ごはん行きましょう。なるべく明るい声で私は言う。性根が陰鬱なのを隠して明朗にふるまおうとするとばかっぽくなるなあと思う。職場での私は常時そんなふうだ。他人にはなるべく当たり障りのない印象を持ってもらいたいと思う。みんなそう考えてほがらかな顔をしてほがらかな声を出しているのだと思う。前向きなふるまいは他人に対するサービスだと思う。少なくとも四割くらいはおうちに帰ったら思う存分さみしいことや苦しいことを考えていると思う。
昼食に誘った先輩もその四割に該当しそうな人格ではあるけれども、今はもっと露骨だった。職場にあって取り繕うことさえしない。ふだんはする。でもこの一ヶ月くらい、ぜんぜんしていない。あいまいな笑顔のようなものを浮かべてあまり人と目を合わせない。あいさつはしても、そのあとに二言三言雑談することがなくなった。パーティション越しに小さいため息が聞こえる。猫背がひどくなってなんだかちょっと老けた。仕事はむしろ好調のようで、昨日など上長から絶賛されていた。先輩はやっぱり、あいまいに笑っていた。
食欲があまりないという理由で先輩は近所の蕎麦屋に入り、私はしんねりとついていった。そういえばちょっと痩せたのではないか。私は水を向け、先輩は茫漠とこたえる。何、あったんですか。たいしたことじゃない。たいした暗さですよ、すごい暗い。起きたことはたいしたことじゃない、まったくたいしたことじゃないんだ、彼女ができただけ。やりとりを切るように私は先輩を見る。先輩はちっともうれしくなさそうに笑う。それから説明する。
五年ぶりに恋人ができたら体調が悪くなった。やたらと物憂く、けれどもそれは恋の憂いというのではなくって、ただただ陰にこもって筋力が落ちたみたいになっている。恋人に原因があるかといえばそんなことはない。恋人は若く愛らしく率直で、どうして自分を好きになったものかと思うくらいだ。もちろん自分だって恋人を好きだ。彼女の前では楽しく過ごしている。
好きじゃないのは彼女じゃなくて「恋愛」だ。これまでの人生に、それは何度か訪れた。けれどもそれらはいずれも終わり、年をとって縁遠くなった。このままひとりでそこそこ楽しく生きていくのだと思っていた。恋愛は疲れる。他人を心に入れて相手の心を見ようとするのは疲れる。ついうっかりしてしまうけれどもほんとうはしたくないようにも感じる。中年になってそれをしない免罪符をもらったのだと思った。でもそうじゃなかった。あっけなくどうしようもなく、好きになってしまった。はじめて女の子と手をつないで歩いた中学三年生のときみたいにみっともない気持ちで、それが、とても、憂鬱だった。ひとりは楽だった。楽しかった。もう身を焼くような感情には耐えられないと思った。だってもう体力がないし、気力もないし、忙しいし。
そんなようなことを先輩は話した。なんだかよくわかる気がした。先輩とは三つしか年が変わらない。せっかく落ち着いてぼんやりと幸福なのに取り乱したくなんかないという感覚はなんだかひどく、よくわかった。けれどもそう言いたくなかった。だいじょうぶですと私は言った。だいじょうぶ、私たちはもう中学三年生じゃありません。私たちは中年です。中年はすばらしい。中年は落ち着いている。中年は恋に煩わされない。夢中になんかならない。さらりと上手に関係性を維持します。うん、だから私たちも中年らしい話をしましょう。新しいプロジェクトに暗雲が立ちこめていることだとか健康診断の数値がよくなかったことだとか。そうだ私の腰痛の話をしましょう。私は五年前に椎間板ヘルニアをやりまして、どうもそれ以来、
ありがとうと先輩は言った。マキノは親切だね。私はうつむき力になれなくてごめんなさいと言った。いいんだと先輩はこたえた。私の脳裏でまぼろしの中年男女が手を振り、去っていった。どこかで健康の話と仕事の話をするのだろう。アイデアルな中年にふさわしい話を。私は力なくそれを見送った。私たちはアイデアルな中年ではなかった。私たちはもっと年をとって死ぬまで、他人や自分の感情に振りまわされておろおろ歩きまわるにちがいなかった。その事実は水揚げされたばかりの大味な鈍い魚みたいに私たちのあいだに横たわっていた。私はもっといい嘘をつきたかった。それで目の前の先輩をちょっとましな気分にしてあげたかった。でもできなかった。私はかなしかった。それから少しうれしかった。いい年して恋人に夢中になってみっともなく執着してほしいと思った。よかったですねと私は言った。ありがとうと先輩はこたえた。