傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

弱者になれない弱さ

 目の前の男はぜったいに困っているはずだ。あらためて、そう思う。どう見ても彼のできる仕事がないからだ。以前のことは知らない。合併前は別会社にいた人だし、仕事上のつきあいもなかった。推測するに、そもそもあんまり仕事ができるほうではなかったのだと思う。それでもどうにかなっていたのだろうと思う。企業に余力があるときはろくに仕事をしていない人間が結構なポジションにいることがある。彼はかつて結構なポジションにいて、合併でヒラになった。それでもなお、彼は待遇にふさわしい仕事をしていないのだった。

 業務内容の変更および業務量と待遇の切り下げに合意する、または退職する。それ以外に彼の選択肢はない。僕が決めたことではない。経営者たちが決めたことだ。僕の役割は新しく作られる部署の管理職のひとりとしてメンバーと面談をし、合意を得ながら細かな人員配置と作業フローを作っていく、みたいなことだ。

 それで面談をしているのだけれど、始まる前からうんざりしていた。口の悪い同僚は影で彼を「不良債権」と呼ぶ。そういう立ち位置になりたくてなる人はいないし、見ているほうもつらい。早く彼が役に立てる場所に行ってほしいと僕は思う。ミスマッチ自体はただの不幸で、相手を悪く思うようなことではない。僕は、雇用のミスマッチが起きている相手だから面談したくないのではない。若い部下たちが言うように「あの人は横柄だから、やたら威張っているから、嫌い」というわけでもない(嫌われやすいだろうとは思うが)。彼から発される憎悪のようなものを浴びるのがいやなのだ。

 憎悪に満ちた人間は皮膚の表面にそれをにじませている。僕はそういう人間をできるかぎり避けて生きてきた。彼らは「世の中まちがっている」と思っている。「自分はこんなところにいるべき人間ではない」と思っている。「自分はこのように扱われるべき人間ではない」と思っている。僕だってそう思うことはある。その場合は今いる場所の変革のために努力するとか、別の居場所を探すとか、不当な扱いをする相手を遠ざけるとか、する。でも憎悪に満ちた人間たちはそれをしない。とどまったまま、自分以外の何かを憎む。憎悪は減ることがない。増えるばかりだ。そういう人間と対面するすごく疲れる。

 この人にも家族がいるんだよなあ、と僕は思う。こんなにも激しい苛立ちをすべての仕草と声に載せている人間と同じ空間で息を吸って、同じテーブルで食事をとり、同じテレビの画面を見て、あまつさえ口をきいたりするんだよなあ。すげえな。俺には無理だ。心の中でつぶやき、彼を見る。おまえさあ、と彼が言う。だらしなく斜めに腰掛けていて、不快な臭いがする。声ももちろん不快だ。その声がつぶやく。ばかにしてんのか。

 している、と僕は思う。それは今日の議題ではありません、と僕は言う。内心の軽蔑を態度に出してしまったらふだんは反省する。でも今日はしない。俺より十年以上長く生きているはずなのに社会人としての口の利き方も知らない人間への気遣いなんか持ち合わせてねえよ、と思う。

 この人は五十年も生きてきて何をしていたのだろうと思う。何度か機会はあったらだろうにと思う。「今とても困っているから、相談に乗ってくれないか」と口にする機会が。あるいは誰かから「あなたの仕事には問題がある」と言われて「そうなんです、助けてください」と言う機会が。彼はそのすべてを無視し、自分を冷遇する周囲を憎み、自分より年齢やポジションが下に見える人間すべてに礼儀を欠いた口を利くという最悪の鎧をまとってここまで来てしまった。威張る人間はたいてい不安なのだ。自分の何が問題かさえ把握できていないから、誰かに持ち上げられていようとするのだ。感じのよさを身につけ、自分が困っていることを把握し、他人に適切にそれを開示することができない。そのように彼らは弱い。あまりに弱いので弱者としてふるまうことができない。

 人に助けを求める能力を身につけるのはけっこうしんどい。でも絶対に必要なものだ。誰でも持っているべきものだ。僕はそう思う。いい年して困りながら威張るなんて怠惰に過ぎると思う。幼児だってもう少しまともに自分の困り具合を把握している。僕の息子は困っているときにかんしゃくを起こす子だった。僕も妻もその癖にはかなり厳しく対処した。そうしなければ息子がまともに生きていかれないからだ。

 目の前の男を見る。幼稚だ、と思う。長く抱え込まれた未成熟はときに人間を化け物みたいにしてしまうんだ、と思う。同情の対象にさえならない、醜い何かに。