傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

バカの読書

 私の読書は「バカの読書」である。
 そう名づけたのは学生時代にアルバイトをしていた家庭教師派遣事務所の経営者だった。本人はよほどの依頼でないと家庭教師業務をしないと聞いていたが、出入りする者はみな「先生」と呼んでいた。
 先生は専門でも何でもない海外文学が好きで、私も同じ領域の本を好んでいたので、ときどき読み終わった本をくれた。新刊は学生時代の私にとって高価だったし、図書館に必ず入るものでもないから、わあいと言ってもらっていた。

 バカの読書とは、役に立たず、お金にもならず、最後のページをめくったら「たのしかったあ」と言って、それで終わる読書をさす。もっとも、これは私の解釈であって、言われたせりふはこうである。
 「あなたは、字が書かれた紙の束を口あけて読んで、ご機嫌になって、そして忘れる。バカの読書をしている」
 わりと悪口である。
 私がそのように言うと、先生は、そんなことはない、褒めている、とのたまうのだった。
 いいか、読書というのは、必要以上に良いものとされがちな行為だ。お勉強みたいな感じに見られる。学校を出て、もう背も伸びなくて、誰にも模試や赤本を与えてもらえなくなって、それでも成長だの充実だのに取り憑かれつづけているかわいそうな連中が読書をやたらと持ち上げるのはそのせいだ。読書は、賢くなれる高尚な行為だと思われているんだ。わたしはそのことが常々不満だ。お勉強で読むやつは、わたしの友だちではない。見栄で読むやつはさらに友だちでない。娯楽で本を読むやつだけが友だちだ。無人島にも本棚がほしいやつだけが友だちだ。そう思っている。
 だからあなたの本の読み方は好きだ。わたしが知っている他の誰よりバカみたいな読み方をするから。非効率的で、非ファッショナブルで、読むべきとされる本を無視していて、あなた自身の求めに忠実であることが、傍から見ててもわかるから。

 なるほど、と私は思った。先生はおそらく、読書の純粋さのようなものを称揚しているのである。この人だって勉強をするために本を読むことはあるのだし(事務所のデスクに受験産業とは無関係の語学のテキストが置いてあった)、仕事上の必要に迫られて読むこともあるはずだ。でもそれは「本来の読書ではない」というのが、この人の主張なのである。
 つまりあれですね、と私は思った。先生にとって、読書というのは本来、孤独で自由でなくちゃいけない、というわけだ。そうして、教育産業において小さいながらも事業を成功させた文化的な人間として、孤独でなく自由でない読書をしょっちゅうしていることが、少しばかり不満なんだ。
 
 わからなくもなかった。
 でもそういうのってある種のオリエンタリズムじゃないかなーと、私は思った。先生は、本を読むことが当然であるような業界の、周囲に読書の流行があるような文化圏の人間で、だから私の「バカの読書」を褒めるけれど、そんなの、私に言わせれば、生育過程で養育者にじゃぶじゃぶカネを遣ってもらってピカピカの学歴を身につけて時流にも恵まれて事業を安定させた小金持ちの戯れ言である。
 私が読書を娯楽とする人間に育ったのは図書館がタダだったからだ。無料の文字ばかり読んで育って、生活費を自分で稼ぎながら大学生をやっているのだから、カネのかかる映画やマンガより活字本のほうに親しんでいるのは成り行きである。私が選んだことではない。
 先生にとっての私って、象使いみたいだな、と私は思った。観光客のために象を操って生活費を稼ぎ、その薄っぺらい観光地仕草にうんざりしながら、それより割の良い労働がないからやっている、象使い。
 そのような象使いが出てくる小説も、先生がくれた本で読んだのだけれど。

 それから十数年が経った。
 私は相変わらず「バカの読書」をしている。でももう読書以外の娯楽も手に入れることができて、経費で本を買うことがあって、なにやら文化的な感じの人々が来る読書会に行ったりもする。
 そんなだからYoutubeが読書がらみの番組をプッシュしてくる。
 知らないYoutuberの番組が出てきたのでそのまま流してみたら、年をとった姿の、しかし間違いなくあの先生が、楽しそうにしゃべっていた。紹介しているのは名前も聞いたことのない、何だか変な本だった。
 私はひとりで笑った。この人は今でも、大好きな「バカの読書」をやる時間を確保しているみたいだ。

