傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一時間一万円で買えるもの

 以前職場にいた人から電話がかかってくる。同世代の知人で個人的に電話をかけてくるのは彼女くらいしかいない。ディスプレイには090ではじまる番号だけが表示されていて、だから私は宅配便か何かの電話だと思って、それを取る。彼女が話しはじめて、そうか、と思う。私には電話帳に登録せず拒否もしていない番号があったんだな、と思い出す。

 一年ほど前にも彼女から電話がかかってきたな、と私は思う。今の職場の人間関係がとてもつらいという意味の話を聞いた。ひとわたり聞いてから、私は力になれないと言って、切った。それまでの経験で、問題解決や気分転換のための提案をしても聞いてもらえることはないとわかっていたし、彼女の気が済むまで繰りかえし話を聞くだけの情愛を彼女に持っていないという自覚もあったからだ。

 このたびの彼女はとても陽気だった。ずっと高揚しているのでなんだか平板にさえ思えるような、そういう陽気さだった。私に関心を示すことなく一方的に話すのはいつものことだ。そういう人はけっこういる。相手に関心がなくても、会話をしている以上、相手の反応を待つ瞬間はある。ところが、彼女の声は私の相槌など聞いていないかのようなリズムで延々と流れていた。私は時計を見た。彼女が話しはじめて八分。完全に一方的な通話としてはかなり長い。

 彼女の話をすこし注意して聞くと、専門用語らしき語がいくつも混じっていた。言い回しはたいそうなめらかで、同じフレーズが何度も登場した。「素晴らしい出会いがあった」と彼女は繰りかえした。その出会いの場について尋ねてみると、彼女はようやく一方的な話を止めた。そうして「カウンセラー養成講座」がきっかけだったと説明してくれた。

 彼女は合計七日間の「養成講座」を終え、「カウンセラー」の名刺を刷ったのだそうだ。当たり前だが商売にはならない。本人が電話で「クライアントさん第一号」として夢中で話していたのは、彼女とも接点のあった同僚のことだった。お世話になった人だから五百円でカウンセリングした、と彼女は説明した。そう、と私はこたえた。彼女が私たちの職場にいたのは十年ちかく前のことだった。彼女が「カウンセラー」になったのは以前私に電話をかけてきてすぐだというから、一年ほど前だろう。私に電話をかけてきた理由は、その「クライアントさん」と連絡が取れなくなったので取り次いでほしいからだそうだ。

 お金なんかそんなにほしくないと彼女は言う。一方で、お金はいずれ湯水のように入ってくるのだと言う。カウンセラー仲間との勉強会が楽しいと言う。みんないい人ばかり、素晴らしい人ばかり、と話す。みんなで目的を達成しつつあるのだという。

 勉強会の会費について、私は遠慮なく尋ねた。一回二万円で、月に二回ほど開催されるのだそうだ。彼女は大人で、自分の稼ぎの範囲の消費をしている、と私は思った。それについてすこし考えた。それから、肯定でも否定でもない相槌をかえした。彼女はまだ話を続けていた。私の相槌は彼女の声にはじきかえされた。私は私の相槌が携帯電話会社がつくった見えない空間の中を永遠に漂うところを想像した。私が彼女に打ったたくさんの相槌が、それぞれ孤独に、どこへも出られずに、ひそかに流れつづけているところを想像した。

 友だちはカネで買える。私だって内面の具合の悪いときにはカウンセリング機関にかかる。そこにはプロフェッショナルがいて私の話を聞いてくれる。たとえばとても辛いできごとがあって、自分の内心が自分の手に負えないとき、そして周囲の人に助けてもらったあとでも始末がつかないと判定したとき、そういう機関はとても便利だ。

 要するに私は、人生のなかで何度か、お金を払って、自分に必要な話相手を借りた。今後も必要があれば借りる。すなわち、一時的に理想の友だちを買うのである。臨床心理カウンセリングとはそのようなものだと私は思っている。

