傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ヒーローの正体

 遅くまで残業していると、ナミキさんがコーヒーを飲みにきた。お菓子を持っているので禁止令はどうしましたと訊くと、わかりゃしませんよとこたえて笑った。先だって来たとき、体重増加により彼女からオフィスグリコ禁止令が出ましたと言ってしょんぼりしていたのだ。
 こういうときはたいていそのまま休憩に入る。私は二人分のコーヒーを淹れ、ナミキさんは私にチョコレートを勧めて、世間話を物語にスライドさせる。

 彼は彼の兄からのメールを開かずに無視した。彼はひどく動揺していて、そして、少し、愉快だった。彼は生まれてはじめて兄の上に立っていた。
 彼の兄は子どものころから頭の回転が速く、何をやらせても上手だった。兄が訪ねると祖父母はおおいに盛りあがった。母が彼だけを連れていくときとの違いを幼い彼は敏感に察していた。祖父母は彼をちやほやしたけれども、兄といるほうがあきらかに愉快そうだった。兄は陽気で人を楽しくさせる。
 よその兄が弟をいじめるという話を聞くと彼はずいぶんと変な気がした。ケーキがひとつしかないときはそれをくれるのが兄というものだと思っていた。彼らが大きくなるとケーキも大きくなる。彼らの両親は都内の一角の準工業地帯に家を持ち、いくつかの工場を動かしていた。彼はその家に住みつづけ、兄は自分で部屋を借りて住んでいた。その家は大人四人が住むには手狭だった。
 家業が傾くと兄は勤めていたコンサルティングファームを辞して戻ってきた。つぶれかけが得意なんだと言って三年かけて家業を建て直し、それからリストラリストラと言って自分を従業員から外した。どこかの聞いたこともない会社に職を得たらしかった。
 彼は家業に関与しなかった。ひとりは安定した職業の人間がいないと、と兄は言った。工場が潰れたら親と俺が食わせてもらう。そう言って楽しそうに笑った。楽しいはずがなかった。彼女とうまくいってると訊くと、とっくにだめになった、もてなくて困るとこたえた。昔の同級生を紹介してやったらうれしそうにつきあいはいじめた。
別の同級生から彼女が兄でない「彼氏」と親しくしていると聞いて彼は兄にそれを告げた。彼女はもともと彼にときどき連絡をよこしており、彼はそれを適当にあしらっていて、そうして兄に紹介したのだった。
 彼は兄がひとに良くしてやるだけの余裕のないみじめな存在になることを期待していたのかもしれなかった。彼は兄が好きだった。でも彼はもう子どもではなかった。いつまでもピンチに駆けつけるヒーローに救われるわけにいかなかった。それなのに彼の家はやはり兄に救われた。それ以来彼の脳裏には兄の失敗のイメージがしばしば浮かんだ。そしてそれは実現された、と彼は思った。俺に気があった女を充てがわれて裏切られてそれを俺に知らされるなんて兄はみじめなやつだ。そう思って彼は愉快だった。彼はひとりで泣いた。

 弟のせりふの意味がわからなかったとナミキさんは言った。弟はイケメンです。俺に似てない。女の子にもてる。小さいころから弟が主役だと俺は思っていました。主役っていうのはああいう顔をしていてみんなにちやほやされるもんだと。ばあさんなんか俺が行くとお前は下駄に似てるとか言って、弟が行くといい菓子を出してましたからね。実際似てますけどね下駄に。それに大学生のとき俺は日本のでかい会社みんな落ちました。たぶん我が強すぎるから。でも弟はばっちりです。優秀なんです。弟はもうすぐ結婚するんです、家庭を持ったらもう完璧じゃないですか、俺みたいにいい年してふらふらしてるのとは違う。
 弟さんが大好きなんですねと私は言う。大好きですようとナミキさんは言う。その弟からそんな複雑怪奇な心境をコクられてどうしたらいいんですか。家族のために何か犠牲にしたことなんかないです、前の会社ではぱっとしなかったから辞めよかなーと思ってたところだったし、実家ではやりたいようにやってたし、今のポジションも気に入ってるし。彼女の浮気に関しては俺も悪いんです、詳細は省きますけど。そもそもただ紹介しただけの弟に彼女に関する責任はないです。
 責任がほしいんですよと私は言う。もらってばかりだとかなしくて責任がほしくなるものなんです。なんにもあげてないってナミキさんは言うでしょうけど、ナミキさんは弟さんのヒーローなんです、それはたぶん変わらない、だから格好つけててあげないと、だめですよ。私がそう言うとナミキさんは妙な顔をした。私は笑った。だってほんとうに下駄に似ているのだ。どうしましたとナミキさんが訊くので私は笑ったまま首を何度も横に振った。