あなたが宇宙で五百二十日を過ごす条件

 人類が火星に行くために、閉鎖環境で五百二十日過ごす訓練をした人たちがいるんだってさ。どう、そういう話が来たら。来るわけないけど、来たとしたら。

 そう言われて、頭の中で宇宙飛行士になった。
 五百二十日というと、一年半くらい。フィクションに出てくる宇宙飛行士はたいてい、数人で宇宙に行く。そんでだいたいトラブルが起きる(フィクションだから)。協力と達成のドラマ、けんかや色恋沙汰みたいな人間関係のゴタゴタ、さらには船内での殺人事件、地球に帰る船から取り残された者の生き残り大作戦、母星の消失にともなう宇宙放浪の日々まで、かつて読んだ物語が頭の中をかけめぐる。
 数人きりで一年半。
 無理だ。
 頭の中で宇宙飛行士の格好をした私が泣きながら辞表を提出した。アメリカとかロシアとかの施設を使う宇宙飛行士が日本式の辞表を書くことは絶対にないけど。あといくらなんでも辞めますって言う時にあの格好はしないだろ。

 即決するねえ、と彼は言う。数人でダメなら、何人ならいけそう? 最低限で。
 人数の問題ではない、と私は言う。物理的な距離が近くてコミュニケーション必須の共同体から長期間出られないっていうのが私はもうダメ。すべての関係は、嫌になったらやめていいから、やっていけるんじゃないか。宇宙飛行士は、ミッションの間、つながるのをやめたら「死」じゃん。私みたいな人間は、閉鎖環境で感情が煮詰まったら、あっというまにダメになる。本物の宇宙飛行士は、科学者や技術者としての能力のほかに、ダメにならない精神が特別なのでしょ。
 あ、私、ひとりなら、五百二十日、いける。

 口に出してからびっくりした。私そんなこと考えてたのか。一人暮らしは好きだったけど、孤独に強いとは思わない。年をとったら友だちが死ぬ確率が上がるから、「長生きしても話す相手が残るように三年に一人は新しい友だちを作ろう」などと真面目に考えている。そもそも目の前にいて宇宙飛行士の話を持ちかけてきたこの人と一緒に生活している。そんな人間はさみしがりやに決まっている。
 そうか?
 そうだろうか。

 このまま考えるのはよくない、という直感がはたらき、私は問いをかえす。あなたはどう? 何人ならいける?
 彼は笑ってこたえる。おれは閉所恐怖症気味だから、宇宙船に乗れない。
 私も笑う。そうして宇宙船を舞台にした彼の好きな小説のタイトルを挙げ、話題を横に滑らせる。

 髪を洗いながら想像を再開する。
 私が気持ちよく働けるのは、私が被雇用者であり、最終的には二週間前通告で辞めることができるからだ。それが労働者の権利だからだ。今に辞めてやるなどと思っているのではない。長く働きたいと思っている。しかし、職場も自分も変化するのだから、いつでも余所で働くことができる状態でないと、安らかでいられない。若いころから「ここを辞めても食いっぱぐれない」状態を維持してきた。いわゆる安定よりも、もちろん豊かさよりも、そちらのほうがはるかに大切なのだ。
 私生活だってそうだ。切れないつながりは、私にはない。法律婚は切れにくいから、事前に契約書を作って、離婚する場合にできるだけラクにできる体制を整えてから、した(そういうのがOKな相手からの提案だったから承諾した)。その他のつながりはより簡単に切れる。私が組織やコミュニティから去り、あるいは一対一の連絡をやめれば、それで終わりである。