 彼女は私とは別の形で、彼女の理想的な友だちを買ったのだろう。私はそのように考える。買っている自覚がないから悪いとも、わたしには言えない。私は自覚していないといやだけれども、それはただの私の欲望である。彼女の欲望ではない。

 私たちに理想の友だちはいない。当たり前のことだと思う。私たちは他人を頼る。できればたくさんの他人を、いろいろなかたちで頼って、その中にカネを払う相手がいたりいなかったりするのがよい、と私は思う。けれども、それは私の信念にすぎない。そして私は私の信念を彼女に説明する気はない。彼女は私の友だちではないから。

一晩百万で買えるもの

 その家に行って彼女の息子にかまうのは三十分までと決められている。私は小さい子を嫌いではないし、彼女の息子が赤ん坊のころから定期的に遊びに来ているから、たがいに慣れてもいる。それだから三十分が一時間になってもかまいやしないのだけれども、その子の母である私の友人は時計を見て子に宣言するのである。「さやかさんはお母さんの友だちなの。だからお母さんとお話をするの。ひろくんはそろそろ、さやかさんをお母さんに返さなくちゃいけません」。

 子にとって食事をしながらのおしゃべりは「遊び」ではないらしく、「ではママとさやかさんは何をして遊んでいるのか」という問答にいささかの時間を費やした。しかたないよと私は言った。ふだんより凝った食事を作ったり、ちょっといいお酒を持ち寄ったりしながら延々と話している、それが実はいちばんの「遊び」だというのは、七歳にはちょっと早いよ。私たちは、山とか海とか行っても結局のところしゃべってるわけだけど、この子にしてみればハイキングや海水浴や、家にいたらカードゲームなんかが「遊び」なんだから。

 友だちというのは本質的には互いの自由意思で話をする相手だってこと、あと何年かしたら、納得してほしいな。彼女は子を横目で見ながら言う。そしてそれは親にももらえない、どこからも買えないものだと、わかってほしいな。わたしの父、この子のおじいちゃんみたいには、なってほしくないな。

 彼女は資産のある家に生まれた。父親は代々持っている会社を大きくし、その後も潰すことなく、不景気だ不景気だと言いながら、派手な暮らしを継続していた。彼女が小学生の時分に、しばらく母親が遠くの実家へ帰省したことがあった。その後祖母が亡くなったから、長い介護であったのだと、もうすこし大きくなってから理解した。彼女の父は妻の長い帰省を「寛大に許す」男であり、同時に、妻の悲哀や労苦をわかろうとする男ではなかった。それが証拠に、と彼女は思った。お母さんは一ヶ月も二ヶ月も行きっぱなしで、わたしが母のところに連れて行かれることはなく、母はただ疲れた顔で帰ってきて、あちらこちらに頭を下げ、また祖母のところへ戻っていった。

 彼女の父親は保育の心得のある家政婦を雇い、豊富な習い事をさせた。そうして気まぐれに、遊びに行くか、と言った。

 父親の主たる遊びはドライブと海釣りで、背丈の低いスポーツカーのほかに、祖父母を含む家族がみんな乗れる大きな車を持っていた。それでもって海辺に走り、船を出して魚を釣るのである。大きな車を彼女は少し好きだった。そこには母や祖父母が乗っているからだ。

 けれどもその日、大きな車に乗っていたのは、知らない男だった。パパの友だちだよと父親は言った。男の名を聞き、自分の名を名乗り、ちいさく頭を下げると、男は大げさすぎない微笑と口調で彼女の利発さを褒めた。無神経な大人がよくするみたいに突然手をつないだり頭をなでたりもしなかった。皺も白髪もあるのに、奇妙な真新しさを感じさせる男だった。お父さんみたいじゃない、と彼女は思った。父母参観に来る誰かのお父さんみたいでもない。

 船を沖に出すとき、彼女は岸辺にいる。船酔いをするからだ。すこし乗せてもらって、それから降りる。今日は母も祖父母もいない。代わりのように、「パパの友だち」が残った。

 パパの友だちって、ほんとですか。そう尋ねると男は、もう敬語が使えるのか、と感心してみせて、それから言った。お嬢さんはとても賢いから、正直に言おう。僕はパパのほんとうの友だちじゃない。パパは僕が働いているお店に来てたくさんお金を遣う。だから僕はパパの友だちのような顔をするんだ。世の中にはそういう仕事があるんだよ。そのことをどう思う?

