、ぜんぶトータルでね、かわいいを作ってね、まずご自身が「いいな」と思う、自分がアガる。これがかわいいの初歩です。

 かわいいを作れなかったとわたしが思ってる方はですね、かわいさの中身が、なんっつうか、ない。いや、ないフリをしている人はいます、おしゃれに気後れしてるとか、自分はかわいくないと思ってるとか、そんな人はいっぱいいます、人はみなコンプレックスだらけです、むしろ、かわいいはコンプレックスから作れる。そういう話じゃないんです、まあ聞いてください。

 お任せで、という方はけっこういらっしゃいますけど、それってほんとはお任せじゃないんです。「今と違うようにしたいけれど、うまく伝えられない」という意味です。だからお任せでもわたしは話を聞くんです。そしたら、言葉じゃなくても、なんかしら出てくるんで。雰囲気とか表情とかね、わたし、すごい空気読むんで、見るだけでもかなりいろいろわかるんで。ところがね、その方については、やっと得られた情報がこれです。いいですか、言いますよ。びっくりして頭、動かさないでくださいよ。

 いつも相手のことをいちばんに考えて、人に合わせて、相手にかわいいと思ってもらえるやり方で表現したい。

 以上です。「相手にかわいいと思ってもらえるやり方で表現する自分」の中身は出てきませんでした。相手っていうのは、彼氏とか、親とか、友だちとか、いろいろあるんですけど、その想定もないみたいで、とにかくそれ以上は何も出てきませんでした。なんでかって?泣いちゃったんです。お話をはじめて早々に泣いちゃった。美容院で泣く方って実はけっこういるんで、おしゃれって、とっても繊細な問題なんで、泣くこと自体はぜんぜんアリなんですけど、その方は、涙がばーって出てるのに感情が見えないという、えっと、なんていうんですかね、ひとことで言うと「怖い」。感情の種類は見えないのにものすごい圧だけが来るんです、わかります?ばーって。ばーーーって。

 その方の求めている髪型って、わたしには作れないなって思いました。だって、その方じゃなくて、その方の相対する誰かにとっての正解を求めているわけですから。かわいさっていうのは、まず自分あってのものなんで、どんな人間であっても、まず、ご本人が何を好きとか嫌いとか、居心地いいとか悪いとか、どういう気分なのかとか、そういうのがないと、かわいさは作れない。まあ、そうはいっても、わたしもプロなんで、切りましたけど、でも、結果的にそのお客さまに提供できたのは、「青山の美容師がかわいいと言った髪型」だけです。その方のかわいさではないです。わたし的には屈辱です。敗北です。

 結果的に多くの人を納得させる「かわいさ」はあります。でもそれはね、特別にエネルギーがあるとか、時代に合っているとかで、結果的に生まれるものなんで。あのね、「とにかくあなたに合わせます」という人は、誰にも合わないんですよ。何か特別なやり方でその方の中身を探して探して、うまくすくいとってあげたら、その人自身が出てきたかもしれないけど、わたしにはできなかった。わたし、かわいくしてあげられなかった。

野蛮な風穴

 この世には私の知らない複雑なルールがあり、みんなはそれにしたがって事を運んでいる。法律や規約なら書いてあることを読めばよいのだが、そういうのではない。「空気を読む」みたいなやつである。私にはそれが見えない。だからルールを知らないまま、見よう見まねでそれらしくしようとして、よく他人とちがうことをしてしまう。

 人々はそっと私に教えてくれる。ねえ、マキノさん、今日みたいな場ではもちろんスーツがいいけど、そこまでリクルートスーツみたいなのじゃなくていいのよ。あのねマキノさん、この書類にはAと書いてあるけれど、実はAかつBじゃないと基本的に通らないの、明示的にBでもあってほしいと書けないのは、かくかくしかじかの背景によります、了解?

 了解。たいていの場合は。了解できないのはたとえば着座のパーティで年配の男性とそれより若い女性が交互に配置された席に案内され、隣席の男性の一方的なお世話係を陰に陽に強要されるようなときだ(そして陽にした段階で彼らは「気が利かない」と言う)。そういうのは即座に拒否する。完全に、明瞭に、一ミリの譲歩もなく。そういうのじゃなければ、言われたとおりにする。私には、ルールが見えないから。

 そんなわけで、社会に適応している洗練された女たちは、私を野蛮であると言う。洗練というのは明文化されていないルールを細やかに理解し、そのアップデートに追いつく者にだけ許された行為なのである。女たちは私の服装を直す。女たちは私の所作を直す。それは私のナルシシズムのための措置ではない。私をまともに見せるための措置である。

 たとえば私は顔をぶつけたら薬を塗るが、皮膚の変色を化粧品で覆うという発想は出てこない。そのまんま出歩く。そうすると、顔の派手な痣は化粧品で隠したほうがいいと、女たちが教えてくれる。隠したほうがいいよ、みんなびっくりしてしまうからね。そうかいと私は言う。私は顔に痣があっても気にならないけれど(生きていたら痣ができることもある。その箇所が顔であることもある。なんら驚くべきことではない)、みんなはそうじゃないんだな、と学習する。私には、ルールが見えない。

 私に助言を与える女たちは私のこのような鈍さや野蛮さを嫌いではない。彼女たちは賢いので、規範意識の根拠のなさもよく知っている。ある者は、利益を取っているだけよ、と言う。得をするからその場その場で空気を読んでいる、そこに含まれれば理不尽さが一定の範疇であるならば折り合いをつけている。自分の幸福を最大にするために。それは自分の価値観に基づく自分の選択ではあるけれど、でもほんとうに自由に選べたわけではないのよね。それにルールはあまりに複雑で、決して楽々と手に負えるものではない。ときどきすごく疲れて泣きたくなる。

 そんなだから、顔に痣ができても平気でほっつき歩く「非常識な」あなたのことは嫌いじゃない。自分とはぜんぜん違うし、ばかじゃないかと思うけど、ていうか、かなりばかだと思うけど、自分がルールに雁字搦めにされそうなときには、風穴みたいに見えるから。よく考えたら、あなたの顔はあなたものだもんね、あなたの態度はある意味ではまちがっていない。でも人は自分の外見を気にすることが多いし、外見はパブリックなものでもあるの。だから顔にでかい痣つけてのんきに歩いてると外界とコンフリクトを起こすの。痣は醜いとさえ思っていないのがばれないようにしなさいね。

 彼女の言うとおり、私は痣を醜いと思ったことがない。私は反射神経がいたく鈍いので、よくからだのあちこちに痣をこしらえる。紫色だなあと思っていると青くなり、黄色くなって、そのうち消える。人体の神秘である。醜くはないと思う。

 私にだって自意識はある。ナルシシズムもある。外見をアイデンティティに組み込んでもいる。だから朝起きてぜんぜんちがう容貌になっていたらパニックに陥ると思うが、生きていて起きうる程度の変化であればたいして気にならない。しかし人々がぎょっとするというならば配慮してあげましょう。そう思う。世の人はみんな精密にできていて、毎日むつかしいことを考えているのだなあ、と思う。私は彼らの能力を尊敬するけれど、彼らの言うことがいつも正しいとも思わない。

 私は頭の中のルールブックに追記する。顔はできるだけ同じ状態にしておくこと。※ ただし、それは私のやさしさである。私の顔について指図する権利は誰にもない。