 オイルを塗る。二層式の化粧水を振る。
 ドライヤーをかける。
 では実際に社会的なつながりを断つことが多いのかといえば、実はそうではない。転職経験はあるが、私のいる業界では回数が少ないほうだ。長く続いている友人たちがおり、一方で長短問わず疎遠になる関係があり、そしてその「疎遠」の多くは曖昧なものだ。私が明確に関係を断ち切るのは、どちらかがどちらかにとって有害な存在になったときで、そんなのは滅多にあることではない。
 実際に断ち切る可能性の多寡は、この場合、関係ないのである。
 すべての関係は、嫌になったらやめていいから、やっていけるんじゃないか。
 自分のせりふが頭の中に響く。そうか、そう思っているんだな、私は。
 歯磨きをする。フロスを人差し指に巻く。
 双方の意思によらない関係が、とにかく嫌なんだ。やめられない関係しかないなら、身が切れるほどさみしいほうがずっといいんだ。まして期限つきなら、迷わず一人を選ぶんだ。

 リビングに戻る。彼は私の行動を時計代わりにしており、私が夜のルーティンから戻ると、風呂の時間だあ、と言う。おやすみ、と私は言う。寝室に入る。それから思う。あの人は、何人なら、宇宙船で五百二十日を過ごせるのだろう。

アメリカン・クッキーと異国の花嫁

 今年はもう、クリスマスから日本に帰っちゃおうかなあ。

 姉がそう言ったのでわたしはいくぶん驚いた。姉は十数年前にアメリカで就職しており、航空券が安い時期にしか帰国しない。もちろん年末年始に帰国したことはない。けちなのである。
 この数年にかぎっていえば、わたしたちの父は亡くなり、母はわたしたちの育った家を売って高齢者住宅に入った。わたしは東京にいるが、住居に客間なんぞありはしないし、年末年始もわりと仕事である。姉が帰国したところで泊まるところもなく、迎える人もいないのだ。高騰している都内のホテルを取るのか。けちなのに。
 わたしがそのように尋ねると姉はモニタの向こうで渋面をつくり、だって、と言う。クッキーがあるからさあ。なんか、つくづくいやになっちゃって。
 クッキー?

 姉はふだん、パートナーのジェイと、そのあいだに産まれた子どもと三人で都市に住んでいる。ジェイは白人男性である。
 ジェイの両親ときょうだいは他の州の郊外に住んでいて、姉が移民であることや非白人であることについて直接あれこれ言うことはないらしいが、「それにしたって田舎の年寄りだからさあ」と姉は言う。わたしは口をはさむ。人口密度の低い小規模自治体にだって現代的な考え方の高齢者はいるでしょうよ。
 しかしジェイの親族は、同世代であるジェイのきょうだいたちも含めて、だいぶ、オールドファッションドな人々であるようだった。姉は言う。彼らは善良な人たちなんだ。なにしろわたしが行くと皆でOrigamiを折るタイムがもうけられる。
 うへえ、とわたしは言った。それほんとに現代の話?
 姉は画面の中で肩をすくめ、歌うように告げる。彼らは、異国から来た花嫁をやさしく受け入れて、その文化に寄り添う、そしてクッキーを焼くーー女たちだけで。

 わたしはもう一度、うへえ、と言い、それから尋ねる。
 なんで行くの。シンプルに不快だし、向こうだって別に姉ちゃん個人が好きってわけでもないでしょ、なんせ何年経っても解像度がOrigamiどまりなんだから。ジェイが帰省したいなら一人で帰ればいいじゃん。子どもを連れていきたいなら彼が連れていけばいい。
 姉は言う。わたしはあんたみたいな異常個人主義人間じゃないから、夫の実家を「無関係」とか言えないの。ジェイの親はいちおう「義両親」なの。
 わたしは「ふーん」と言う。わたしは現在のパートナーから結婚をオファーされたとき、いくつかの条件をつけて受諾した。そのうちの一つが「あなたと婚姻契約を結ぶことは可能だが、それを根拠にあなたの親兄弟と『義家族』になることはない」というものである。姉はわたしのそのような言動をさして「異常個人主義人間」と言う。何が異常なのか。明治憲法下みたいなこと言ってるほうが異常だと思う。
 まあとにかく、姉はクリスマス休暇くらい『義家族』とうまく過ごしたいと思って毎年行っていたものの、そろそろ限界らしかった。

