読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

どうか忘れていますように

 帰省は今日までだと彼女が言うので、見送りがてら少し飲むことにした。彼女の両親と兄はずっと東京に住んでいる。彼女は進学のために名古屋に出て、そのまま就職して結婚した。小規模な町のようでもある駅の敷地の中の小さい店で飲んだり食べたり話したりしている人たちはしばしば大きな鞄やキャリーケースをかたわらに置き、すぐにどこかに行って二度と帰ってこないみたいに見えた。
 お行儀悪くカウンタに頬杖をつき、去年の話をしようと彼女は言う。私は賛成する。だって今年の話なんかまだ二日分しかない。「今年の目標」とか、それくらいだ。彼女が水を向けるので私は意気込んで話した。あなたはと訊くと彼女も話した。去年はね、旦那のおばあさまが大往生して、会社の同期がひとり辞めて、引っ越して、交通事故に遭った。私はたいそう驚いて交通事故と鸚鵡返しに口にした。友だちの運転する車で高速道路を走っててスリップしてがしゃん、と彼女は言った。がしゃん、のところでてのひらをぱっとひらいてみせた。
 大丈夫なのというせりふがほとんど自動的に出てくる。ご覧のとおりと彼女は言って笑い、幽霊に見える、と訊く。私は神妙にカウンタの下を覗き、こないだ展覧会で見た幽霊のようではないねえ、でも私、幽霊を見たことないから、とこたえる。彼女はいっそう笑って、自覚がないだけで私は幽霊かもねと言う。いつと訊くと先週と言うので私はあきれかえり、直前じゃん、ちょう直前じゃんと言い募る。そうよお、だって帰省の途中だったんだものと彼女は笑う。
 その車には彼女と彼女の夫と友人ふたりが乗っていた。彼らはいずれも東京に行く用事があり、相乗りして深夜と早朝のあいだの東名高速を走っていた。車はあっけなくスリップした。危ないと助手席の友人が叫んだ。危ない危ないと運転席の友人も叫んだ。運転席の友人は前後のトラックとの距離を目測し車を中央分離帯にかすめさせてスピードを落とし、反対側の道路沿いのロープに車をこすりつけて停車した。運転席の扉はひらかなかった。彼らは出るよ出るよとお互いに叫びあいながら、生きているドアを選んで脱出した。巨大なトラックが彼らの肩口をかすめて走り去った。
 怪我はと訊くと、誰も怪我してなかったからのんきにここにいる、と彼女は言う。有給取って早めに帰省しようとしたのがだめになっただけ。あと向こう脛をいやというほど打ってえらい大きい青あざができた。車は前後とも見事に潰れて廃車。運転席と助手席にいた友だちがレッカーを待って、私と旦那はタクシーを呼んで高速道路を降りて歩いた。月が二つ見えるって訊いたら旦那は笑ってたよ。
 そういうときに笑わせる人もすごいし、笑う人もすごいねえ、と私は言う。たいしたことじゃないと彼女は言う。たいしたことだよと私は言う。だって。もう少しで死ぬところだったと私はどうしてか言えずにことばを止める。
 高速道路を走るというのはそういうことだよと彼女は言う。運転してた友だちは事故なんか起こしたことなかった、いつも安全運転だった、でも安全運転だから事故を起こさないということはないの。私はそういうリスクを引き受けて乗せてもらっていた。けれどもふだんはそのことを忘れている、意図的に忘れている、そうでなければこんな、地震が来たら死ぬような場所でお酒なんか飲めない。新幹線にだって乗れない。でも事故から今までときどき、それってばかみたいだって思う、あんなことが起きる可能性を平気で抱えて生きていることを。
 どうかそれを育てないでねと私は小さい声で言う。あなたの認識はとても適切だけれど、事故の様子を生々しく思い出さないでいてね。どうしてと彼女は訊く。私はロッククライミングの話をする。私の友だちが岩登りをするんだけど、落ちたら死ぬかもしれないことを思い出すと必ず落ちるというの。ロッククライミングって、腕を岩から適度に離して、伸縮させて移動するわけね、それがバランスをとっていられる秘訣なんだって言ってた、でも怖くなると人は本能的にしがみつく、岩にこう、ぎゅっと、そして落ちる。
 バランスを崩して、と彼女は言う。バランスを崩して、と私も言う。彼女はもう一度てのひらをひろげてそれを見つめ、覚えておく、とこたえる。そうして不意に中腰になって手を振る。その視線の先には彼女を迎えに来た彼女の夫がいる。私はその二本の脚の動くのをたしかめ、ひそかに安堵のため息をつく。よかった。みんな生きていてよかった。明日になったら、私たちが幽霊でないことの危うさを、どうか忘れていますように。