傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

弱者の服毒

 泣いてごめんね、と彼女は言った。不愉快にさせてごめんね。自分の声が遠いところから聞こえた。頭蓋の中で反射しているはずの声が遠くから聞こえている気がするのだ。涙は止まり、声は平板になり、視界から立体感がうしなわれて、からだに当たる衣類の布がごわごわと大げさに、有毒な異物であるかのように感じられ、それから、その感触が消えた。ごめんなさい、と彼女は言った。世界が遠ざかった。苦しくなかった。苦しくないのはいいことだと彼女は思った。
 自分が彼にひどいことをしたので謝っていたと彼女は思っていたけれども、どうにもからだが動かしにくくなって、産休をとって家に居るのに家事もできないので迷惑だろうと思って実家に戻ったら、とたんに彼が飛んできて謝るのでなんだか驚いた。彼はいつもの彼ではなかった。実家だからきまりごとも少なくて、だからかもしれなかった。彼らの家にはいつのまにかできていた(と彼女には感じられた)ルールがたくさんあり、たとえば洗面所は水を流す穴のまわりの薄い溝まで古い歯ブラシを使って細心に磨くもので、シーツは毎日取り替えてベッドメイクした上からアイロンを当てておくものだった。「その程度のこと」もしてもらえなかった日、彼は長く黙り、彼女が謝ると、痛みをこらえる聖者の顔で彼女の非を教えた。
 彼女の両親が彼女の生活を聞き出し、彼のしていることは暴力だと言ったとき、彼女はうまく理解できなかった。私のしていることがじゃなくて、と彼女は尋ねた。だって私は黙っている彼に文句を言い続けてしまう、彼の気持ちを察することができない、だから彼は傷ついているの。まともな話し合いもできずに都合の悪いことを言われたらだんまりを決めるなんて卑怯者のすることだと彼女の父親は言った。察するなんて無理よと彼女の母親が言った。別の人間なんだから。察して先回りして旦那の機嫌をとるのがいい奥さんだとか、そういう、よく聞く話にとらわれてるの、もしかして。
 彼は彼女の父に諭され心から反省したと言った。彼女はまだぼんやりしていたけれども、この人はまちがっていたのだと、そう思った。彼が二度目に訪ねてきたとき、だから彼女は冷ややかだった。彼は自分が子どもの父親であることを強調した。彼が三度目に訪ねてきたとき、彼女は怒っていた。自分は罠にかけられていたのだと思った。この男は、弱いふりをして巧妙に私を痛めつけて、怖いと自覚できないように怖がらせて、自分の思うようにさせていたんだ。そう思って怒っていた。彼は自嘲して言った。きみの実家では僕が何しても暴力になっちゃうんだね。きみがそう感じたんなら僕が悪いってことなんだね。僕は何しても申し訳ございませんって言うしかないんだよね。彼はやつれてとても悲しそうだった。彼女は目をらんらんと輝かせて怒っていた。どう見ても被害者は彼だった。
 謝らない、と彼女は言った。声が震えた。自分の声を聞いている自分は、もう遠くにはいなかった。自分が自分のからだの中にしっかりとおさまっている感覚があった。私は、悪くないから、謝らない。彼の顔色が変わった。彼女はそのような彼の顔をはじめて見た。ほとんど黒っぽいくらいに紅潮し、目をかっと開いて、薄く震えていた。彼女は悲鳴を上げかけてそれを飲みこんだ。大丈夫、ここにはほかにも人がいる。殺されない。殺されない?内心で自分の思考に驚いた。あの家で、私は、殺されるかもしれないとどこかで思っていたのだろうか。このような憤怒を涙の後ろに隠していた、彼に。僕が悪いんだものねと彼はつぶやいた。薄笑いを浮かべていた。僕がきみの害になるから、お義父さんの態度もお義母さんの態度も当然なんだよね、僕が何もかも悪いんだよね、死んだほうがいいんだよね。
 死んだほうがいいと思った。そのできごとから半年後の、私の目の前に座っている彼女はそう言った。あれは誰が見てもあきらかにおかしかったけど、要するに彼は、巧みな衣装を着ていただけでずっとそうだったんだ。彼は、自分が不満で、自分に対する他人の扱いも不満で、それを私が察して満たしてやらなきゃいけないんだって、そう思ってたんだ。私、死ねなんて言わなかった。それはあなたの問題で、私がどうにかすることじゃない、あなたが考えてあなたが決めてって、答えた。えらいと私は言った。そっちのほうがぜったい苦しむ。自分からにじみ出た毒を自分が飲まなくちゃいけないわけだから。彼女はにっこりと笑った。伊達に二年、夫婦やってたんじゃなくて、私、すごく彼のこと、理解してたってことだね、今はもう、関係ないけど。