 なにがいやって、誰も食べないの、あのクッキー。
 姉がつぶやく。焼きたてが出されて皆がオオって言ってつまむ、っていう流れはあるんだけど、そのあと誰かが食べているのを見たことがない。帰りにカンカンに入れたやつを持たされるんだけど、ジェイも全然手をつけない。しょうがないからわたしが一生懸命食べるはめになる。
 いや別にまずくはない。普通のアメリカン・クッキー。普通のレシピでそこそこ衛生的に作られている。でも食べる気になれない。別にまずくはないんだけど。

 捨てれば。
 わたしがそう言うと、姉は、食べ物を? と念押しする。食べ物を、とわたしは繰りかえす。わたしたちは「食べ物を粗末にしてはならない」という教育を受けて育った。
 しかし、わたしが思うに、そのクッキーはたぶん食べ物であるより前に、記号なのである。
 家族の中には一時的な諍いも不仲もあった。息子は遠く離れた都会でよくわからない嫁をもらった。しかし、今ではみんな仲良しだ。クリスマス休暇には離れた家族も帰ってきて、皆でクッキーを焼く。
 そういう物語を象徴するのが、そのクッキー作りなのだ。家族(のうちの女性たち)で焼いて、みんなで食べる。その光景こそが、姉の「義家族」の必要としているものであって、クッキー自体は持ち帰ったあと捨てたってべつにかまわないのだと、わたしは思う。なあに、バレやしねえよ。

 たっかい航空券買うくらいなら、クッキーを捨てなよ。そのほうがずっと安いよ。そんで無理なくゆっくり過ごせるときにおいでよ。
 わたしがそのように進言すると、姉は可笑しそうに言うのだった。あんたって、ほんっとーに、けちだよねえ。

彼女の作った顔

 この顔が整形じゃないわけないじゃないですか。

 そう言われて返答に詰まった。それから慎重にこたえた。私そういうのよくわからないんですよ。今そう言われてしげしげ見たって、そんなに不自然には感じないし。
 彼女はちいさく首を傾け、ちいさくくちびるを動かす。彼女の声音はいつも一定のトーンにおさまる。使う空気の少ない、喉の上のほうに呼気を当てるタイプの、か細いけれど通る声。方言の気配がなく、標準語というにはアクセントとイントネーションの幅が全体に小さい。その声が言う。
 不自然なんですよ、わたしの顔は。
 理想を追求するっていうコンセプトで作ったので、自然ではないです。整形に近しい人たちは自然だって言うけれど、一般的にはそうじゃないって、当時からわかってはいました。時間も経って、最近の流行から少しずれているから、より不自然に見えるはずです。マキノさんがわたしの顔を「不自然じゃない」と思うのは、単に、よく見ていないからです。
 そうなんだ、と私は言う。ごめんなさい、実際よく見てないんだと思います。もうしわけない。
 すると彼女は口元に手を当て、喉の奥をわずかに鳴らす。眉間が少し開いたように見える。それを聞いて見て、思う。これが彼女の「声を出して笑う」様子なのだ。
 彼女は言う。
 こんな世の中で、顔を気にしていないのは、いいですね。気が楽だろうし、インテリジェントな感じもします。

 私は、声と話しかたと大まかなシルエットで人を覚えている。人の顔をきちんと覚えられないからだ。
 長期間ごく親しくしている相手の顔は覚えている。一緒に住んでいる家族の顔が変わったらさすがにわかる(頬が腫れていた時にちゃんと気づいた)。しかし、ちょっとした知人であれば、顔はあまり覚えていない。声のほうがよく覚えている。あまり話さない相手なら、会ったときの印象だけが(その時に思った言葉で)残っている。だから勤務先で誰かに会釈されたら相手が誰だかわからなくても会釈をかえす。「あなたとすれ違ってうれしいですよ」みたいな感じで。誰だかわかってないんだけども。嫌いなやつだったらどうしよう。
 人の顔を、気にしていないといえば気にしていないのだが、正確には、気にする能力がない。インテリジェントというのは、たぶん「ルッキズムに毒されていなくて政治的に正しい」みたいな意味なんだろうけども、そして私は政治的に正しいとされがちな思想傾向にあるけれども、見た目問題に関しては、単に弁別能力がないのである。
 そこまで説明するのは変だから、私はただ、あいまいに笑う。彼女は口をひらく。いつもは会話のレシーブ側にばかり回る人なのに、今日は珍しい。