 それで、七つのあなたはなんと言ったの。そう尋ねると彼女は笑ってこたえた。父をよろしくお願いしますと言ったわ。できすぎているでしょう。でもほんとうなの。

 わたしは大きくなってから、父が銀座で一晩に百万遣うこともあったと聞いた。通い詰めるというほどではないにせよ、いいお得意さんではあったみたいね。高いお店の料金は、美しい女性を侍らせてお酒をのむためだけのお金ではないの。その場が自分にふさわしいもので、その場のみんなが自分によき感情を注いでくれているかのような気分を味わうための代金なの。美しい女性たちが話し相手になる店で影のように控えている男たちは、いっけん裏方だけれど、やっぱり売り物なのよ。休日に客の釣りにつきあうくらいのね。

 父にはもう誰も寄りつかない、と彼女はつぶやいた。お金が減って、母が死んだから、もう、誰も。

すべてのシステムに必要なメンテナンス、あるいは根性の育成について

 今日ぜったい定時で帰ります。残業しません。五分だってしません。

 彼女がそう言うので、もちろんですと私はこたえた。よそはどうだか知りませんが、うちのチームでは定時退社に上司の許可なんか要りません。根回しも要りません。定時が来たら帰るのは当然です。その日に帰ったらまずいシチュエーションでどうしても帰らなければならないときだけ相談してください。

 彼女は晴れ晴れとした顔で、それなら幸いです、と言った。なにか特別なイベントがあるの。誰かが訊くと彼女はいいえとこたえた。運動するだけです。定時に退社してジムに直行して思う存分みっちりやります。最近、いろいろ気ぜわしくって、それから疲れちゃって、一ヶ月も運動してないんですよ。これ以上運動しないと肩こりで死ぬ。

 肩こりでは死なない、と私は思う。けれども、がまんできない程度の不快をすべて放っておいたら、そのうち寿命が縮まるだろう。肩こりなんかたいしたことないから、多少食べものが偏るなんてよくあることだから、睡眠不足なんてあたりまえのことだから、だるいなんて甘えだから。そういうせりふを言う人はだいたい身体を軽視しているのである。不快は身体の声なので、運動不足なら運動を、栄養不足なら栄養を与えないとだめになる。肩こりでは死なないが、肩こりみたいなものを放置しない姿勢は生存に寄与する。

 彼女は若くして自己の維持についてわかっている。身体は複雑なシステムで、何かが欠けても何かが補ってくれるが、不足が長期間にわたって重なると、死ぬ。彼女はまた、精神も同様であることを知っているようだ。直属の上司である私にも堂々と評価ややりがいを求める。私はだから、彼女もその他の部下も、なにかというと褒める。褒めるのはただである。経費がかからない。だいいち、ほとんどの人には褒めるべきところがある。私はよく見て、そしていくらかのことをわかり、褒める。

 精神は複雑なシステムで、欠けたものを上手に補ってくれるが、不足が重なると、死ぬ。精神を蝕むのは身体の苦痛や不具合、それに、他人から認められないことだ。私たちはさまざまなところで人にかまわれる必要がある。毎日他人にかまってもらって、ときどきお金をもらって、それで暮らしていくのがよい。お金は雇用契約を結んで働くともらえる。他人にかまってもらうのは契約ではないから、私たちは人に話しかける。たとえば友人を持ち、たとえば家族をつくる。本などはひらけばいつでも書いた人に(遠隔で)かまってもらえるしくみであり、すばらしい発明だと思う。とはいえ、地産地消というのはマイナスの事象にもあてはまるので、日々の負荷には目の前にいる人からの、職場での負荷には職場での手当てがあると効率がよい。

