読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たちの悪い鏡

 打ちあわせから戻ったら七尾が彼のデスクの前に立っていたので彼の腹の底に小さな吐き気の種が生まれた。それから七尾の指がデスクの天板に触れているのを見て取った。種が浮上する。七尾はさりげなく背後の自分のデスクに戻る。何か、と不自然なほど遠くから彼は声をかける。七尾は後ろを向いたままかすかに首を振る。
 七尾は彼の同僚で、同じ仕事をしている。職位も同じだ。今のところは、と彼は思う。彼はその部署でひとりだけ飛びぬけた成果を出している。顧客たちは彼を指名し、彼の仕事に他の五割増しの対価を提示する。彼が取ってくる、あるいは彼にやってくる仕事のすべてを彼が引き受けることはできない。彼の上司がそれを他のメンバに振り分ける。七尾もそのひとりだ。
 七尾がぬっと彼の視界に入ってくる。彼は眉をひそめる。二時、三時、と七尾は言う。彼は眉のあいだの皺を深くする。ミーティング、と七尾は言う。定例ミーティングの時間が変更になったことを彼は思い出す。それより一瞬だけ早く彼の中の吐き気の種が急激にふくらむ。覚えていませんと彼は静かに言う。そのうち会議通知が来ます。七尾は顔をそむけて別の誰かのところへ行く。
 七尾さんと彼は呼びかける。今の態度はまったく正しくないと彼は言う。同僚にものを訊くならまず声をかけて、それから、親しくないのだから少なくとも敬語で質問をする、相手の返答に軽く返答を返す、これが通常の流れです。今のは、同僚に対するふるまいじゃない。自動販売機に対する態度だ。おまえは何様だ。
 彼の声はしだいに高くなり最後は天井にこだまする。もちろんそれは空想上の声だ。彼はそんなことを言ってもなにひとつ得にならないことを知っている。七尾がそれを利用して怒鳴られたんだと触れて回ることを知っている。だからなにも言わない。
 それで今日は最初ご機嫌ななめだったんだねと私は言う。彼は苦笑してあれから何時間か経っていたのに面目ないとこたえる。些細なことなのにね、少し恥ずかしい。でも続きがあるんだ、できごとにじゃない、僕の内面の、続きが。僕がその程度のできごと単独での影響を何時間も引きずるなんて思ってほしくないから、続きを聞いてもらえるかな。彼はそのように尋ね、私はうなずく。
 僕の嫌いな二大フレーズがあってね、ひとつは「誰のおかげで飯食ってるんだ」、もうひとつは、「態度が悪い」。前者はまあどう考えても卑しい。でも後者だってかなりのものだ。だってやろうと思えばいくらでも、相手がどんなにびくびくして細心に機嫌をとったとしても、使えるせりふなんだから。要するに権力関係さえあれば有効で、しかも心たのしい用例がちょっと思いつかない代物なわけ。だから僕はこのふたつのせりふだけは使わない大人になろうと決めたんだ。十四歳のときに。
 でも僕は七尾にそう思っている。態度が悪いと思っている。誰の取ってきた仕事で食わせてもらってるんだと思っている。僕は十四歳の僕に申し訳ない、僕はそんな人間になるつもりじゃなかった、忘れていたならまだいい、でも僕はそれを忘れたことはなかった、忘れないでずっとがんばってきたつもりだった。でもそんなことにまるっきり意味はなかった。結局のところ僕はそう思っている、ほとんど毎週そう思っている。
 口に出さないんだから、それを口にする大人にはなっていないよ、と私は言う。彼はひっそりと笑い、それは少しだけ褒めてやってもいい、とつぶやく。それから言う。僕がそれらのせりふを憎んだのはそれが僕の父の得意のせりふだったからだ。そして今日僕は父についてひとつの発見をした。もちろん接触したんじゃない、会社のできごとを通じて。つまり父は僕を嫌いだったんだってこと。
 私は首をかしげる。彼は頭の悪い子どもにそれでもやさしく言い聞かせるよくできた父親みたいな顔をして話を続ける。だって僕は、ほかの人には、そう思わない。態度が悪いとも誰のおかげでとも思わない。七尾以外は適切な態度だからだろうって、あなたは言うかもしれない、でも僕がもしも今より少し傲慢になったら、もうちょっとまともな口調にもきっと苛立つ。そうならないのは僕が彼らを好きで、七尾が嫌いだからだ。同じことを好きな人がしてもきっと笑って今のなんだよ気分悪いなって言う。気分なんてそんなに悪くならないから、言える。相手が嫌いだから、自分のいやな面が出る。
 彼は苦笑を繰りかえす。まったく人を嫌いになるなんてろくなことじゃないね、悪い鏡を持つようなものじゃないか。よくコントロールされた苦笑だと私は思い、それを少しあわれなもののように感じる。

広告を非表示にする