傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幽霊を作る

 そうそう、こないだたまたま、ハルナと連絡取ったんだ、元気そうだった。旦那さんとすごく仲いいんだね。
 友人からのメッセージの最後の一文で私は一時停止する。すこし考える。それからその話題を思考の外に置いて三日間寝かせる。結論が出る。正解のない結論は出るのではなく出すのがいいと私は思っている。そうして話題の彼女に連絡する。スマートフォンアプリの通話機能は電話より生々しく声を伝える。便利だから使うけれども、ほんとうは相手を誤るくらいに解像度が低い声のほうがいいと思う。あまりにクリアだと、そこにいないのにそこにいるような気になってしまう。そういうのはどことなく、善ではない、と感じる。
 彼女はあははと笑って私のせりふをさえぎった。心配してくれてありがとう、でも、わたしは、旦那と死別して精神がやられちゃったとかじゃないから、だいじょうぶ。
 たしかに、当たりさわりのないちょっとした知人には、旦那が死んだことは言ってない。生きてるみたいな言いかたをする。それはねえ、わたしが実際、「旦那が生きているごっこ」をして暮らしているから、つい口から出るのよね。別にだまそうっていうんじゃない。頭も正常。ええ、わたしの夫は死にました。今年の春に死にました。保険会社とのやりとりとか香典返しとかめんどくさかった。あの人は、死んだし、とっくに焼いちゃって、どこにもいない。
 「旦那が生きているごっこ」について知りたい?そのまんまよ。ごはんをふたりぶん作ったり、枕はふたつのままにして枕カバーの洗濯をしたり、話をしたりする。もちろん一人で。見目のいいものじゃないけど、ひとりでやってるぶんにはかまわないでしょ。
 ごっこ遊び。お話づくり。小さい子がやるのとおなじ。ていうかマキノがやってることでもあるでしょ、ブログで作り話なんかしてる人に心配されたくないわよ。そっちのほうがよほど精神が心配だよ、お金ももらわずに何かを作らざるをえない人ってだいたい中身に巨大な穴があいてるものでしょ。思春期ならともかくいい年して作り話をいっぱいしないと保たない精神にくらべたら、「旦那が生きているごっこ」なんてかわいいものよ。
 なんでそんなことするかって?それもあんたの作り話とおなじ。そうするとなんだか気分がいいから。ふたり暮らしの習慣をキープして、話をして、ええ、もちろん相手はわたしの頭のなかの旦那で、だからもはや架空の存在なんだけど、でも、マキノ、わたし、生きてるときだって、百パーセントあの人を相手に会話してたかしら。八割方、なんならほとんど、自分のなかのあの人と、話してたんじゃないかしら。それなら今とたいして変わらないでしょ。物理的にあの人がいないことなんか知ってる、誰よりよく知ってる、現実をわかったうえでのごっこ遊び、死んだという現実を知っているからこそできる、罪のないかわいい遊び。
 ねえマキノ、死んだ人の夢って見ない?「旦那が生きてるごっこ」をしているとね、していないのと比べてないから正確にはわからないけど、夢を見る確率はたぶん格段に上がる。夢の中でもわたしは、彼が死んだことを知っていて、目の前の彼が、見えて触れられる相手であっても、私の空想の産物にすぎないことを知っているの。ほんとうにはいないことをちゃんと知ってるの。でも夢は便利ね、そのなかでは見えたり触れたりするもの。
 おもしろくなさそうね。マキノがそれを否定するなんて意外だな、わたしたちは、現実を把握しながら、頭の中の世界を遊ぶことができるし、それは否定されるような筋合いのものじゃないと、わたしは思うけどな。え?そのうち現実と混同する?
 あはは、マキノあんた自分の作り話を信じこんじゃうの?ないでしょ。自分が書いたもののどこが誰にかんする現実的事象で、どこが自分の解釈で、どこが完全なつくりごとか、はっきり弁別できるでしょう。わたしもおなじ。彼が死んだことを認識していなかったことなんか一度もない。
 幽霊?うん、そう言ってもいいかな。自家製の幽霊。楽しいよ、幽霊づくり。マキノならそれを否定しないと、わたしは思ってたんだけどな。否定してない?じゃあなに、その陰気な声は。保留。なるほど、保留ね。ふん、適当にして。しょせんは他人の、ささやかな遊びのことなんだから。それじゃあまたね。こうやって心配かけちゃうといけないから、行きずりじゃない他人に「ごっこ」の話をするのは、当分やめておくわ。