傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私の頭が悪いので

 自分がどこにいるかわからなくなる。正確には、自分がどこにいるか認識することなく歩いていた時間の結果として、現在地を把握できなくなる。私は歩く。私はスマートフォンを取り出す。それはいつでも現在地を示してくれる。自宅から近所といえるほどの距離の、いつもは使わない細い道にいた。

 私はすぐに茫漠とする。みんなが一度や二度通っただけの道を覚えて歩くのを見ると何度でもおどろく。自分の状態を自覚して長い時間が経ったけれども、それでもいちいちびっくりする。いつも頭の中に現在地があるなんて。あまつさえ「方向感覚」があるだなんて。Google Mapみたいだ。私はそれを手に入れるまで、迷わずに歩くということがほとんどできなかった。比較的よく行く場所でも、一年や二年では、土地を覚えるということがない。特定のルートだけ、特定の目印でもっていっしょうけんめいに覚え、メモをし、それでも歩いているうちに茫漠として、そうして迷うのである。

 私が迷うのは画像の記憶が極端にできないことにも起因していると思う。みんな頭の中に写真があるみたいですごいなと思う。私の頭の中にピントの合った写真はない。ぼやけた印象みたいなものがあるだけだ。目が見えないのではない。視力は健常の範囲内だし、色やかたちの認識もできる。しかし、その画像を覚えていられない。人の顔などは特徴を言語化して覚え、声や話しかたを覚え、それでもって何年か定期的に会うと、ようやく顔かたちだけで判別できるようになる。そのうえ忘れやすい。昔の知り合いの顔はまったく覚えていない。その人についてのできごとは覚えているのだけれども。

 要するに、特定の領域の知能、認知能力が極端に低いのだ。不便ではあるけれども、まあどうにかやっている。私の知能に問題があることは教育機関でも指摘されていたし、自分でもみんなのできることができないことはよくわかっていたから、二十歳くらいにはその特徴を把握していた。道理で数学の図形の問題が解けなかったはずだと思った。工作や裁縫もだめだった。空間認識能力が並外れて低い人間には難問なのだ。そのように納得すると気が楽になった。そうして状況に適応できたりできなかったりしながら、自分に合った仕事に就いて、わりと楽しく暮らしている。

 そんなだから、「頭が悪い」という物言いがどうもよくわからない。他人はときどきその言葉を使う。たとえば、自分の頭が悪いと言う。知能の問題があるのなら、特徴を把握して訓練してリカバリの方法を考えるのがよいと私は思うのだけれども、というより、ほかの対処が思いつかないのだけれども、彼らはそうではないようだ。それはおおむね嘆きで、もっと言えば卑しいものとしてのレッテル貼りであるように、私には聞こえる。

 彼らの言う「頭の悪さ」は、知的能力が標準であるとか健常であるとか、あるいはその人の想定する「普通」から逸脱していることを指すのだろう。ならば、どのあたりがどのように「悪い」のかが重要だ。私なら空間認識能力、それに記憶力の一部と現実感覚の一部が「悪い」。それ以外の知能には、目立つほどの特徴がない。当たり前だけれど、頭が悪いといったって、頭のぜんぶが悪いのではない。一部が悪いのである。何かしらの基準によって頭のぜんぶが「悪い」人がいたって、そのなかの能力の凹凸があるはずである。十把一絡げにできるようなものではないし、平均を取るようなものでもない。それなのに、「頭が悪い」と誰かが言うとき、それは総体的で本質的な、そして致命的な問題としてとらえられている。私にはそこのところがどうもわからない。頭が悪いのかもしれない。

 そうして頭が悪いというのは、悪いばかりのことではない。私は道に迷う。私は自宅の近所にあってさえ、外国にいるような寄る辺なさを味わうことができる。冬の日の晴れた空は何度見ても抜けるように青い。冬がくるたび、抜けるように、ということばを何度でもあてはめ、何度でもため息をつく。夕暮れに沈む建築群はひとつひとつ違う顔をして、細部を見ているとそれこそ日が暮れてしまう。あちらから歩いてくる人はなんとすてきな格好をしているのだろう。すれちがいざまに見える布地の質感のなんとなめらかなことだろう。夜の川面に映る都市の灯りのゆらめきは魔法そのもので、その上を飛ぶかもめたちは不思議このうえない造形をしている。