 私は思うんだけれど、身体の手入れに気を回さない人はだいたい精神の手入れにも気を回さない。また、身体だけ気を遣っていれば健康でいられると思っている人もある。そんなはずはない。すべてのシステムはメンテナンスを必要とする。精神ほど複雑なシステムもなかなかないのに、どうして放っておいていいと思うのか。あるいは他人がどうにかしてくれると思うのか。自分で自分の精神の手入れをしなければならないに決まっているじゃないか。

 私たちの精神は日々試練にさらされて、それでもきちんと機能している、けなげなやつなのだ。生きているだけでけっこうしんどい。私など、服を着るのさえめんどくさい(家ではだいたい着ない)。それなのに、朝起きて職場に行ったりしている(もちろん服を着ている)。さらにめんどうなことやつらいこともたくさんある。たとえば、私たちは人を愛して、同じだけ愛されるということは、ない。相手は他人だからだ。どちらかの過剰が生じるし、なんならぜんぜん愛されない。それどころか、愛するためのエネルギーをうしなってしまうことさえある。これはほんとうにきつい。その毒は徐々に広がり、たとえば他者を傷つけてまわるような人格を作り上げてしまう。

 ジムで何してるのと誰かが訊く。彼女は元気にこたえる。マシントレーニングと、最近はボクササイズをやってます。サッカー部だったんですけど、就職してから集団で運動する余裕がなくて。そうか、だから根性があるのかな、と誰かがこたえる。

 根性は適切な鍛錬によってつき、メンテナンスによって維持される、と私は思う。自分を大切にし自分の機嫌をとっている人は、長持ちする質の良い根性を育てることができる。自分を苦しめるたぐいの根性は実はとても脆い。そうして、砕けたときに持ち主を深く刺してしまうのだ。

一人称の消失、またはありふれた怪談

 主人を起こす一時間前にそっと起床する。振動のみの目覚ましをセットしてはいるけれども、ほとんどの場合、決まった時間に目が覚める。主人を起こさないようにそっと行動する。洗顔を済ませ、洗面台をタオルで拭きあげ、新しいタオルを出す。洗面所のなかで、昨夜のうちに出しておいた衣服に着替える。
 主人の弁当をつくる。リビングのエアコンをつける。主人の朝食をつくる。仕上げる手前まで作業をし、リビングのカーテンをひらく。朝の光で見える埃をクイックルワイパーと雑巾で拭う。冬はできたての窓の曇りも拭く。主人が使うときに水が出ないよう、あらかじめ蛇口をひねり、少しお湯を出しておく。
 主人を起こす。主人が洗顔を済ませる。主人の着席に合わせて焼いたパンに決まった量のバターを塗り、冷たいサラダとあたたかい卵料理、ミルクまたはジュース、あるいはスープを出す。主人が食べ終える少し前にコーヒーをドリップして出す。主人の着る服を着る順に重ねたものを出す。玄関に回り主人の靴を出す。シューキーパーを外して靴に問題がないか確認してさっと艶出しをする。主人が出勤する。
 靴べらを仕舞う。前日に使用された靴を磨く。皿を洗う。主人が脱いだものを回収し主人が置いたごみを拾う。トーストを焼く。主人の残したおかずとあわせて食べる(主人がトーストを残したらもちろんそれも食べる)。主人のコーヒーの出涸らしで二杯目を出す。ゆっくりと飲む。視界が急に狭くなる。主人の出勤からあとは、飲み物を飲むときにはカップだけを見ていればよい。そのために目も首も動かさなくなり、視界が狭くなる。数分から十分、そのようにする。それから出勤する。

 主人の魚の骨をピンセットで抜く。巨峰の粒にそれぞれ十字の切れ目を入れる。主人はテレビを観ている。その番組がついていると嫌だったころがあったような気がする。今はそうではない。主人が選ぶものは所与の前提だ。山や海があるように、家庭環境もある。変化を察知し対応することはもちろん必要だが、一定の時間、環境は安定している。その環境についてよく知り、適応することが重要だ。

