傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一時間一万円で買えるもの

 以前職場にいた人から電話がかかってくる。同世代の知人で個人的に電話をかけてくるのは彼女くらいしかいない。ディスプレイには090ではじまる番号だけが表示されていて、だから私は宅配便か何かの電話だと思って、それを取る。彼女が話しはじめて、そうか、と思う。私には電話帳に登録せず拒否もしていない番号があったんだな、と思い出す。

 一年ほど前にも彼女から電話がかかってきたな、と私は思う。今の職場の人間関係がとてもつらいという意味の話を聞いた。ひとわたり聞いてから、私は力になれないと言って、切った。それまでの経験で、問題解決や気分転換のための提案をしても聞いてもらえることはないとわかっていたし、彼女の気が済むまで繰りかえし話を聞くだけの情愛を彼女に持っていないという自覚もあったからだ。

 このたびの彼女はとても陽気だった。ずっと高揚しているのでなんだか平板にさえ思えるような、そういう陽気さだった。私に関心を示すことなく一方的に話すのはいつものことだ。そういう人はけっこういる。相手に関心がなくても、会話をしている以上、相手の反応を待つ瞬間はある。ところが、彼女の声は私の相槌など聞いていないかのようなリズムで延々と流れていた。私は時計を見た。彼女が話しはじめて八分。完全に一方的な通話としてはかなり長い。

 彼女の話をすこし注意して聞くと、専門用語らしき語がいくつも混じっていた。言い回しはたいそうなめらかで、同じフレーズが何度も登場した。「素晴らしい出会いがあった」と彼女は繰りかえした。その出会いの場について尋ねてみると、彼女はようやく一方的な話を止めた。そうして「カウンセラー養成講座」がきっかけだったと説明してくれた。

 彼女は合計七日間の「養成講座」を終え、「カウンセラー」の名刺を刷ったのだそうだ。当たり前だが商売にはならない。本人が電話で「クライアントさん第一号」として夢中で話していたのは、彼女とも接点のあった同僚のことだった。お世話になった人だから五百円でカウンセリングした、と彼女は説明した。そう、と私はこたえた。彼女が私たちの職場にいたのは十年ちかく前のことだった。彼女が「カウンセラー」になったのは以前私に電話をかけてきてすぐだというから、一年ほど前だろう。私に電話をかけてきた理由は、その「クライアントさん」と連絡が取れなくなったので取り次いでほしいからだそうだ。

 お金なんかそんなにほしくないと彼女は言う。一方で、お金はいずれ湯水のように入ってくるのだと言う。カウンセラー仲間との勉強会が楽しいと言う。みんないい人ばかり、素晴らしい人ばかり、と話す。みんなで目的を達成しつつあるのだという。

 勉強会の会費について、私は遠慮なく尋ねた。一回二万円で、月に二回ほど開催されるのだそうだ。彼女は大人で、自分の稼ぎの範囲の消費をしている、と私は思った。それについてすこし考えた。それから、肯定でも否定でもない相槌をかえした。彼女はまだ話を続けていた。私の相槌は彼女の声にはじきかえされた。私は私の相槌が携帯電話会社がつくった見えない空間の中を永遠に漂うところを想像した。私が彼女に打ったたくさんの相槌が、それぞれ孤独に、どこへも出られずに、ひそかに流れつづけているところを想像した。

 友だちはカネで買える。私だって内面の具合の悪いときにはカウンセリング機関にかかる。そこにはプロフェッショナルがいて私の話を聞いてくれる。たとえばとても辛いできごとがあって、自分の内心が自分の手に負えないとき、そして周囲の人に助けてもらったあとでも始末がつかないと判定したとき、そういう機関はとても便利だ。

 要するに私は、人生のなかで何度か、お金を払って、自分に必要な話相手を借りた。今後も必要があれば借りる。すなわち、一時的に理想の友だちを買うのである。臨床心理カウンセリングとはそのようなものだと私は思っている。

 彼女は私とは別の形で、彼女の理想的な友だちを買ったのだろう。私はそのように考える。買っている自覚がないから悪いとも、わたしには言えない。私は自覚していないといやだけれども、それはただの私の欲望である。彼女の欲望ではない。

 私たちに理想の友だちはいない。当たり前のことだと思う。私たちは他人を頼る。できればたくさんの他人を、いろいろなかたちで頼って、その中にカネを払う相手がいたりいなかったりするのがよい、と私は思う。けれども、それは私の信念にすぎない。そして私は私の信念を彼女に説明する気はない。彼女は私の友だちではないから。