 私の世界の美しいことを、私はみんなに教えてあげたいと思う。そうしてそれが私の頭の「悪い」せいだということを。

 

 

友だちの解放奴隷の話

 三百万ほどもらってくれないか。

 友人がそう言った。言ったきり、いつもの顔して大きなカップでコーヒーをのんでいるのだった。私は少しひるんで、しかしそれを悟られないよう真顔をつくり、ジョージ・クルーニーか、と返した。それはなんだいと友人が訊くので、お金持ちの俳優が友だちに一億円ずつ配ったんだと説明してやった。

 一億円はないなあ。友人はそう言うが、奨学金の繰り上げ返済を終えたと話していたのが少し前だから、あんまり貯金はないと思う。三百万他人にやったら明日からどうするんだよ。そう尋ねると、働く、と彼女は言う。案の定、もらってほしいのは預貯金の全額らしい。私はゆっくりと彼女を諭す。よろしいか、ジョージ・クルーニーだって全財産を手放しているのではない。持っているものをぜんぶ人にやってはいけない。持っているうちのいくらかしか、誰かにやってはいけない。そもそもあんたはろくなものを持っていない。何も持っていないにひとしい。彼女はにこにこして頷く。だからさあ、と言う。だから、邪魔なんだよ、わたしは何も持っていないのがいいんだよ、そのほうが落ち着くんだよ。

 この友人はまともな養育者がなかった。大学生の時分には奨学金を親(と言いたくもない)が受け取って使っていた。それ以前の生育歴の詳細を想像すると私の具合が悪くなるから、意図的に想像力を停止している。彼女とは大学で知り合った。私と何人かの友人は、力をあわせて彼女の認識の変更を迫った。のちにできた彼女の恋人もそこに加わった。

 彼女はほんとうにばかだった。何も知らなかった。私たちがいちいち教えてやらなければいけなかった。好きなものを買って、自分のために料理をして、食べるべきであること。部屋に自分ひとりのときにも、冬は暖房をかけ、夏は冷房をつけること。自分の小さなけがや疲労をケアすること。風呂上がりには誰かが使用したバスタオルではなくて、洗濯したてのタオルを使うこと。自分の稼いだカネは自分のものであること。逃げなくていいこと。追うやつがまちがってるのだということ。そうして彼女は数年でまともになった。なおって良かったねえと私たちは喜んだ。

 なおってない。ぜんぜんなおってない。私がそのようにつぶやくと、彼女は首をごきごきと鳴らし、そうか、とこたえた。杉浦くんの言うとおりだね、やっぱりそっちが正しいのか。

 杉浦くんというのは彼女の学生時代の恋人の名で、今は恋人ではないんだけれども、なんだかときどき会ってはいるらしい。だってわたし二年くらい杉浦くんの家に住んでて家賃払ってなかったし、ごはんもいっぱい食べさせてもらったし。彼女はぶつぶつ言い訳をするが、そんなのはどう考えても後付けの理屈で、要するに彼女は世界に対して借りのようなものがあるなら返してしまいたいし、自分が勝ち取ったものをろくでもない誰かに持って行かれるくらいなら自分が好意を持っている相手に押しつけてしまえばいいと思っているのだった。持って行かれるわけないじゃないか。ぜんぜんなおってない。

 奴隷根性。私は宣言する。あんた、その奴隷根性、いつまで持ってんだよ、解放奴隷かよ。奴隷が悪いわけないじゃん、奴隷制度が悪いに決まってるじゃん、そんなのあんただってわかってるでしょうよ、頭でわかったら身につけろ、それくらいの時間は経っただろ、訓練しろ、私は奴隷の友だちになった覚えはない。

 彼女はくちびるをとがらせ、だって、と言う。寄付とかしても、ぬるい、気が済まない、杉浦くんは、寄付は、控除後の額面で一ヶ月に五千円までにしろって言う、あいつ細かくない?なぜ五千円?

