傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

飛行機とサンダル

 取引先での会議がいつになく長引いた。彼は腕時計の盤面を視界の端でとらえ、直帰、と思う。よく来る場所だから、道はもう覚えていて、通り道も固定されつつあった。でも、と彼は思う。今日は、帰ってすぐ寝るような時刻でもないから、ちょっとうろうろしよう。

 彼は方向音痴なのに、通ったことのない小さな道に入るのが好きで、気づけば迷っている。道に迷うのが趣味なのかもしれないと思う。さんざんうろついたあと、不意に、もういいや、という気になる。それからおもむろにスマートフォンで現在地を確認する。道草しても遠回りしても文句を言うやつはいない。誰にも責任を取らなくていい。そのような状況をつくることが、彼は好きだった。

 うろうろしているときに彼は、たいていなにも考えていない。最初のうちは考えていることもあるけれども、そのうち無心になる。目的地や美しい眺めみたいなものはとくに必要ない。ただ歩き、知らない路地の、なんということのない景色を流し見て、それで気が済む。

 視界になにかが入る。なにか、見覚えのあるなにか、見覚えのある人、知っている人、あの人。一瞬でそのような情報処理がおこなわれ、彼の頭脳はなにも考えない快楽をもぎ取られる。

 その女性は今日尋ねた取引先で来訪を告げると扉を開けてくれる社員で、あまりにいつも開けてくれるので、彼はなんだか居心地が良くないのだった。受付もないし、同じフロアに来訪相手がいるのだから、人を介する必要はないじゃないかと思う。もう慣れているのだから、ビルのセキュリティチェックを通ったあとは勝手に会議室まで行かせてくれたっていいのに。来訪相手が出てくるという手もある。まあ、来訪相手はなんだか尊大な人物だし、動きが鈍いから、椅子から立ち上がりたくないんだろう。彼はそんなふうに考えている。そんなわけで彼女は彼を気まずくさせる。路地でも反射的に気まずくなり、それから彼は、靴、と思った。

 彼女は野暮ったいパンプスを気持ちよく脱ぎ、別の靴に足を入れて滑らかに身をかがめ、靴紐を結んだ。その靴は使いこまれたジョギングシューズで、「運動靴」ということばを彼は思いうかべた。そんな単語が自分のなかに残っていたことに彼はすこし驚いた。

 あ、と彼女がつぶやき、彼の名を口にして、ぺこりと頭を下げた。彼も頭を下げた。その靴、と彼は言った。考えるより先に発声していた。すごくいいですね。彼女はほほえみ、ありがとうございます、とこたえた。わたしの愛車です。

 彼が茫漠と彼女を眺めていたからか、彼女はすこし低い、やさしい声で話した。自宅まで早足で四十分、雨がひどくなければ徒歩で通勤していること。社内ではいわゆるオフィスカジュアルに合う靴で働いていて、人前で履き替えるのが気恥ずかしいから、こうして近くの路地で履き替えていること。夏はシューズの代わりにいくらでも歩けるサンダルを使っていること。

 彼女のいる会社を訪ねて扉を開けてもらっても気まずいばかりだった。それなのに、なんてすてきなんだろう、と彼は思う。ようやく言語化して、思う。こんなに鮮やかに輪郭が景色から切り出されている人をはじめて見た。

 彼女はあっけなく消えた。消えたのではなくて歩き去ったのだけれど、愛車という比喩にまかれて彼の記憶のなかでは一瞬で路地の向こうに消えたことになっている。

 彼女が夏に履くサンダルはどんなのだろう、と彼は書く。一方的に予期せぬ恋に落ちた人間の多くがそうであるように、彼は落ちつかず、三日もすると、なにを話しても問題のない(役には立たないが害もない)友人にスマートフォンで連絡をとっていた。スポーツサンダルってどんなのかな、見たことない。そのような文言を送信すると、ほどなく返信のメッセージが届く。ぼろいジョギングシューズを車にしちゃう人だからね、サンダルはきっと飛行機だ。かかとに羽根がついてる、一人乗りの飛行機。

 飛行機を持っている人に気に入られるにはとうすればいいんだろう。僕の車は彼女のよりぜんぜん素敵じゃない。飛行機は持ってない。送信。返信。きみの車だってそんなに悪くない、いつも女たちに気に入られていたでしょう。そんなんじゃだめなんだ、そういうので気を引けるタイプじゃないんだ。たぶん。送信。

 返信。きみが二人乗りの飛行機を作ればいいんだよ。靴だけでどこまでも行けるみたいな、自由な人には、二人乗りも楽しいですよって提案すればいい。そういうのって、歩くの嫌いな相手を乗せてあげるより、ずうっと楽しいような気がする。

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