傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

一人称の消失、またはありふれた怪談

 主人を起こす一時間前にそっと起床する。振動のみの目覚ましをセットしてはいるけれども、ほとんどの場合、決まった時間に目が覚める。主人を起こさないようにそっと行動する。洗顔を済ませ、洗面台をタオルで拭きあげ、新しいタオルを出す。洗面所のなかで、昨夜のうちに出しておいた衣服に着替える。
 主人の弁当をつくる。リビングのエアコンをつける。主人の朝食をつくる。仕上げる手前まで作業をし、リビングのカーテンをひらく。朝の光で見える埃をクイックルワイパーと雑巾で拭う。冬はできたての窓の曇りも拭く。主人が使うときに水が出ないよう、あらかじめ蛇口をひねり、少しお湯を出しておく。
 主人を起こす。主人が洗顔を済ませる。主人の着席に合わせて焼いたパンに決まった量のバターを塗り、冷たいサラダとあたたかい卵料理、ミルクまたはジュース、あるいはスープを出す。主人が食べ終える少し前にコーヒーをドリップして出す。主人の着る服を着る順に重ねたものを出す。玄関に回り主人の靴を出す。シューキーパーを外して靴に問題がないか確認してさっと艶出しをする。主人が出勤する。
 靴べらを仕舞う。前日に使用された靴を磨く。皿を洗う。主人が脱いだものを回収し主人が置いたごみを拾う。トーストを焼く。主人の残したおかずとあわせて食べる(主人がトーストを残したらもちろんそれも食べる)。主人のコーヒーの出涸らしで二杯目を出す。ゆっくりと飲む。視界が急に狭くなる。主人の出勤からあとは、飲み物を飲むときにはカップだけを見ていればよい。そのために目も首も動かさなくなり、視界が狭くなる。数分から十分、そのようにする。それから出勤する。

 主人の魚の骨をピンセットで抜く。巨峰の粒にそれぞれ十字の切れ目を入れる。主人はテレビを観ている。その番組がついていると嫌だったころがあったような気がする。今はそうではない。主人が選ぶものは所与の前提だ。山や海があるように、家庭環境もある。変化を察知し対応することはもちろん必要だが、一定の時間、環境は安定している。その環境についてよく知り、適応することが重要だ。

 主人の三食を作り、主人が手をつけなかったメニューはそのあと出さない。メニューはOKでも出し方にNGがあるケースもある。たとえば、骨のある魚は骨のある状態で出さない。熱いものはやけどしそうなくらい熱い状態で出す。さほど複雑なルールではない。実行することは難しくない。

 しかし、ルールは適用されないことがある。また、稀にルール自体が廃止されることがあり、新しいルールが生じることもある。雨が降るようにルールは一時除外され、地割れが起きるようにルールは変更される。雨には傘、地割れには新しい地図が必要だ。すぐにそれらを使用することができるよう、いつも準備している。家事なんてたいしたことじゃない。慣れてしまえばとくにそうだ。それよりも、時折の環境変化に対応することに労力を使う。

 主人の睡眠時間内に寝て起き、主人の在宅時に外出しない。主人の行動を先回りして準備をし、主人が動いたあとをたどって主人の放ったものを拾う。主人のいるときに宅配便が届かないよう気をつける。主人がやむをえず応対すると、あとでひどく機嫌を悪くするから、宅配便を指定した時間帯には手洗いに行かない。

 シャワーの蛇口を絞って、浴場の床に座り、シャワーヘッドをできるだけからだに近づけて入浴する。できるかぎり音を小さくするためだ。節水にもなる。入浴を終えたら主人が使って床に落としたタオルを使ってからだを拭く。髪はことによく拭き取り、そのあとは洗面所を拭き、さらに床を拭く。髪や水滴が残っていないかチェックする。決まった場所に置いた明日のための衣服を確認する。主人の使ったドライヤーのコードを決まったやりかたで束ね、棚に戻す。もちろん使わない。主人が眠っている。主人が夜中に起きてもいいように、台所で氷水を入れた保温ポットとおしぼりを準備し、枕元に置く。主人は眠っている。

 あなたはどうしたいのですか。目の前の知人が言う。主人に確認します。そう答えると、知人は目を閉じ、目をひらき、それから、言う。繰り返しますが、あなたが結婚されている相手ではなくて、あなたの意思を伺っているのです。あなたはどちらがよいかと、あなたはどちらを望んでいらっしゃるのかと、質問しているのです。

 だから、と思う。確認すると言っているじゃないか。わからない人だ。