 私はだまっている。彼女はため息をつく。そうして椅子にそっくりかえって、どうせわたしがまちがってるんだ、と言う。どうせね、わたしがいつまでたっても病気なんですよ、悪かったね。悪いとも、とわたしはこたえる。悪いと思ったら、へんなことしそうになったときは、私たちに言え、今みたいに。そしたら、それは間違ってるって言ってやるから。あんたは、間違った枠組みにむりやり押し込められて変な育ち方をしたんだから、間違っていて当然だ、十年やそこいらでなおらなくても、別にいいから、なんなら死ぬまで病気でも、かまわないから、その枠組みを超える努力をしつづけてよ、私たちにそれを見せてよ、病気の、まちがった、なんにも知らなかった人間が、幸福になって、幸福でいつづけるところを、私たちに見せてよ。

 

お正月に帰る

 あー疲れた、まじ疲れた。盆と正月ほんと嫌い。きみたちは俺の心のオアシスだよ、まあ飲んでくれ。正月だろうと何だろうといつも通りぼけっと過ごしているきみたちは最高だ。

 盆と正月は妻の実家に行くんですよ、一日ずつ。泊まりだと耐えられないから、この数年は日帰り。子どもに手がかかるっていう言い訳をしてるんだけど、ほんとは俺の心が保たないからなの。俺の実家は、すごく遠いし、親もべつに正月に来てほしがるタイプじゃないから、適当な時期に子ども連れていけば、それでいいんだよね、だからスケジュールがきついわけでもないんだ、拘束されるのは元旦だけだから。

 でもそのたった一日がものすごく疲れる。もうびっくりするくらい疲れる。いや、何もしないよ、妻の実家でこき使われるみたいなことはない。逆に何もしない。上座に座らされて飲み食いしてるだけ。子どもの面倒は妻が見る。俺はなにもしない。そうでないと妻の実家の連中の機嫌が悪くなるから。俺が子どものおむつ替えるだけでひっくり返りそうにびっくりして妻を別の部屋に連行する。だから妻はその一日だけ、俺に何もして欲しくないんだと言う。

 傅かれるのってひとつもおもしろくない。まともな精神を持っていたら不愉快でしかない。でも行かないといけないんだ、行って「立派なお仕事をなさっているやさしい旦那さま」をやらなくちゃいけないんだ、義母はね、そういうのが大好きなんだよ。俺が立派で、うちの上の子がすごくいい子で、そうでなければ下の子を許してやらないんだ。下の子はまだ小さいから、自分が義母の「マイナス点」だということを知らないで、にこにこして、おばあちゃんに会いに行くって言うんだよ。お年玉くれる相手が少ないからかなあ、お年玉うちで倍やれば行かなくていいかなあ、ほんとに迷うんだ、毎年。

 子どもだってそのうち自分が蔑まれていることを理解するだろう。義母は自分を差別者だと思っていない。差別する人間はだいたい自分を差別者だと思っていない。うちの下の子の難聴は治るものじゃない。原因だって特定できるものじゃない。でも義母にとってはそうじゃないんだ、二番目の子に障害があったのは「至らない娘」のせいなんだ。そして俺に謝るんだよ、そして俺を持ち上げるんだよ、それが義母の価値観では正しいことなんだよ。

 俺は義父母の言う「立派」な人間ではぜんぜんない。収入がすごく少なかった時期は妻が借りたマンションに住まわせてもらってた。あ、あのころはまだ結婚はしてなかったかな。俺は、どちらが稼いでいようがそのカップルの勝手だと思う、立派もなにもないと思う、でも義父母はそうじゃない、義父母は男が稼いで女がそれに傅くのが正しいと思っている。あと「いい仕事」とそうじゃない仕事があると思っている。なんかさあ、ぜんぶにランクがあるみたいなんだよね、あの人たちの頭のなかでは。職種、勤務先、家庭の構成員、住居の形態、その他もろもろにおいて。ばかみたいだと思うだろ、俺もそう思う。みたいっていうか、完全にばかだと思う。ばかというのがものを考えないという意味なら、これ以上のばかは存在しないと思う。

