傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

荒野の端のキャッチャー

 空いてないかなと友だちが訊く。空いてると私はこたえる。空いてるけど、勉強会かあ。小説の読書会とか、美術館ツアーとか、ホームパーティとか、トレッキングとか、そんなだったら、行くんだけど。サヤカには向上心というものがない、と友だちが言い、どうもこの人は向上心がありすぎていけない、と私は思う。
 友人の会社に川口さんという人がいる。川口さんは難しい問い合わせへの対処を担当している。社長を出せと要求していた人も、なぜだかずっと泣いていた人も、十数分ないし数十分ののちには、ある程度納得して電話を切る。その実績があんまり抜きん出ているので、社外の知りあいも呼んで川口さんをかこんで話をしようと、友人は考えた。私はそこに出かけることにした。暇だったのだ。
 川口さんは四十代とおぼしき、華やかな格好をした女性だった。話す前に誰かが配った資料を見てふむふむとうなずいていた。なんだか川口さんが勉強する側みたいだ。私がそう思っていると彼女は私を見て、にっこりと笑った。その口元にくっきりと皺が寄り、彼女は眉を上げ口を引きしめてほうれい線のあたりを指でくいくいと押した。私はいっぺんに川口さんを好きになった。
 勉強会のあと、何人かで晩ごはんに出かけた。川口さんは箸を上手に使って目鯛の身を剥がし、ビールをぐいぐい飲んだ。そうして別の企業でお客さま相談窓口を担当しているという女性の話にうんうんとうなずいた。人の話を聞きながら菊花入りのおひたしやら大きなフジツボの塩茹でやらを熱心に食べている。それでぜんぜん嫌な感じがしない。
 話の途切れたときにそのようなことを口にしてみると、彼女はうしなわれた夏の空みたいに笑い、そりゃああなた、マキノさん、私が人の話を聞くのが好きだからよ、と言った。笑顔でサービスされる良い話だけを聞くのは話が好きなんじゃないですよ、その関係性が好きなのでしょう。私はそうじゃない、私はマイナスの感情の載った話であろうとなんであろうと、耳に入れば集中して聞きます。スイッチが入ったみたいに。そして私は彼らになる、彼らをシミュレートする。それが私のしていることです。
 相手が苦痛や嫌悪を感じていたらわかるものです、私にはそれが起きない、だからみんな話したいだけ話す、そしてね、さっきのお勉強会で最初に分類した、お金やなにかを要求したい人、それ以外は、話せたらおおむねOKなんです。もちろん他の部署がしかるべき対処をしてくれてのことですよ、でもそれは本質ではありません。
 川口さんがせりふを切ると、苦痛がないんですかと、彼女に向かって話していた女性が訊く。ありません、と彼女は即答する。だってときどきひどいこと言われますでしょう。そう重ねて訊かれて彼女は再度いかにも陽気に笑い、そうして、そのひどいことばは私に向けられていません、とこたえる。
 それが私に向けられているはずがない。だって彼らは私を知りません。彼らがほんとうは誰に話しているのか、聞いていればいずれわかります。もちろんふつうは真の対象が誰であろうと強いせりふを投げつけられればつらい。罵倒されれば苦しい。でも私はそうじゃないんです。そういう才能があるんです。ささやかな才能ですけれど。
 私はその才能について想像する。川口さんは言う。苦痛を感じているのは彼らです。荒野に置き去りにされてなにかを訴えている。たとえその対象が見当違いであったとしても、彼らが感じているのは痛みです。痛いと人が言ったとき、おお痛いのですかと私たちは思う。どこが痛いですか、どう痛いですか、痛いのいやですねえ。こうならなければおかしい。それをことさらに言われたい人には言う。でなければ黙っている。それだけです。勉強会で話したテクニックみたいなものはほんとはたいした問題じゃないんです。
 延々と繰りかえされませんかと誰かが訊く。繰りかえされますよと川口さんは言う。でもたいていは三度までです。三度目には「ああ私同じこと言ってますね」ってなる人が多いです。その三度はおそらくそれぞれ必要なものなんです。一度ではだめなんです。
 私は口をひらく。ライ麦畑のキャッチャーっていう小説がありますよね。子どもたちが崖から落ちないようにつかまえる役になりたいっていう男の子の話。でも崖から落ちそうなのは子どもだけじゃないじゃないですか、子どもじゃないから放っておかれて落ちたりしてると思うんです。川口さんって大人が崖から落ちないようにつかまえる人みたい。私がそう言うと川口さんはちょっとうつむき、上がった口角のところに手をやった。愛らしい照れかた、と私は思う。