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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

僕は忙しくない

久しぶりに彼が参加するというので楽しみにしていた。その会合は仕事がらみで成立した集まりではあるけれど、参加者の年齢が近くて直接的な利害関係が薄いので、行って話すとなんとなく元気になる。
彼はずいぶんと多忙な職場にいて、子どもが生まれて一年くらいで、それだから、まだ来られないかと思っていた。彼は頭の回転が速く私の毛嫌いするたぐいの偏見を持たず言葉遣いが快く、時おり抑制された毒気を含み、話していてたのしい。
今日はカナツさんが来るって聞いたから来ましたと言うと彼は衒いなくほほえみ、どうもありがとうとこたえた。もてるねえと誰かが言い彼は苦笑してマキノさんは僕と話すのが好きなだけですよと説明する。色恋沙汰じゃなくってももてるって言う用法が広がればいいのになと私は思う。
ひとしきり互いの近況を話して、カナツさん忙しいですねえと私は言った。彼は視線を落としてから、持ち時間はあまり多くないですね、とこたえた。私は彼の真似をして視線を動かし、それから、忙しいって言わない主義ですかとたずねる。
彼はふたたび視線を動かし(たぶん内面を見ていることの、肉体的な比喩)、それから口をひらく。主義というほどのものではないけど、ああ、やっぱり主義だな。僕はその昔、忙しい忙しいと、そればかり言っていました、でもそれは他人をないがしろにするためのおこないだったんです、それに気づいたから、やめました。
若いころの彼は今よりさらに長時間働き、めざましい成果をあげていた。彼はそれを誇りに思っていたし、それこそが自分だと思っていた。つまり他に抜きん出ていること、常になにかと競争していること、そして、おおむねそれに勝つこと。いつもではない。でもたいていは勝つ。彼はそのように思っていた。
そのころ彼にはひとりのガールフレンドがいた(ほかに言いようがないんですと彼は説明した。僕は恋をしていなかったから、恋人ではないし、唯一でないから、彼女ともいえないし、でも、ただの友だちではない、性差が重要で、だから、ガールフレンド)。彼は忙しかったので、彼女からの連絡はおおむね無視した。彼女は聞き分けがよかったので、いずれそれをやめた。彼は彼の隙間の時間を利用して彼女を呼んだ。彼女はやってきた。いつもやってきた。彼はそれを当たり前だと思っていた。
当たり前でないようなことを彼女が匂わせると、彼は言った。僕は忙しい。もちろん彼は忙しかった。誰もがそう言った。彼はなにしろよく働いていたのだ。質においても、量においても。
彼がそう言うと彼女は黙った。彼女は聞き分けがよく、彼はそれに満足していた。そしてまた彼女に電話をかけた。彼女は出なかった。彼はそのまま彼女を忘れて仕事に戻り、二週間後に仕事の隙間ができて思い出した。
彼女は二度と彼の前にあらわれなかった。電話もなし、メールもなし、予兆もなし。そこには完全な絶望のにおいだけが残されていた。彼女は食事の席を立ちその足で海に飛びこんだ人のように、完全に彼の前から消えて失せた。
もちろんほんとに失踪したわけじゃないと思いますよと彼は言った。でも僕には彼女との数少ない共通の知人に問い合わせる勇気がなかった。メールアドレスは消えていた。電話をかけつづけることさえ、僕にはできなかった。僕は怖気づいていた、その沈黙の唐突さと完全さに。
絶望されたことに怖気づいたのですかと私はたずねる。たぶん、と彼はこたえる。そうしてまた、そのように誰かの好意を笠に着て蔑ろにし続けないと保つことができない脆く高い僕のプライドの、その卑しさに驚いたんです。たぶんね。
忙しいというのはつまり、おまえはそれに優先しないという宣言ですよ。彼はそう言う。優先することができない、ごめんね、と思うなら、丁寧に説明すべきです。どのような状況であるか、正解に描写すべきだ。忙しいのひとことで相手をねじふせるのは、侮蔑をぶつけることとイコールですよ。そうじゃありませんか。
だから忙しいと言わない、と私はたずねる。彼はうなずく。時間がとれないときにはね、ただ事実を告げればいいんです。仕事の量をコントロールすることができない、僕はそれをしなければならないと言う。寝る時間がなくって今日一区切りついて椅子の上でのけぞって意識を失うように眠ったんだよ、うちの会社ではそれを即身成仏というんだ。そう言えばいい。
私は少しだけ笑い、それから言う。カナツさんがそんなだから、私、カナツさんと話すの、好きです。

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