私の読書は「バカの読書」である。
そう名づけたのは学生時代にアルバイトをしていた家庭教師派遣事務所の経営者だった。本人はよほどの依頼でないと家庭教師業務をしないと聞いていたが、出入りする者はみな「先生」と呼んでいた。
先生は専門でも何でもない海外文学が好きで、私も同じ領域の本を好んでいたので、ときどき読み終わった本をくれた。新刊は学生時代の私にとって高価だったし、図書館に必ず入るものでもないから、わあいと言ってもらっていた。
バカの読書とは、役に立たず、お金にもならず、最後のページをめくったら「たのしかったあ」と言って、それで終わる読書をさす。もっとも、これは私の解釈であって、言われたせりふはこうである。
「あなたは、字が書かれた紙の束を口あけて読んで、ご機嫌になって、そして忘れる。バカの読書をしている」
わりと悪口である。
私がそのように言うと、先生は、そんなことはない、褒めている、とのたまうのだった。
いいか、読書というのは、必要以上に良いものとされがちな行為だ。お勉強みたいな感じに見られる。学校を出て、もう背も伸びなくて、誰にも模試や赤本を与えてもらえなくなって、それでも成長だの充実だのに取り憑かれつづけているかわいそうな連中が読書をやたらと持ち上げるのはそのせいだ。読書は、賢くなれる高尚な行為だと思われているんだ。わたしはそのことが常々不満だ。お勉強で読むやつは、わたしの友だちではない。見栄で読むやつはさらに友だちでない。娯楽で本を読むやつだけが友だちだ。無人島にも本棚がほしいやつだけが友だちだ。そう思っている。
だからあなたの本の読み方は好きだ。わたしが知っている他の誰よりバカみたいな読み方をするから。非効率的で、非ファッショナブルで、読むべきとされる本を無視していて、あなた自身の求めに忠実であることが、傍から見ててもわかるから。
なるほど、と私は思った。先生はおそらく、読書の純粋さのようなものを称揚しているのである。この人だって勉強をするために本を読むことはあるのだし(事務所のデスクに受験産業とは無関係の語学のテキストが置いてあった)、仕事上の必要に迫られて読むこともあるはずだ。でもそれは「本来の読書ではない」というのが、この人の主張なのである。
つまりあれですね、と私は思った。先生にとって、読書というのは本来、孤独で自由でなくちゃいけない、というわけだ。そうして、教育産業において小さいながらも事業を成功させた文化的な人間として、孤独でなく自由でない読書をしょっちゅうしていることが、少しばかり不満なんだ。
わからなくもなかった。
でもそういうのってある種のオリエンタリズムじゃないかなーと、私は思った。先生は、本を読むことが当然であるような業界の、周囲に読書の流行があるような文化圏の人間で、だから私の「バカの読書」を褒めるけれど、そんなの、私に言わせれば、生育過程で養育者にじゃぶじゃぶカネを遣ってもらってピカピカの学歴を身につけて時流にも恵まれて事業を安定させた小金持ちの戯れ言である。
私が読書を娯楽とする人間に育ったのは図書館がタダだったからだ。無料の文字ばかり読んで育って、生活費を自分で稼ぎながら大学生をやっているのだから、カネのかかる映画やマンガより活字本のほうに親しんでいるのは成り行きである。私が選んだことではない。
先生にとっての私って、象使いみたいだな、と私は思った。観光客のために象を操って生活費を稼ぎ、その薄っぺらい観光地仕草にうんざりしながら、それより割の良い労働がないからやっている、象使い。
そのような象使いが出てくる小説も、先生がくれた本で読んだのだけれど。
それから十数年が経った。
私は相変わらず「バカの読書」をしている。でももう読書以外の娯楽も手に入れることができて、経費で本を買うことがあって、なにやら文化的な感じの人々が来る読書会に行ったりもする。
そんなだからYoutubeが読書がらみの番組をプッシュしてくる。
知らないYoutuberの番組が出てきたのでそのまま流してみたら、年をとった姿の、しかし間違いなくあの先生が、楽しそうにしゃべっていた。紹介しているのは名前も聞いたことのない、何だか変な本だった。
私はひとりで笑った。この人は今でも、大好きな「バカの読書」をやる時間を確保しているみたいだ。