 でも俺はそこに行くしかない。妻が絶縁すると言わないで子どもが行きたいというなら行くしかない。そして消耗する、とても消耗する、上げ膳据え膳されて晴れ着で写真撮って子どもにお年玉もらって消耗する。

 俺はほんとうは暴露したい、俺が少しも立派じゃないって。今だって収入は妻とそう変わらないし、家事のための機械をばんばん買ってて、女だけが動き回ってる家なんか大嫌いだって言ってやりたい。長女一家はおまえのアクセサリーじゃねえんだ、立派な旦那さま?お利口な子どもたち?そんなもんどこにもない、あのじじいとばばあの頭の中にしかない。

 俺の子どもの障害をないものとして扱うのをやめろ。子どもの耳が聞こえにくいことがそんなに恥ずかしいか。恥ずかしいのはお前らの頭だ。「でも上の子がいるから」だと?人間が人間の代わりになるわけがないだろうが。なるんだったらお前らの代わりをよこせよ、俺の子を愚弄しない、俺の妻をおとしめない、代わりの「義父母」に取り替えさせろよ。

 ああ、すっきりした。ただいまって感じ。言いたいこと言えるの最高。俺は、盆正月に実家に帰りたいなんて思わないけど、自分の価値観には帰ってきたいと思う、自分が何を憎んでいて、何を大事にしているのか、わかってくれる人がいるところに帰ってきたいと思う。あけましておめでとう、今年もよろしくお願いします。

 

 

やさしさを集める

  新聞を読む。正確には、めくる。読むのは一部だ。見出しに目をとめる。文章の全体を視界に入れる。二秒あれば自分に必要な記事かそうでないかがわかる。この作業をはじめて二年目、われながら手慣れたものだ。わたしはそれを読む。わたしははさみを手に取る。わたしはそれを切り取る。「十二歳も十四歳も信じよう」。作家のコラム。子どもによる殺人事件を受けて、年齢で区切った名付けをするべきではないという内容。わたしも十四歳だ。何冊目かのファイルはすでに厚くふくれあがってごわごわしている。わたしは新聞のインクのついた指をぬぐい、それからベッドに横たわる。ファイルを胸の上に置く。新聞記事、ときどき雑誌の記事、たくさんあってうれしい。

 わたしはやさしさについて考えていた。ずっと考えていた。いつからか覚えていない。やさしいというのはごはんを作ってくれることではない、とわたしは思った。十歳くらいだったと思う。やさしいというのはお洋服を買ってくれることではない。ではなにか。今でもわからない。でもたとえばそれは「ひとくくりにしててきとうな名前をつけて放っておかない」ということだ。「たとえば」の内容をたくさん集めて、わたしは少し安心する。

 わたしの母はわりと難しい人だと思う。母はたとえば、かわいいとか好きとか言ってくれる人ではない(もちろん、かわいいとか好きとかって毎日言うのがやさしいということではない。それくらいはわかっている。もう十四歳なのだ)。

 母は叱るためのことばをたくさん持っている。母は褒めるためのことばをたくさんは持っていない。たぶん。すてきな服を着て会社に行くきれいな母をわたしは好きだったのに、おかあさんはどうして家にいないの、とだだをこねたことを覚えている。わたしが小さかったころ、母親というものはおおむね、パートタイム程度に働くものだった。すると母はわたしの名を口にした。すごくあきれた声だった。お母さんは仕事が好きなのよ。

 わたしにきょうだいはなく、友だちは楽しく笑って話すもので、その話に「やさしさとは何か」は含まれない。だからわたしは新聞を切り抜く。「学ぶとは、どういうことか」。建築家が夏休みに寄せて書いた記事だ。わたしははさみを使う。わたしは学校の勉強の半分くらいは要らないんじゃないかと思っているし、中学校の教師の振りかざす規則に納得もしていない。わたしの欲しいことばは学校より活字の中にある。だからわたしは本を読む。たくさん読む。そして新聞を切り抜く。