 気づかれないのは嬉しいですが、気づいてほしい気持ちもあるので、ときどき、さっきみたいに、言うんです。整形ですよって。
 気づいてほしいのは、努力したからです。お金もかかりましたし、何より苦痛を乗り越えたので、そのことをわかってほしい気持ちがあるんです。今でもわたし、顔の一部の感覚が鈍くて、それが表情にも影響していると思います。そういう苦労をして手に入れた顔だって、たまに言いたくなるんです。受験勉強をがんばったから出身大学を言いたくなるみたいな感じかもしれません。ふふ、わたし、出身大学も、わりと言います。そういうタイプなんです。もちろん、ダイエットもしてます。骨切りするとタルミが出やすいから余計に太りたくなくって、毎日自炊して、ジムに行って。
 いいんじゃないでしょうか、と私は言う。評価してほしいことをアピールするのは、いいことだと思います。私こないだ鼻の病気で手術をしたんですけど、鼻の穴の中をちょっと切るだけの日帰り手術で大ダメージでしたよ。超つらかった。外見を変えるほどの手術なんて絶対耐えられない。すごい。意思が強い。立派なことです。自炊もジムもえらい。
 彼女は口元に手をやり、腰を折って笑いの仕草をする。私の発言がわざとらしくて可笑しかったのだろう。
 可愛らしい、と思う。
 そしてその可愛らしさを、この人は自分でわかっているのだろうかと思う。この人は立派なキャリアを積んだ大人だけれど、上手に描けた絵を見せたくて走ってくる幼児みたいな、いたいけな感じがする。
 そう思って、それから、自分に尋ねる。私がそう感じるのは、彼女が作った、「理想を追求した」顔のせいなんだろうか? 外見が「良い」から、この人を可愛いと思うのだろうか?

私を好きな街

 その日の読書会には、中央線沿線の住民が三人来ていた。
 私がときどきお邪魔している読書会で、会場は公営の会議室だ。そこで本を囲んで話したあと、八割がたの参加者が打ち上げに流れて雑談を楽しむのがならいである。
 その打ち上げの場で、誰がどこに住んでいるという話になった。そうしたら合計三人の最寄り駅が中央線だったというわけである。
 中央線、いいですね、と私は言った。友だちが何人か住んでいるのでときどき行くんです。すると阿佐ヶ谷在住の、近所で知り合って仲良くなったという女性二人が顔を見合わせてほほえみ、一人が代表するように、あら嬉しい、と言った。たくさん楽しんでね、いいところですから。個性的な本屋さんもたくさんあるし。
 はい、と私は答え、躊躇いをはさんで、結局口をひらいた。しかしですね、私は中央線を憎からず思っているのですが、中央線のほうは、どうも私を好きではないようなのです。

 そういう気がするのだ。一般的な感覚かどうかわからないのだが、「私の好きな街」がある一方で、「私を好きな街」があるような気がしてならない。そうして引っ越し魔である私は、住んでみてもどうにも落ち着かない街があることを知っている。賃貸を更新する気になれないのだ。「職場が近いから引っ越してきて、特段の不自由はないけど、ここはもういいかな」と思って、また転居する。そんなことが二回ばかりあった。
 でもその二回については、まあかまわないのだ。私だって通勤の便だけが目的で住んだので、先方が私を好きじゃなくても、私だって「あなたのことはそれほど」なのだから。
 しかし、自分が好きな街に好かれないのは、少し悲しい。だからかもしれないが、私は中央線沿いに住んだことがない。

