傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたが憎くはないけれど

 この世には暗黙の了解とされることがたくさんある。彼女はそのルールをこまかく読むことのできる人間である。職においては短いスパンで客先に常駐し、大量の聞き取り調査を実施し、その場その場の暗黙のルールを察知する。暗黙のルールはだいたいの場合、職場を腐らせて生産効率を下げているものなの、と彼女は言う。

 彼女は柔和な印象を与える小柄な女性で、年相応の落ち着いた口調ながら声はややハイトーン、いつもにこやかだ。服装、化粧、表情、すべての要素にそつがない。全身から「自分は脅威を与えない」という空気を発している感じがする。私は彼女を企業忍者と呼んでいる。忍者は企業に雇われて現場に入る。忍者はわずかな期間で人々の不満を聞き取り、組織図にない上下関係や表沙汰にされていない軋轢を察知する。そうして「空気を読まない」業務フロー改善案を提出し、それに見合ったフィーを受け取って、去る。

 おっかねえ女、と私が言うと、怖いのは暗黙の了解に乗っかっている人間の意識のほう、と彼女は言う。人々は「それが普通だ」と言う、「当たり前だ」と言う、言うならまだましで、なんなら自分たちのローカルルールにすぎないものを空や大地のように受け取っている。そちらのほうがよほど恐ろしいことじゃないの、隣の会社に行ったらぜんぜん通用しないことをこの世の真理みたいに思っているなんて。

 彼女は子どものころから身体が小さく、声も小さく、性別は女で、家庭でも学校でも「普通」であれという教育を受けてきた。この場合の普通とは「その場の序列を察知せよ、控えめにしていろ、可愛くしていろ、しかし魅力をアピールしすぎてはいけない、そして補助的な目立たない仕事を進んで引き受け、それを美徳とせよ」という教育である。彼女はまず言われたとおりにした。それからその内実を考えた。その結果、ふざけるな、と思った。要するに弱そうな人間が面倒なことやって卑屈にしてろってことじゃん。そんなの身分制度じゃん。ふざけるな。

 そう、彼女は「普通」を読みこみながら、決してそれを内面化しなかった。それに適応したそぶりをしながら、ずっと怒っていたのだった。小学校五年生の運動会の組体操でクラスメイトにけが人が出るにおよんで、彼女は強く決意した。人間を積み上げてけがをさせるのが「普通」か。それならばわたしは「普通」を憎む。「普通」を手なずけたわたしが内部から「普通」を破壊してやる。

 そうして彼女は企業忍者になった。ここまでなら、めでたしめでたし、である。しかし彼女はなにしろ「普通」を手なずけているので、「普通」を好む人間に愛される。男性たちは彼女のことを、時代に応じた有能さを持ちながら自分をサポートしてくれる恋人候補だと思いこむ。女性たちは彼女のことを、自分の気持ちをわかってくれて一緒にがまんをしてくれる、自分の愚痴を聞いてくれる友人候補だと思いこむ。年にひとりずつくらい、そのようにして彼女を愛する者があらわれる。

 彼女は彼らの相手をする。たいていの場合、うまくいくように見える。しかしあるところで彼らは彼女に負荷をかける。典型的な例は、予定を一方的に変更しつづける、といったものである。彼女は一定期間、にこやかにそれを見のがす。忙しいのね、と言う。すると彼らはほとんど必ず増長する。彼女が自分に合わせることが「普通」と認識する。その瞬間、彼女は去る。失礼な人とはおつきあいできません、とだけ言って、相手の言い訳はひとことも聞いてやらない。相手はびっくりして混乱して傷つく。

 なるほど、たしかに相手は無礼をはたらいた。だからといってその切り捨て方はない。私はそう思う。まずは警告をしてやって、たがいの礼節をすりあわせる、それが人間関係のあるべき姿ではないか。私がそう言うと彼女は善良な笑顔で語る。

 わたしはねえ、運動会の指示をする教師だけじゃなく、組体操でいい目をみようとするやつらも全員憎かったの。見えないところで体重をかけてくる連中、当たり前みたいに踏みつけてくる連中。「それが普通だから」で生きている連中。ほんとうに憎かった。だから乗っかってくる人間を切って捨てて楽しむの。その人たちひとりひとりは、まあ、いい人なんでしょう。彼ら個々人を憎いと思ったことはない。でも増長した彼らを傷つけるのはとても気持ちがいいの。あの瞬間ほどの快感はほかにないの。え?そんなことをしてはいけない?どうして?彼らは「常識を知らなかった」、「空気を読めなかった」、それだけのことでしょう。