 新聞をリビングのラックに入れる。台所に母がいる。おかえり、とわたしは言う。ただいま、と母が言う。振り返りはしない。ただいまと言うときに毎日振り返ってにっこり笑うタイプじゃないのだ。というか、だいたい仏頂面だ。母がぼそりと言う。新聞の切り抜き、またしてたの。社会科の勉強にいいわね。

 母の言うことはまったく見当違いだ。たいていの場合。わかってない、とわたしは思う。そうかな、とわたしは言う。母はわたしの語尾をとらえない。わたしの疑問をつかまえてはくれない。鮭を焼いているにおいがする。あとは残りものの肉じゃがと簡単なサラダだ。母は忙しい。

 母はあまり話さない。食事を終えると母は、はい、とちいさな封筒を渡す。今週末はわたしの誕生日で、母は出張でいない。ありがとうとわたしは言う。中身は図書券だ。このところ毎年そうだから。お誕生日に何をあげるか考えなくていいって、ラクだろうな、とわたしは思う。

 母が別の包みをテーブルに置く。それから席を立つ。わたしはそれが自分のためのものだとわかるのにいくらかかかって、それから、あわてて包みを破く。母が振り返って顔をしかめる。包みはもっと丁寧にあけるものよ。わたしはこたえない。中身は小さいぬいぐるみだった。わたしがうんと小さいときに好きだったキャラクターだ。保育園の先生にその絵を描いてもらった。おかあさんもかいて。わたしがねだると、母はうるさそうに、お母さんは絵が描けないの、と言った。いいもん、とわたしは言った。じぶんでかくから、いいもん。ほんとうは絵を描いてもらいたかったんじゃなかった。

 わたしはぬいぐるみを見る。母の声が聞こえる。要らなかったら捨てなさい。ううん、とわたしは言う。これ好き。母はそのまますたすたとお風呂に向かう。

 わたしは白い紙に、理解、と書く。円でかこむ。やさしさ、と書く。円でかこむ。そのふたつはずれていて、でも重なっている。

マイノリティに科せられる罰金

 マニュアルも前例も上長もあてにならないトラブルが生じたので先輩を訪ねた。先輩はわたしの切り札である。わたしより十ばかり年長の女性で、とても頭の切れるひとだ。無駄口をきかず無愛想でとっつきにくく、同じ部署の人によると、誰が居残っていても自分の仕事が終わればさっさと帰るのだという。話すとおもしろいし、実は親切で、わたしは好きだった。

 先輩からインフォーマルな情報を仕入れ、わたしの考えを聞いてもらい、最終的な判断は保留にして(先輩はわたしが自分で判断することを好む)、それからわたしはお礼を言う。こうやって助けていただくのって一年ぶりくらいでしたっけ。いつもありがとうございます。わたし、初の女性管理職という名目でいろいろ押しつけられちゃってるんですよ。ほんとうなら先輩が先にそうなってるはずなのに、さては先輩、断りましたね、わたしくらいのときに。

 断っちゃいないわよ。先輩はにこりともしないまま答える。そんなオファーは一度も来ていないもの。なんでですかねおかしいですねどう考えても。わたしが言うと先輩はすこしだけ眉間をゆるめ、ばかね、と言った。そんなの、罰金を払っていないからに決まっているじゃない。

 わたしが首をかしげると、先輩は平坦な声で話す。罰金ってね、たとえばあなたが始終笑顔でいることよ。ただ管理職とは呼ばれないことよ。あなた、わたしが何て言われてるか知らないわけじゃないでしょう、無愛想で人格が欠損しているって言われているの知っているでしょう。

 知っている。でも言えない。わたしが困っていると、先輩はあごに親指をあてて、あなた、わたしが無愛想なのがどうしていけないんだと思う、と尋ねた。どうして人格が欠損しているとまで言われるんだと思う 。