 私は言う。つまり街には人格のようなものがあると、私は感じるのです。自分が好きなだけではだめで、相手からもそこそこ好かれていないと、居心地が良くないのです。みなさんはそういうのないですか?
 たとえばですか、うん、たとえば、西荻さんは人あたりが良くて話題の幅が広いので、大勢で集まるときには私がいてもOKなんです。にこやかに接してくれる。でも個人として仲良くする気はない。ホームパーティには呼んでくれない。国立さんは単に私に関心を持っていない。何度も会っているんだけど、たぶんフルネームを覚えてない。そして高円寺さんは私のことが積極的に嫌いです。あいさつすると露骨に「この人なんでここにいるんだろ」みたいな顔する。

 私がそのように話すと、皆がいっせいに「全然わからん」「いや、わかる」みたいな話をはじめて、座がにぎやかになった。例の阿佐ヶ谷の女性二人は、「あー、西荻さんってたしかにそんな感じ」「あの人昔からそういうところある」などと言い合い、それから、「阿佐ヶ谷さん」の性格を考えて披露してくれた。
 ちなみに、先方からも受け入れられた街はどんなところなの。二人が尋ねてくれるので、私はこたえる。
 昔、古い物件を借りて都心のあちこちに住んでみたんですが、神楽坂から曙橋にかけての、ええそうです、牛込ですね、とっても住みやすかったです。神田川を下って日本橋人形町もしっくりきました。静かなところだと、本郷小石川。それから、蔵前から上野にかけての、広い意味での浅草、と言えばいいかな、あのあたりが落ち着きます。賃貸で住んで気に入ってマンション買いました。

 三人目の中央線沿線住民が口をひらいた。僕は高円寺です。
 おお、と阿佐ヶ谷在住の女性が声を出した。いかにも高円寺に好かれそうよ、あなた。
 私もうなずく。彼は苦笑して、どのへんが、と言う。阿佐ヶ谷の彼女が私の顔を見る。私は考える速度そのままにこたえる。えっと、お仕事がマンガの編集者さんと伺ったので、そこがまず合ってる。あと、おしゃれ。古着とかを着こなす感じのおしゃれ。そしてたぶん音楽がお好きですね? そうでしょう、そうでしょう。高円寺さんは音楽をろくに聴かずに生きてきて何も考えずにカラオケでヒット曲を歌うような人間は好きじゃないですよ。私のことですが。そして犬より猫が好き。どうですか。
 受けた。合っていたらしい。
 帰ったら高円寺に言っておきます、と彼は言う。高円寺はね、いいやつなんだけどちょっとめんどくさいところがあるんで、そこが味でもあるんですけど、心の壁が高すぎる感じがある、それってどうなのかとオレも常々思ってるんで、もうちょいハードル下げろって、よく言っておきます。

あの日のほっともっと

 善子ちゃんは以前、僕の上司だった。今は妻である。
 僕が善子ちゃんを好きになったのは、ある意味で打算の産物だと思っている。マンガみたいに突然恋に落ちたとか、世界一美人に見えるとか、そういうふうに感じたことはない。善子ちゃんより容貌のすぐれた人はいっぱいいるし、突然恋に落ちるって僕は一度も経験ないんだけど、みんなあるんだろうか。友だち(僕の友だちは六人しかいない)も妹も、みんな、ないって言ってたけども。
 善子ちゃんは胆力と決断力に富むっていうか、仁をもって義をなすっていうか、なんかこう、武士みたいな人なのである。年齢がいっこしか違わないのが信じられない。少なくとも僕の十倍生きてないとおかしい。いや僕が十倍生きてもああはならないな、うん。
 善子ちゃんが上司になって一年も経つと、僕の肩の上あたりに、「この人が職場じゃなくって僕の人生にいてくれたらどんなにいいだろう」みたいな夢が、ふわふわ浮いてくるようになった。それでもってしょっちゅう残業中の上司から2メートルあたりの空間をうろうろしていたら、上司はある日ものすごい不機嫌な顔で、「もしかして、わたしのこと好きなの」と訊いた。僕はハイと答えた。上司は失笑して、いいへんじ、とつぶやいた。もう不機嫌そうではなかった。
 上司だったときはもちろん苗字に「さん」づけで呼んでいて、おつきあいしてもしばらくは「善子さん」が精一杯だった。やめてよ、と善子ちゃんは言った。ただでさえ何でもわたしの思いどおりにしてるんだから、パワハラ感でちゃうよ。「ちゃん」づけとかがいい。わかった?
 わかった。ので、そうした。
 一事が万事この調子なのだ。

