傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

マイノリティに科せられる罰金

 マニュアルも前例も上長もあてにならないトラブルが生じたので先輩を訪ねた。先輩はわたしの切り札である。わたしより十ばかり年長の女性で、とても頭の切れるひとだ。無駄口をきかず無愛想でとっつきにくく、同じ部署の人によると、誰が居残っていても自分の仕事が終わればさっさと帰るのだという。話すとおもしろいし、実は親切で、わたしは好きだった。

 先輩からインフォーマルな情報を仕入れ、わたしの考えを聞いてもらい、最終的な判断は保留にして(先輩はわたしが自分で判断することを好む)、それからわたしはお礼を言う。こうやって助けていただくのって一年ぶりくらいでしたっけ。いつもありがとうございます。わたし、初の女性管理職という名目でいろいろ押しつけられちゃってるんですよ。ほんとうなら先輩が先にそうなってるはずなのに、さては先輩、断りましたね、わたしくらいのときに。

 断っちゃいないわよ。先輩はにこりともしないまま答える。そんなオファーは一度も来ていないもの。なんでですかねおかしいですねどう考えても。わたしが言うと先輩はすこしだけ眉間をゆるめ、ばかね、と言った。そんなの、罰金を払っていないからに決まっているじゃない。

 わたしが首をかしげると、先輩は平坦な声で話す。罰金ってね、たとえばあなたが始終笑顔でいることよ。ただ管理職とは呼ばれないことよ。あなた、わたしが何て言われてるか知らないわけじゃないでしょう、無愛想で人格が欠損しているって言われているの知っているでしょう。

 知っている。でも言えない。わたしが困っていると、先輩はあごに親指をあてて、あなた、わたしが無愛想なのがどうしていけないんだと思う、と尋ねた。どうして人格が欠損しているとまで言われるんだと思う 。

 先輩が、その、女性だからですか。わたしはおそるおそる言う。先輩はだまっている。わたしはさらにおそるおそる、言う。先輩の外見が、あの、外国人のようだからですか、その、お母さまが、外国の方だからですか。

 先輩の肌は浅黒く、その顔立ちは見るからに「日本人的」ではない。わたしは固唾をのんで先輩の返事を待った。ばかねえと先輩は言った。あなただって女じゃないの。この会社には外国人の幹部だっているじゃないの。そんなことで差別されるはずがない。罰金を払っていればね。

 わたしはひやりとした。先輩は黙った。わたしは理解した。「女だから」「外国人のように見えるから」という理由による侮蔑は、表向きには避けられる。「女のくせに」「外国人のくせに」暗黙のうちに求められるふるまいをしない、それこそが、陰にこもったいじめの対象になるのだ。そして本人のいない、そしてインフォーマルとされる場では、もっとひどい侮蔑表現が平気で使われる。誰かが言っていた。あの人はほら、母親が、その手のあれだろ、当時ホステスだの風俗だので、日本にいっぱい来てただろ。男だまくらかして居着いたのもいっぱいいるわけ。そのわりに母親からおっぱいの使いかたは教わらなかったのかね。もう使えるトシじゃないけどな、ははは。

 そのせりふを聞いたとき、わたしの目の前は怒りで白っぽくなった。それなのにわたしは先輩のためになにもできなかった。わたしは新人で、無力だった。わたしは自分も先輩の言う「罰金」を支払っていると、自覚していないのではなかった。でも自覚したくないとどこかで思っていた。社会人にふさわしい振る舞いをしているだけだと思いたかった。でもそうではなかった。明白にそうではなかった。わたしは女であること、あるいは相対的に若いことへの罰金を、支払っていた。マイノリティにかけられる、水面下の不当な罰金を。その一環として怒るべきときに怒ることができなかったのだ。

 先輩、とわたしは言った。わたし、先輩に、罰金、払わせてないですか。先輩は眉間に皺を立て、首をかしげた。すごく無愛想だ。そしてそう思うのは、わたしが先輩に愛想の良い女の人でいてほしいと期待しているからだ。日本人らしくない顔をしているのだからわかりやすく好意的であってくれなければなんだか怖いと、そういうふうに思っているからだ。

 だってわたしは外見や親の国籍はどこから見ても日本人で、そこはマジョリティだからです、マジョリティは無自覚なんです、わたしだって、いま気づいてないこと、きっとあるじゃないですか、それがいやなんです、先輩に嫌われたくないんです。わたしがそう言うと先輩はもう一度眉間をゆるめて、ばかね、とつぶやいた。笑っているように見えた。