 先輩が、その、女性だからですか。わたしはおそるおそる言う。先輩はだまっている。わたしはさらにおそるおそる、言う。先輩の外見が、あの、外国人のようだからですか、その、お母さまが、外国の方だからですか。

 先輩の肌は浅黒く、その顔立ちは見るからに「日本人的」ではない。わたしは固唾をのんで先輩の返事を待った。ばかねえと先輩は言った。あなただって女じゃないの。この会社には外国人の幹部だっているじゃないの。そんなことで差別されるはずがない。罰金を払っていればね。

 わたしはひやりとした。先輩は黙った。わたしは理解した。「女だから」「外国人のように見えるから」という理由による侮蔑は、表向きには避けられる。「女のくせに」「外国人のくせに」暗黙のうちに求められるふるまいをしない、それこそが、陰にこもったいじめの対象になるのだ。そして本人のいない、そしてインフォーマルとされる場では、もっとひどい侮蔑表現が平気で使われる。誰かが言っていた。あの人はほら、母親が、その手のあれだろ、当時ホステスだの風俗だので、日本にいっぱい来てただろ。男だまくらかして居着いたのもいっぱいいるわけ。そのわりに母親からおっぱいの使いかたは教わらなかったのかね。もう使えるトシじゃないけどな、ははは。

 そのせりふを聞いたとき、わたしの目の前は怒りで白っぽくなった。それなのにわたしは先輩のためになにもできなかった。わたしは新人で、無力だった。わたしは自分も先輩の言う「罰金」を支払っていると、自覚していないのではなかった。でも自覚したくないとどこかで思っていた。社会人にふさわしい振る舞いをしているだけだと思いたかった。でもそうではなかった。明白にそうではなかった。わたしは女であること、あるいは相対的に若いことへの罰金を、支払っていた。マイノリティにかけられる、水面下の不当な罰金を。その一環として怒るべきときに怒ることができなかったのだ。

 先輩、とわたしは言った。わたし、先輩に、罰金、払わせてないですか。先輩は眉間に皺を立て、首をかしげた。すごく無愛想だ。そしてそう思うのは、わたしが先輩に愛想の良い女の人でいてほしいと期待しているからだ。日本人らしくない顔をしているのだからわかりやすく好意的であってくれなければなんだか怖いと、そういうふうに思っているからだ。

 だってわたしは外見や親の国籍はどこから見ても日本人で、そこはマジョリティだからです、マジョリティは無自覚なんです、わたしだって、いま気づいてないこと、きっとあるじゃないですか、それがいやなんです、先輩に嫌われたくないんです。わたしがそう言うと先輩はもう一度眉間をゆるめて、ばかね、とつぶやいた。笑っているように見えた。

お父さんのUFO

 わたしがそれを見たのは空の半ばを薄雲が覆う冬の夕方で、太陽の位置には雲がなくて、空は、今にして思えばたいそうみごとな、青と茜色のグラデーションをしていた。わたしは小学校五年生で、空の色に感興をおぼえるような心はまだなく、足下のブロックをできるかぎり自分の決めたルールにしたがって踏むことに情熱を燃やしていた。友だちも同じことをしていた。わたしたちは学校から帰るところで、叱られないぎりぎりの帰宅時間までやくたいもないことで時間をつぶしていた。たとえばブロックの境目を決して踏まず、白っぽいブロックと黒っぽいブロックを踏む数が左右の足で同じくらいになるようにする、というようなことで。

 うつむいていた頭を上げると空に大きく輝くものがあった。わたしたちはそれを見つめた。わたしも友だちも口をきかなかった。それはとても美しかった。それはわたしたちに合図を送るようにまたたき、そして、消えた。残った空を見てはじめて、空は綺麗だとわたしは思った。

