傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ごはんつぶ離別

いいねえ、なんかこう、立派っぽい理由があって別れててさあ。彼女がそう言うので私は驚いた。語っていた友だちもびっくりして、ひとつも立派じゃないよと言った。
いや立派だね、私が同棲三ヶ月で別れたときに比べたらはるかに立派だねと彼女は言う。立派じゃないって、どんな理由で別れたの、あなたたちは。私がそう訊くと彼女はなぜかいばって、ごはんつぶ、とこたえた。
一緒に住んでたら、食事もよく一緒にするでしょ。そしたら彼はごはんを残すわけ。残すっていうかお茶碗に何粒もはりついてる状態でごちそうさまなわけ。いやじゃない、それって。
私は少し思案してこたえる。私は米粒は残さない習慣がついてるけど、人によって作法は違うし、そんな気にするほどのことじゃないと思うよ。彼女はそうでしょうそうでしょう私も最初はそう思ったの、と勢い込んで言う。
でもだめ。なんかもう、がまんしてるとこっちがごはん入っていかなくなる。またあのお茶碗見るのかあ、って思うと。ほかのことはいいんだ、彼は私の台所の掃除のしかたが雑だって言うから直したし、あ、彼すごい掃除が丁寧なんだよね、でも帰ってくると靴下とかそこらへんに脱ぎ捨てちゃうの。でもそれは彼、直してくれた。あと、彼はうるさい音楽が嫌いだから私は家でそういうのをかけないようにしてたし、彼は私の花粉症に気遣って春は玄関先で上着をばさばさ払ってから家に入ってきてくれた。
お互いさまでうまくやれると思ってた。少なくとも私は音楽や掃除についてのちょっとしたがまんは平気だった。むしろそういう調整を楽しんでた。だって他人同士なんだからお互いを変えて寄り添うのが本当でしょう。だから変わることはむしろうれしかった。
なんだかすごいねと、聞いていた友だちが言う。私は自分が何かを変えることを「変えてあげる」としか思えなかった。わがままを聞いてあげているんだと。だから彼は私に感謝すべきだと。私は彼に何の変化も求めていないのに彼は私に求めてばかりで傲慢だと。
いや、変化を求めないっていうのはいいことだと思うよ、と彼女はこたえる。あるがままの相手を受け容れてるって感じするし。でも相手に何の変化も求めないなんてことあるかな。あるのか。
彼女はそこで、いやいや、この話はあとでね、今はごはんつぶの話ね、と軌道を修正する。彼女はそういうとき、両手でなにかをつかむしぐさをしてそれをぐいと動かす。とにかく、ごはんつぶに関してだけはがまんするのがどんどんつらくなっちゃったんだ、私。
彼女は彼に対してなにがしかの致命的な不満や疑惑を持っており、それが食事の作法という一点から吹き出したのではないか。私はそう思って訊いてみる。すると彼女はあなた好きだねえそういうの、と言って笑った。私にはわかんないよ。だってそういうのって意識してないけど実は、みたいな感じなんでしょう。意識してないことなんだから自分でわかるわけない。私にわかるのはただお茶碗に残るごはんがいやだったこと、それがどんどんエスカレートして押さえつけるのが困難になったこと、それだけ。
私は自分の顔が次第にこわばっていくのを感じた。これはもしや、当初の予想よりよほど深刻な話なのではないか。もしも強度が同じなら、性格的な欠点や望ましくない行為に対する感情よりも、茶碗に米粒を残すという所作に対する感情のほうがよほど扱いにくいのではないか。何より自分が理解しにくい。そんな些末なことに対してこんなに強い悪い感情があってはならないと思う。思うから抑えつける。そしてそれは押さえつけた蓋の下で成長する。
彼女はため息を落としてから続ける。それである日とうとう言ったの、それ私いやだって。そしたら彼はさ、靴下のときは何のわだかまりもなく直してくれたのに、みるみる怖い目になって、食事もリラックスしてできないのか、って言った。
私はそれをどこかで予想してたから、ぐるぐる考えてわけわかんなくなるまで言えなかったんだ。でもその真剣さが余計にその場をだめにした。彼はそれを口にされることががまんならなかったし、私はそのことをわかっていたのにどうしてもがまんできなかった。いやでいやでしかたなかったの。
それで、と私は訊いた。しばらく麺とパンにした、と彼女はこたえ、私たちは短く笑って、そしていっそう暗い気持ちになった。結局のところ、彼らはだめになったのだ。ごはんつぶのせいで。
彼女は話を結ぶ。しまいには彼のこと考えてる時間よりごはんつぶのこと考えてる時間のほうが長くなっちゃって、もうだめだとしか思えなかった。なにしろ彼と一緒に住んでた部屋を引き払ったとき真っ先に、ああ、これでごはんつぶのこと考えなくて済む、って思ったんだもの。あんまりほっとしてしまって、そのことをしばらく自分でもうまく消化できなかった。