傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

明るい人の明るい理由

 あけましておめでとうございます。あ、アウトだ、これ。

 渡部さんがそう言い、私はあいまいに笑う。視界に入っている他の二人も、おそらく同じような表情をしている。私たちは社内読書部(会社非公式。活動内容・ときどき都合のついた者が集まってランチ会または飲み会を開き、本の話をする。要らなくなった本をやりとりする)の仲間だ。仕事の話より本の話をする、およそ会社の利益には貢献しない集団だけれども、本の話しかしないというルールはとくにないので、なんとなし個人的な話を聞いたりもする。もちろん、個人的な話をいっさいしない人もいる。

 仕事に関係のない本、とくに小説だとか、実用性を持たないとされている本を、大人になってもやたらと読んでいる人間は、おおむね性格がめんどくさい。率直な人、社交的な人、陽気な人もいるけれども、内面を開くと、なにがしか薄暗いものを抱えている。いいもん、と以前の会で誰かが言っていた。どうせわたしは暗い。にこにこして今ふうの格好して人生を謳歌しているそぶりをしていたって、ぱかっと開けばへんなどろどろしたものが入ってる。でもいい。暗い人間だから暗い小説を読んでたのしいんだよ、こんな楽しいことが楽しくなくなるなら明るくなんかならなくてぜんぜんかまわない。

 ところが、渡部さんは平気で、えっ、俺、鬱屈とか、ない、と言うのだった。たしかに渡部さんはたいてい機嫌がよく、たとえば多忙でも、いやあ参っちゃうねえ、などと言ってところどころでのらくらと気を抜き、多忙さに飲み込まれることがない。私は部署が違うのでよくは知らないのだけれども、彼の部下によれば「情緒がただごとでなく安定しており、それだけでも上司として貴重な人」だということだった。その気持ちはわかる。

 お若い頃からそうなんですか、と誰かが訊いた。いくらなんでも青春の蹉跌のひとつやふたつ、あったでしょう。ない、と渡部さんは断定した。俺も小説に出てくるような複雑怪奇な精神状態を味わってみたいと思う。でも、ない。寝て起きたらどうでもよくなるし、寝られなかったことはない。そのせりふを聞いてその場の全員が感嘆した。小学校から大学までサッカー部で、いじめられたこともひきこもったこともなく、適度にもて、友だちがたくさんいるような人間が大量に小説を読み続けているというのは、まったく意外なことだった。しかも、胸躍る冒険物語より、薄暗い、あるいは意味がつかみにくい作品を好むのだ。サッカー部で何の話してたんですかと誰かが訊くと、サッカーの話、と渡部さんはこたえた。そりゃあ、サッカー部で小説の話をするやつはいない。やはり、と誰かがつぶやいた。

 渡部さんは喪中だ。だから、あけましておめでとうございますという文言は本人の言うとおり「アウト」だ。形式上の喪中といってもいろいろあるけれども、渡部さんの場合はつい数ヶ月前に、仲の良かった弟さんが不慮の事故で亡くなったと聞いている。弟さんのエピソードはいくつか聞いたことがあって、もちろん会ったことはないけれども、痛ましいことだと、読書部のみんながおそらくは思っている。

 あけましておめでとうございますって、小正月までだよねえ。一昨日までだ。渡部さんがそう言い、全員がぐっとことばに詰まる。渡部さんはもりもりとごはんを食べ、それから、なに、と訊く。

 みんながためらい、それから誰かが、みんなが思っていることを口にしたほうがいいという結論に至って、そっと言う。いえ、渡部さん喪中じゃないですか、だから、年始のあいさつは誰も、しなかったんですけど。

 あ、と渡部さんはつぶやいた。忘れてた。

 渡部さんは薄情なのではない。どちらかというと人情がありあまっているように見える。家族が大好きで大切にしている。でも、弟さんのことは、忘れたのだ。死んだから。

 近しい人に死なれると、何かを持って行かれる、と私は思う。私たちは関係と感情の動物であり、親しい他者との境界線はよく見るとぼやけている。それを引きはがすと、自分の一部が「もっていかれる」。だから私たちは人に死なれると喪に服し、喪が明けてもぐずぐずと泣く。そう思っていた。

 私は渡部さんを見る。渡部さんはみんなに気を遣わせたことについてさわやかに礼を言い、その話題をすぱんと断ち切った。この人は「もっていかれない」。私はそう思って、すこし寒くなった。生きている人を愛する。死んだら愛さない。忘れる。正しいことだと思う。あまりに正しいものは恐怖の対象になる。誰もこの人の一部になることはできないのだ。誰も。