 わたしたちはきゃあきゃあと騒いだ。今の、今の。ねえ見た。見た。UFOだ。UFOだよ。どうしよう。ニュース見よう、きっとやってる。

 わたしたちはおおいに興奮し、それぞれの自宅に向かって走った。わたしの家には誰もいなかった。いつものことだ。子ども向けの携帯電話が一般的になる少し前のことで、わたしの通信手段は自宅の電話だけだった。わたしは震える指で母の携帯電話にかけた。母は出なかった。仕事中はたいていそうだ。わたしは留守番電話に向かって、できるかぎり簡潔に、自分の目撃した驚くべき現象について話した。留守番電話の録音の限界はすぐにきて、わたしは苛々した。次に父にかけた。そして同じように留守番電話に向かってUFOの話をした。今度はぜんぶ吹き込むことができた。わたしは少しだけ満足し、おおいに興奮したまま電子レンジを使って軽食をあたため、もりもり食べてから塾に向かった。

 ニュースではなにごとも放送されなかった。それどころか一緒にUFOを見たはずの友だちはその夜には急激にそれに対する関心をうしなっていて、電話の向こうで気のない声を出した。母は落ち着きはらって、そういうのはだいたい目の錯覚だ、と説明した。わたしは憤然とした。あんなに奇跡的なできごとがこの世に受け入れられないなんて、まったく信じられなかった。すると父が言った。それはUFOかもしれないねえ、宇宙人が乗っていたのかもしれないねえ。

 父は世界中で目撃されたという宇宙人の話を、わたしにした。母は途中であきれてお風呂に行ってしまった。父はかまわず、いろいろな宇宙人の話を詳細に展開した。今にして思えば、父はそういううさんくさい話にやたらと詳しい人だった。父は内緒話の口調になり、でも、と言った。まだ誰も宇宙人をちゃんと目撃できていないんだ。UFOを目撃したきみなら、そのうち宇宙人に会えるかも。そうなったらすごいことだ。

 わたしはとてもうれしくなった。父はうっとりと目を閉じ、宇宙人、とつぶやいた。おおむね機嫌の良い人だったけれど、その日の笑顔は格別だった。宇宙人、とわたしもつぶやいた。お風呂から上がった母がわたしたちを見て首を横に振り、外国人みたいに肩をすくめた。

 そういえば、とわたしは言った。わたしはもう大人で、父はとうに死んでいる。丈夫で病気ひとつしない人だったのに、わりと若いうちに突然の事故であっけなくいなくなった。今日は夕焼けが綺麗だったよ、見た?そのように訊くと、見てないと母は言う。それから笑う。お父さんに似てきたねえ。

 母が言うには、父という人は始終あやしげな本を読んでいるし、何かというとぼうっと空を見ているし、気が弱くて頼りないことこの上なく、働きはするが出世欲とは無縁で、ほんとうにだめな人だったのだそうだ。じゃあどうして結婚したのと訊くと、母はまた笑った。お父さんには夢を見る能力があるからよ。あたしは、お父さんとはちがう種類の本を読んでるけど、やっぱりしょっちゅう現実じゃないことを考えているから、夢を見ることのできる人じゃないと一緒に暮らせない、あんたは、お父さんに似てる。

 わたしは夕焼けを思い出す。今までに見たいろいろな夕焼けを思い出す。その中にUFOはいなかったかと思う。子どものころに見たあの美しい光の中には、きっと、宇宙人がいたのだ、と思う。宇宙人はいつか、わたしの前にあらわれるだろう。UFOにはきっと、お父さんも乗っているんだろう。上機嫌で降りてきて、わたしに手を振るんだろう。そう思う。

年末病の取り扱い

 いつもと同じ時間に目が覚めた。死にたいと思った。それから、おお、来たな、と思った。

 理由はわかっている。年末に決まって寝込む、その前哨戦のようなものである。年末年始というのは日本の家族の聖なる日なので、わたしのように生家と縁を切って故郷をまるごと捨て新しい家族も持ちたくない人間とは相性が悪い。帰省と家族の絆の話は周到に避ける。家族礼賛が正しいとも自分が正しいとも思わない。けれども少女時代のわたしにとって年末はいつもよりさらに重い家事労働をやらされるための、正月は次々やってくる親戚に酌をして下劣な「冗談」と「スキンシップ」にさらされる日であったから、メディアの流す年末年始像は見ないほうが健康に良い。

