傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

慰めのリザーブ

 そういうわけで会社を移るの、と友人は言った。そりゃあいいねと私はこたえた。私たちはいわゆる就職氷河期世代で、「職場はときどき移るもの」くらいの感覚を持っている。新卒の就職状況がなにしろひどかったので、ぼけっとしていたら食い扶持を稼げなくなるという意識が根強い。同世代の友人に資格職と外資系と公務員がやたら多く、ほとんど全員が転職を経験している。生まれた時代のせいである。

 私たちはもう四十を過ぎたが、同世代の友人のほぼ全員が現役で何らかの勉強をしている。高尚な意識をもって努力しているのではない。生まれた時代のせいで「いつも戦って新しい武器を研いていなくてはそのうち食えなくなる」と思い込んで、それで勉強しているのである。新卒の就職でつまずいて連絡を絶った昔のクラスメートが今なにをしているかわからない、生き残った自分たちだって今後どうなるかわからない、そういう意識が消えない。だから勉強するし、行動するし、決断する。そういうのは立派というよりかわいそうなのだと思う。

 今の会社も悪くはないの、と友人が言う。決して悪くはない。そして次の会社には、入ってみなければわからない大きな欠陥があるかもしれない。欠陥はなくても単にわたしに合わないかもしれない。会社全体は問題なくても、絶対に許容できないタイプの上司に当たるかもしれない。

 そうだね、と私は言う。それでも移ろうと思うだけの魅力が、その新しい会社にはあるんだね。そうなのと彼女は言う。つまりわたしは賭けをするの。それでお願いがあるんだけど、新しい会社でうまくいかなかったら、「そうか」って言ってほしいの。そしてわたしを肯定してほしいの。

 わたしをジャッジしないでほしいの。「前の会社にいたほうがよかったんじゃない?」なんて言わないで。「損をしたね」とも言わないで。「でも今のところでがまんするしかないでしょ」みたいなせりふもいやだし、「次の転職は慎重に」みたいな忠告もやめてほしい。

 私は気取ったしぐさで胸に手を当ててうなずく。そうして話す。もしもあなたが新しい職場に問題を感じたなら、私はたとえばこんなふうに言うよ。

 転職活動であきらかになったように、あなたには人材としての高い価値がある。だからこの先の選択肢がたくさんある。あなたはたったひとりで、そして短期間で転職先を見つけて、合格した。エージェントさえ使わなかった。たいへんなことだ。すばらしい行動力だ。もちろん、よりよい転職先を見つける必要があればエージェントを使うこともあるだろうし、末永く同じ会社にいることだってあるだろう。会社をかわらなくても職場環境を変えることはできる。あなたにはそれだけの実力がある。何も心配いらない。

 彼女はにっこりと笑う。合格? と私は尋ねる。合格合格、と彼女は言う。じゃあ、今の、予約するわ、わたしが新しい会社の愚痴を言いたくなったときのために。

 私はときどきこの種の「予約」を受け付ける。言語的な予約というか備蓄というか保険というか、そういうたぐいの約束を引き受ける。私の友人の多くは、人生のところどころで大きなリスクを取るタイプである。「値崩れの心配もあるがマンションを買う」とか「まだよく知らない人と遠距離の交際をはじめる」とか「予定になかったハイリスク妊娠を続行させる」とか「起業する」とか「海外で働く」とか。欲しいものがあったら走って行って取る、取れずにけがをして帰ってきてもかまわない、偶然目の前に良さそうなものがあらわれたら反射的に手を伸ばす、そういう人間が多い。

 でも彼女たちだって、ぜんぜん怖くないわけじゃない。というか、怖いに決まっている。だから彼女たちは私に言う。ねえ、もしもうまくいかなかったとしても、論評をしないでね。起きてしまったことを受け入れるようなことばをかけてね。失敗して弱っていたら、うんと甘やかしてね。

 彼女たちは自分が大きく傷つく可能性を把握している。傷ついたら平気でいられないこともわかっている。自分が鉄の女なんかじゃなくて、やわらかな生き物だと知っている。家族や恋人は距離が近すぎて傷ついたとき一緒に痛みを感じてしまうこと、だから落ち込んだり批判的になったりしやすいことを知っている。

 だから私は彼女たちの心理的な保険になる。備蓄になる。予約される。彼女たちはかしこいから、そういう相手もきっと何人か持って、分散していることだろう。