傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

心めあて

 忙しいのに来てくれてありがとうと僕は言う。それから、どうしてと訊く。こんな時間に来てもらうなんてあきらかに僕のわがままだよね。どうしてそんなに甘やかしてくれるの。

 僕はそのようなせりふを、できるだけ軽く発する。あなたに気に入られようと思って、と彼女はこたえる。まるで恋する乙女ですねと僕は言う。そんなにいいもんじゃないよと相手は言う。あなたがわたしを気に入ってわたしのいいように動くようになったら楽しいでしょう?だからよ。

 僕は彼女に笑いかける。彼女も僕に笑いかける。僕は彼女の余裕めかした表情を見て満足する。わたし余裕ですから、という顔をことさらにつくってみせる人間にはたいてい余裕がない。

 余裕のある女を、僕は好きだ。力量があり、自分のスタイルがあり、トラブルが起きても膝をつかずにバランスを取り戻すような強靱さをそなえた、大人の女が。三十過ぎてはや数年、同世代の男どもはみんな若い女がいいって言うけど、僕はあんな見るからに不安定な生き物を攻略するゲームには興味が持てない。簡単すぎるだろ、いくらなんでも。まあ、セクシャルな意味でも三十じゃまだ若すぎると感じるような嗜好なんだけどね。このあいだの007だってモニカ・ベルッチがエロすぎてもうひとりのボンドガールのことあんまり覚えてねえや。

 こんな話をしておいてなんだけど、僕にとって身体的接触はそこまで重要な問題じゃない。いや、しますけど。いろいろと、こまごまと、おかしなことなんかも、しますけど。でも身体の快楽なんて、色恋沙汰においてはおまけですよ、おまけ。

 僕は心がほしい。僕は声に出さずに彼女に呼びかける。ねえ、きみは過去に何人かの彼氏がいて、もしかすると今もいるかもしれなくて、子どもを持たないと決めていて、子どもができやすい年齢も過ぎていて、だからもう、油断してるんだろ。自立して安定しててこれから誰かに振り回されることなんかないと思ってるんだろ。

 僕はそのような心が、ほしい。強いのに強さが通用しなくなってしまう心がほしい。理不尽に、暴力的に、他者に奪われてしまう、かわいそうな心が見たい。できるだけ間近で、できるだけつぶさに、いろんな角度から、見たい。もう誰にも振り回されることはないとたかをくくっているきみの心が僕のためにぐらついて崩れるところが見たい。みじめに潰れてぐずぐずに腐ってだめになるところが見たい。

 どれだけきみがすばらしい大人になったからって、どんなにたくさんの宝物を持っていたって、突然、はだかの心を持って行かれることは、あるんだよ。きみの鎧の隙間なんか見え見えだ。いまきみは、僕がきみを好きだと思って、ちょっといい気分になってる。悪くない男だからちょっと相手をしてやってるんだと思ってる。でもそれは長くは続かない。きみはしだいに僕のわがままを聞くようになる。今日みたいに。そのうちきみは僕の連絡がないと苛々するようになる。自分からは意地でも会いたいと言わないままおかしな怒りをためこむようになる。怒ったり泣いたりするようになる。僕のささやかな経験によると、自分のことを強くて自立していると思っている女は、怒りにかられてはじめて「恋する乙女」になっていたことに気づく。

 そうしてある日、彼女たちは怒りを爆発させる。僕はふだん、待ち合わせに遅れたりなんかしないし、失礼なことも言わない。ロマンティックなデートをしたり居心地のいい自宅でのひとときを提供したりもする。でも突然、それが止まる。なんだかあいまいな理由で。すると彼女たちは怒る。自分をなんだと思っているのかと問い詰める。この瞬間が最高に素敵なんだ。うっとりしてしまう。きれいだよと言ってあげたくなる。高価な化粧品を上品に使用し統制された表情を保っていた顔がだいなしになって、とてもきれいなんだ。

 おあいにくさま。僕が連絡しなくなってもぜんぜん反応がないのでご機嫌伺いをすると、彼女はそう言った。あなた、からだ目当てならぬ、心めあての人でしょう。あのねえ、実は、わたしも、そうなのよねえ。あなたの手口って、わたしとそっくり。僕は棒を飲んだような気分になり、それから、精一杯の見栄のために、嘘をついた。何を言っているのかな、僕はからだ目当ての遊び人ですよ。

 彼女はうふふと笑う。そうして、嘘でしょう、嘘ってばれてることも、半ばわかっているのでしょう、と指摘する。ねえ、わたしたちがどうしてそんなに他人の心がほしいのかって言ったら、わたしたちが他人に心を奪われたことがないからなのよ。そうじゃない?

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