傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

忘却のスイッチ

 私は忘れっぽい。荷物を手元から離すと高い確率で忘れて降りる。買い物帰りには電車の中でも袋の取っ手を手首に通して膝の上に置く。多くの大人が「今、かばん以外のものを持ち歩いている」という意識を保っていられることが信じられない。今日も受け取ったばかりの紙袋を手洗いに置き忘れて慌てて戻った。残っていてよかった。
 寝ぼけているのではない。病気でもない(たぶん)。酒や薬物を摂取しているのでもない。私にはその状態が当たり前なのだ。いつも身辺の荷物について気遣おうとすれば、口を閉じるたびに歯を食いしばりすぎて顎が疲れるし、首から腰まで傾けるたび派手な音で鳴る。健康によくない。そんなにがんばり続けたくない。できるだけ楽をして生きたい。だから私はいろんなものを忘れても生活が成り立つようなシステムを開発、構築し、運用を継続している。

 そのような私が忘れないことがある。暴言や暴力の対象になった場面だ。たちの悪いものなら被害から十年経っても覚えている。ふだんは忘れっぽいくせに何かあると根に持つタイプで、しかも陰険なのだ。読み返したことはないが、個人的な就業日誌(学生時代のアルバイト初日からつけている)もある。職場で何かされたときに証拠がないと困ると思ってつけはじめたのだと思う。つくづく陰険な性格である。

 さて、いま目の前にいる、直属の上司ではないが私より役職が高い人物からは、十年以上前から、断続的に妙な嫌がらせをされてきた。呆れるほどの差別発言を重ねているし、指揮系統を無視して仕事を振られたことも一度や二度ではない。席の真後ろに棚を設置して椅子がまともに引けない状態にされたこともある。私は忖度というものに縁がないから、いちいち抗議する。公の場で、でかい声で。
 そんなだから相手もここ数年はおとなしかった。今日は久しぶりに呼び出された。私は思うんだけれど、特段の事情もなく職場でふたりきりになりたがる人間にろくな者はいない。暴力(物理的なものにかぎらない)の発動条件は二者関係、密室、そして権力である。何かというとその三つを揃えたがるんだから要するに暴力が大好きなんだろうと私は思っている。こんなやつが部署を超えて人を呼び出す権力を持っているんだからこの会社もまだまだだなと私は思う。
 例によって彼は冒頭によくわからない世間話を挟み、私は腕時計を外して机の上に置いた。ははははは。妙に平坦な、不愉快な調子で彼は笑い、相変わらずですねえ、と言った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いので、私はこの男の言葉遣いだけが丁寧なところや、妙にジェントルな発声のしかたまで、それはもう嫌いである。用件を言えというような意味のせりふを婉曲に口にすると彼はまた笑い、変わらないですねえと繰り返す。直接返事をしたら負けだと思ってでもいるような話し方、これも大嫌いだ。窓を開けて換気したくなる。
 癌、ですねえ。彼はそう言う。そうですか、と私は答える。癌、ということなんです、どうやら確定でして。そうですか、と私は繰り返す。そちらのチームと連携している部下にある程度、仕事を引き継いでもらうつもりでして、マキノさんにも今後ご迷惑をおかけするかと思いますので、お耳に入れておこうという次第です。

 癌にかかる日本人は多い。年齢が上がれば罹患する確率も上がる。治る場合もあるし、そうではない場合もある。会社にいる人間が当事者になってもおかしくはない。そう思う。
 自分なりに熱心に、誠実に仕事をしてきたつもりですが、と彼は言う。しかし、軋轢がないわけではありません。ご存知のように。まったく、仕事というのは酷なものです。それで、マキノさんにもお詫びしたくなりました。意図しないところで不愉快な思いをさせたかと思います。

 彼はことばを止める。「意図しないところで」のわりにはずいぶんと露骨だったなあと私は思う。善行を積めば病気が快方に向かうとでも考えているのか、と思う。どう見ても趣味として嫌がらせをしていたのだから、それを貫けばいいじゃないかと思う。好きなことをやっていたほうが体にいいんじゃないかと思う。
 そんなこと、ありましたっけねえ。私は言う。私はものすごく忘れっぽいので、よく覚えてないです。帰って日記を見たら書いてあるかもしれませんが。

 彼は再び、私の嫌いな声ではははははと笑った。彼のしたことが急速に私の中で具体性をうしなっていく。明日になればもっと薄くなるだろう。来月になればもっと。私が忘れた膨大なものごとの中には、こうやって意図的に記憶の底に沈めたものもあるのかもしれないな、と思う。