 主人の三食を作り、主人が手をつけなかったメニューはそのあと出さない。メニューはOKでも出し方にNGがあるケースもある。たとえば、骨のある魚は骨のある状態で出さない。熱いものはやけどしそうなくらい熱い状態で出す。さほど複雑なルールではない。実行することは難しくない。

 しかし、ルールは適用されないことがある。また、稀にルール自体が廃止されることがあり、新しいルールが生じることもある。雨が降るようにルールは一時除外され、地割れが起きるようにルールは変更される。雨には傘、地割れには新しい地図が必要だ。すぐにそれらを使用することができるよう、いつも準備している。家事なんてたいしたことじゃない。慣れてしまえばとくにそうだ。それよりも、時折の環境変化に対応することに労力を使う。

 主人の睡眠時間内に寝て起き、主人の在宅時に外出しない。主人の行動を先回りして準備をし、主人が動いたあとをたどって主人の放ったものを拾う。主人のいるときに宅配便が届かないよう気をつける。主人がやむをえず応対すると、あとでひどく機嫌を悪くするから、宅配便を指定した時間帯には手洗いに行かない。

 シャワーの蛇口を絞って、浴場の床に座り、シャワーヘッドをできるだけからだに近づけて入浴する。できるかぎり音を小さくするためだ。節水にもなる。入浴を終えたら主人が使って床に落としたタオルを使ってからだを拭く。髪はことによく拭き取り、そのあとは洗面所を拭き、さらに床を拭く。髪や水滴が残っていないかチェックする。決まった場所に置いた明日のための衣服を確認する。主人の使ったドライヤーのコードを決まったやりかたで束ね、棚に戻す。もちろん使わない。主人が眠っている。主人が夜中に起きてもいいように、台所で氷水を入れた保温ポットとおしぼりを準備し、枕元に置く。主人は眠っている。

 あなたはどうしたいのですか。目の前の知人が言う。主人に確認します。そう答えると、知人は目を閉じ、目をひらき、それから、言う。繰り返しますが、あなたが結婚されている相手ではなくて、あなたの意思を伺っているのです。あなたはどちらがよいかと、あなたはどちらを望んでいらっしゃるのかと、質問しているのです。

 だから、と思う。確認すると言っているじゃないか。わからない人だ。

策を弄さない勇気

 傷つきました、と彼女は言った。会議室の端までよく通る声だった。そうして、とても静かな物言いだった。私は職場にあってもいろいろの感情が顔に出るたちで、「素直でわかりやすい」と言われるけれども、彼女は私と反対に、淡いほほえみがデフォルトの、にこやかでも無愛想でもない、いつも落ち着いている人だった。発言の数が少ないのではなく、主張や意見もおもてに出していて、それでいて全体の印象は物静かだ。そのような人は多くはない。

 私は会社勤めをはじめて以来、喜怒哀楽をわかりやすくおもてに出し、それをコントロールすることで不利を防ぐという手法をとってきた。嘘もめったにつかない。嘘は面倒、ありもしない感情を表情でつくってみせるのも面倒、黙っていても仕事は回らない。それにもちろん、ずっと正直でいたら損をする。だから私は、おおまかな喜怒哀楽においては嘘をつかず、限度を超えた怒りと悲しみだけに蓋をして、その上に適度な怒りと悲しみの表現を載せることにしていた。「素直でわかりやすくて、裏表のないマキノさん」のできあがりである。

 そのようなキャラクタで社会生活を営んでいる私は、職場にあって傷ついた顔をすることがない。仕事がうまくいかなくたって傷つくことはない。不当なことばを浴びせられたり、職位が上の人間から嵩に懸かって侮蔑的な態度をとられたときなどに、傷つく。そうして私は、正当な理由なく自分を傷つける人間は反撃すべき敵であると思っている。殴られたら殴り返したいと思っている。だから殴られたときに「痛い」という顔をしていられないと思う。そんなの殴ったやつの思うつぼだし、殴り返すチャンスをうしないかねないと思う。だから私は傷ついた顔をしない。身を守りながら同じくらいのダメージを与える方法を考える。