 僕だっていわゆる引っぱっていく系男子をやったことがないのではない。大学生のときにできた彼女には頑張ってそういうふうに振る舞っていた。というか、それが男女のおつきあいだと思っていた。結果、疲れきって別れた。向いてないんだ。
 当時は恋愛に向いてないんだと思ったけど、もしも善子ちゃんが僕の恋人になってくれたのなら、向いてないのは恋愛じゃなくて「引っぱっていく」だったんだろうと思う。
 でも善子ちゃんは自分が僕の恋人だと思ったことはないのかもしれなかった。だってそういう約束したことないから。結婚するときだって、「子どもできたからわたしは産むけど、あなたはどうする? 父親になる?」って訊かれて、超動揺してうなずくことしかできなかったんだからさあ。そんで走って区役所に行って婚姻届もらって汗だくで戻ってきたら「あー、うん」「いいけど、これダウンロードできるよ」って言われた。
 善子ちゃんは僕のことを好きなんだろうか。
 僕がそのように語ると、お、おおう、と友人が言った。僕の六分の一の友人にして、紹介したらあっというまに善子ちゃんの(おそらく百分の一くらいの)友だちにもなった、高校の同級生である。子ども同士の年が近いので時々どちらかの家で一緒くたにしている。
 彼はじっとりと僕を眺めまわして、おもむろに言った。子ども二人も拵えといて、今更なに言ってんだ、おまえ。
 それは、うん、まあ、こさえたけど、それとこれとは別の話じゃん。そう言うと友人は「じゃあ本人に訊け」と言う。それができる人間なら相談なんかするわけないだろ、ばか。

 それからいくらかしてから、子どもが家にいない日が発生した。
 僕らの子どもは元気のありあまった四歳と六歳、そりゃあ手のかかるやつらだ。その子らが奇跡的に、保育園と習いごとの行事で同時に家をあけた。
 僕はやけに広く静かに感じられる自宅をうろうろして、無意識のうちに台所に立った。幼児のいる家の大人はとりあえず何か片づけようとして、片づいていたら食い物を作ろうとするものである。
 すると善子ちゃんが間髪入れず、何やってるの、と言った。子どもがやらかした時の声だった。そんな言われかた、部下だったときにだってされたことなかった。
 善子ちゃんは、待ってな、と言って出ていき、十五分後にほっともっとの袋をふたつ下げて帰ってきた。そうして言うのだった。あなたね、せっかく子どもがいないんだから、料理なんかするんじゃないの。そういう時はこれでしょ、これ。わたしはビールを飲むからね。ウイスキーも飲むからね。
 僕は死ぬほど笑って、彼女が缶ビールをあける一瞬のあいだに、ハイボールをふたつ作った。善子ちゃんのはダブル、僕のはシングル。善子ちゃんは、酒まで僕より強い。そういえば、しばらく一緒にゆっくり飲んでなかったな。
 そうして思った。善子ちゃんは、もしかして、僕のことを好きなのかもしれない。

自分ひとりの食卓

 一度言ってみたいせりふがある。
 「自分しかいないと作る気になれない」である。

 料理は愛情、などという妄言を支持したことは一度もない。子どものころから、バカがバカなことを言っている、と思っていた。料理屋の仕事は愛することではない。料理を出すことだ。愛情は愛情、料理は料理である。本気でそんなこと言うやつは料理のことも愛情のことも何ひとつわかっていないのだ。不幸なことである。おおかた、家庭料理に変な夢を見ているんでしょうね。けっ。
 それはそれとして、美味しいものを食べることは多くの人が享受する幸福のひとつである。その幸福が時に愛の契機になることもあるだろう。わたしなど、気に入りの食べもの屋の店長や板さんやシェフに対し、軽率に「好き!!!」と思う。別につきあうとかじゃ全然ないですけども。愛というのは幅広いものですね。