 あまりに調子が悪いと精神はかえって安定する。超低空安定である。不安定になるほどのエネルギーも残っていなければ生きるための最低限のことしかしないので、寝ていれば年が明ける。だからもっとも調子の悪い仕事納めから大晦日については自分で自分を心配する必要がない。一日十八時間くらいうとうとと眠り、目が覚めればまぶたの裏から悪夢を剥がし、鬱々とし、あらかじめ用意した食べ物をもそもそ食べる。

 精神がもっとも荒廃するのは仕事や生活の瑣事をこなすだけの気力と思考力が残っている十二月中旬からだ。今年もそろそろその気配がやってきた。わたしはカーテンをあける。外には冬の青空が広がっていて苛々する。斜め向かいの新築マンションのガラスが光って胸が悪くなる。首と背中と腰が痛い。わたしは機械的にカーテンを開ききり、軽いストレッチをする。痛みが移動して感じられて顔をしかめる。毎週近所の焙煎所で買っているコーヒー豆を挽く。味は金属質で不快である。

 ふだんのストレッチは気持ちが良い。ふだんのコーヒーはとても美味しい。要するに不調が来たのだ。わたしはそう思う。テレビはつけない。SNSも見ない。調子が悪くて気力が残っているときは何を見たって悲しいか不愉快か、なにも感じないかだ。だから見ない。コーヒーは香りだけが最高だった。味が変に感じられるのを無視して飲むと気分が少しマシになった。黒い魔法の液体。

 身支度をする。服はすべてちくちくと肌を刺し、なんでこんなもん買ったんだとわたしは思う。でもしかたない。これを着るしかない。足はやたらと浮腫んでいて靴に詰め込むと身体の苦痛がまたひとつ増える。わたしは幽霊のように歩く。

 夕方になると不調そのものに慣れてきた。たいていの冬と同じパターンだ。人間は何にでも慣れる。ずっと痛いと痛いのが当たり前になってくる。背中と腰をかばって歩くのでガラスに映った自分が一瞬老人に見える。まあいい、とわたしは思う。そのうちほんとうの老人になる。それまでは死なないように気をつけよう、なるべく。

 そもそも、とわたしは思う。死にたいと思っているのは、実は、「今」ではない。ちょっとアンコントローラブルかつ強烈なだけで、回想の一種である。死にたかったのは少女のころのことだ。いま死にたいのじゃない。大人になってから死にたいと思ったことはない。わたしはふだん、なかなか愉快に暮らしているのだ。それが遠い日のような気がするのは錯覚だ。わたしは、それを知っている。自分の想念が偏っているのもわかっている。不調のときに自分の内面ばかり見ないほうがいいことを知っている。

 そのように話すと友人は眉を寄せ、それじゃあお正月も寝てたほうがいいんじゃない、と言った。この友人は夫もふくめ三代前から江戸っ子で、帰省という概念がない。そのためによく正月に食事をする。友人が、今年は年末でも、と言うので、年末は具合が悪いのだと説明したら、正月も寝てなくていいのかと心配された。そうかとわたしは思った。それから説明した。

 お正月は、いいの。お正月が来るとわたしはまあまあ調子が戻って世界は美しいの。たぶんここが東京だからだよ、そして誰もわたしを追い立てることがないとわかるからだよ。なんで年末はそれがわかんないのかと思うんだけど、たまにかかる医者によると、そんないっぺんにはわかんないものなんだってさ。頭でわかれば症状が出ないなら精神科医は要らないって。まあそうだよね。医者が言うには昔、わたしはお正月も調子悪かったんだって。わたしは何でも忘れちゃうから、そのこともよく覚えてないんだけど、でもお正月はわたし、好きだよ。

 そうかい、と友人が言う。それじゃあ来年もお正月の東京を歩こう、人の少ない、うつくしい東京を歩こう。