 そうねえ、と彼女は言う。会議は終わり、彼女と、仕事上の彼女のパートナーを不当な目に遭わせた人間について、追って沙汰されることになった。私は彼女に近寄り、そっと言った。すごかったです。傷つきましたと言ってみんなに認めさせるのってすごいです。私、そういうやり方をしようと思ったことがなかった。

 だって、傷つけた人間が悪いのだもの。彼女はそう言う。仕事上の被害があったことを訴えるべきだと判断したから、言ったの。被害の内実は、無駄な仕事をさせられたりしたことなんだけど、お金の損失はまだ出ていないのよ。いま確実に出ている被害は、わたしたちが思いきり傷ついたことだけなのよ。だからそれを申告したまでよ。

 彼女は小さい。だから私を見上げる。それからちょっと笑う。マキノさんなら、と言う。マキノさんなら、相手が同じくらい傷つくことを言うでしょうねえ。刺すようなやつをねえ。目には目を、みたいなところ、あるものねえ。

 私が恥じ入って苦笑すると、彼女はちいさな手のひらで私の腕をぽんとたたいた。いいのよ、それしかなければそうしたっていいのよ。でも、不当な目に遭った報復はゲリラ戦しかない、みたいな考え方はしなくていいの。ゲリラ戦は弱者に残されたやむを得ない選択肢です。不当なことをしやがった人間は日の当たるところで裁かれるのがほんとうは正しいの。それができなかったのは自分たちが若かったり、力がなかったりしたからかもしれない。けれどもわたしたちはいつまでたっても弱いわけじゃない。わたしたちは年を重ね、キャリアを積み、たぶん実力みたいなものもついているのよ。たぶんね。

 そのときに古い戦い方しか持っていないのは悪手だと思う。わたしたちはもう、不当な目に遭ったら公の場で堂々と発言できる。わたしたちはそれくらい強くなったと、わたしは思う。それでももちろん、公の場で誰かの悪意をあげつらうことにはリスクがある。でも、そろそろそのリスクを取るべきだと、わたしは思う。

 わたしたちはもう、ゲリラ戦しかできない弱者じゃない。正規の手続きを踏んで戦って、それで多少の損をしたとしても、職を追われることはない。多少の損もしたくないほどのけちでもない。わたしたちは、若い人たちのために、被害は被害として申し立てたほうがいいと思う。組織の中で受けた傷は組織として対応されるのだと示すべきなのよ。

 彼女はことばを切り、ちょっと照れた。私はいたく感心して、わかりました、とこたえた。よほとのことがなければゲリラ戦はしません。そうねえ、と彼女は言った。ゲリラ戦のノウハウと武器は捨てずに倉庫にしまっておくといいけどね。またいつ必要になるか、わからないから。

教育の欠如と欲求の不満がもたらすもの

 くそばばあ、かあ。彼女は言う。うん、くそばばあ。私はこたえる。ことのほか気合の入った長文の罵倒メールを受け取ったので、法律家の友人と遊ぶついでにプリントアウトを持ってきたのだ。友人はげらげら笑い、よう、くそばばあ、この差出人によるとくそばばあ臭がするらしいじゃん、かがせろ、と言って、テーブルに身を乗りだした。それからラインマーカーで「くそばばあ」どころではない、書くにはばかられる語彙を塗りはじめた。

 インターネットなんかやってるから悪いんだよ。彼女はむちゃくちゃなことを言う。自分だってSNSを使っているくせに。SNSだってインターネットじゃないか。私がそのように抗議すると、彼女はひらりと手をかざし、ちがう、と首を振る。わたしのSNSは相互、マキノのブログは一方的。一方的に読まれていれば文句を言いたい人が沸いて出るのがこの世の常ですよ。