 わたしは素人ながらにけっこう料理をする。「料理は愛情」では絶対にないが、愛情のある相手に提供するのはやぶさかでない。家族の晩ごはんは週四でわたしが作っているし(毎日はやらない。自分の作ったんじゃないものも食べたいし残業とかするし)、帰省したら一度は両親に食事を作るのが習慣になっている。友人たちを招いてのホームパーティも好きだ。
 そのようにわたしの料理の腕前は多くの人々を相手に発揮されているが、その第一の対象は、もちろんわたしである。

 そりゃそうだ。わたしの好みや体調や気分をいちばん把握しているのはわたしなのだから、当たり前である。
 ぱぱっと作る晩ごはんも、わたしがその日に食べたいと思ったものが中心だ。子どもたちが幼児のころは辛いものや渋すぎるものについては代替を用意していたが、両親がうまいうまいと食べているので興味を示してほぼ何でも食べるようになり、早々に代替を準備する手間から解放された。親孝行なやつらめ。
 それから、わたしは年に一度か二度、自分をもてなす会を開いている。大学生のときからの習慣である。若いころは週末にしていた。今はそのために有休を取っておこなう。朝から電車に乗って気に入りの大きな専門スーパーに行き、午前中いっぱいかけて自分のためだけにフルコースを作り、お酒のペアリングもして、昼下がりからひとりで堪能するのだ。最高である。
 ちなみにわたしの家では、ホームパーティとわたしのひとりパーティをさして「パ」と呼ぶ。パのあとの数日は晩ごはんにパの残りが加わるので、みんなちょっと楽しみにしている。

 さて、先日、少し年上の友人が長い休暇を取った。早くに配偶者を亡くし、仕事をしながら四六時中走り回って二人の子どもを育てあげ、いったん休みたくなったのだそうだ。旅行でもするのかと思ったらどこにも行かずに家にいると言うので少し心配になって様子を見に行った。
 そうしたらリビングの隅に段ボールがあって、何かと訊けばカップうどんだと言う。いま晩ごはんはだいたいこれなんだあ、と言う。見れば素うどんである。
 わたしは驚愕した。子育ての忙しい時期に重宝するレシピをたくさん教えてくれた彼女が、ブリくらいまでなら捌ける彼女が、春になったら山菜の煮物をお裾分けしてくれた彼女が、素うどん。エブリデイ素うどん。
 いや素うどんは何も悪かないですが、えっと、インスタント食品を箱買いするなら、何種類かあったほうがよかないですか。飽きるでしょ。
 よかないよお、と彼女は言う。選ぶのめんどくさいもん。昼は近所の定食屋で日替わりを食べてるから栄養は大丈夫だよお。
 自分ひとりだと、何も作る気にならないじゃんねえ。

 わたしは言葉に詰まり、それから言った。あの、わたし、自分ひとりのために料理してます。家族にはそのついでに作ってるって思ってました。子どもが小さいときは別ですけど、あとは自分が食べたいものを作ってました。自分ひとりのために気合い入れて料理するの、すごい楽しみにしてます。そこまではしなくても、あの、だいたいの人は、第一に自分のために料理してるって思ってた。
 友人はにこりと笑って、言った。それは幸福なことだね。素晴らしいと思うよ。そして珍しいと思うよ。

 友人は褒めてくれたが、わたしは、少し恥ずかしい。薄々気づいてはいたが、食いしん坊が度を超している。あと、なんていうか、こう、繊細さに欠けるっていうか、ちょっとデリカシーが足りない感じしませんか。原始的っていうか。
 そんなだから、わたしも一度くらい、「自分だけだと料理する気になれないな」とか言ってみたい。