 差出人はリアルな知人かなあ、と私は尋ねる。ちがう、と彼女は断定する。ここには、くそばばあどころじゃないものすごいせりふも書いてあるけど、ベースは「ばばあ」系だよね、つまり、槙野、あんたのこと知らないんだよ。性別と年齢くらいしか推定できてない。だからそれを芯にして汚いせりふをくっつけてる。罵詈雑言は、九割架空でいいけど、芯になるところは何かしら事実めいたものがないといけないの。この場合はそれが「年齢が上であって、女である」ことなの。

 たしかに私はインターネット上で個人情報をあきらかにしていない。年齢は示している(事実だという保証はないが)。また、明確に女だと言ってはいないけれども、筆名と同名の語り手は女性として書いている。けれども、インターネットに出しているのは文章だ。文章を書いている人間に文句を言いたいなら、「へたくそ」とかが妥当ではないか。そもそも年をとっていて女であることが罵倒の対象になると考えている段階でだいぶ教育が足らない。言った段階で言った側の卑しさが示されるだけの語じゃないか。そんなのちょっと考えればわかることだろうに。

 私がそのような疑問を口にすると、彼女は笑って説明する。へたくそっていうのは存在の否定じゃないからね。技能の否定だから、罵倒としてはたいしたことないんだよ。そして「ばばあ」が「へたくそ」より強い罵倒になると思っている人は、あんたが言う「ちょっと考える」ができない人なんだよ。そういう人は、わりといるんだよ。

 あのさ、マキノ、ある種の罵倒はどんなに洗ったって批判にはならないんだよ。批判の語彙を幼稚に、薄汚くすれば、罵倒として成立する。けれども、罵倒のための罵倒は、どこを切ったって批判は出てこない。悪意しか出てこない。

 人が知らない人を罵倒するのはどうしてかわかる?罵倒する相手が先にあるのではないの。だめな人間がいるから罵倒するのではないの。この場合、槙野がろくでもない文章を書いたから罵倒したいのではない。こういう人たちには、よくも悪くも相手がいない。まず自分の苛立ちがあるの。怒りたいという欲求はしかるべき対象に対して怒れば解消するけど、それができないと、欲求不満がずーっとくすぶっている人間になる。そうして、発酵した悪感情がガスみたいに口や手から出てくるようになる。

 教育を受けた大人であれば、たとえ欲求の発散のしどころが見つからなかったとしても、立ち止まって自分の内心を把握して対処することができる。でもそのやりかたを知らない人もいる。感情の取り扱いのための教育を受けることができず、自分で自分を教育することもできず、外見だけ大人になってしまった人。けっこういるよ。あちこちにいる。そういう人たちはことのほか不全感を抱えているものだから、驚くほど簡単に怒りや憎しみを発酵させてしまう。ほんとうは相手のない、世界に対する怒りを。

 彼らはどこへ行くのかなあ。私は尋ねる。インターネットでちょっとものを書いている人間に長文で汚いことばをたくさん送ってきたって、せいぜいこうやって笑いものにされて、エスカレートしたときのために相談実績を作られるだけだよ。彼らの居場所はないよ。

 そうだね、どこへ行くのかね、と彼女はこたえ、プリントアウトを折りたたんでフォルダに仕舞う。インターネット上のメールアドレス、フリーダイヤルの顧客相談窓口、電車で乗り合わせた知らない人の耳、そんな場所に言語的なげろを吐いて、吐いて、吐きつづけて、エネルギーが尽きてやめるか、見かねた人間に口を塞がれるか。もっと運が悪ければ、捕まるね。つまり、どこへも行けない。

お知らせ

 Webメディア「りっすん」に書き下ろしを寄稿しました。本日公開です。

 

「当たり前のこと」ができないと思っていた

 

 また、少し前に「週刊はてなブログ」からインタビューを受けました。

 

『傘をひらいて、空を』槙野さやかさんインタビュー。「文章を公開することは、灯台の灯を点すこと」 - 週刊はてなブログ