傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

アイスクリームの赦し

恨まないのと訊くと何をと彼女は聞きかえす。あなたたちのおうちを、と私は言う。あなたとあなたの弟さんがそんなふうに仲違いしたのはご両親のせいじゃないの、どう考えても悪いのは彼らでしょう。
彼女は仏像みたいにほほえむ。私は黙る。彼女はときどきそういう顔をする。きれいで遠くて、手を伸ばすことがあらかじめ許されていない顔。それと私のあいだにはじゅうぶんな距離と、私が立てる範囲を示すロープがある。私は無力な鑑賞者としてそれを見つめる。うつくし仏の手を取ろうとしてそれを傷つけてしまった男のような蛮勇を、私は所持していない。
あなたって広隆寺弥勒菩薩みたいだと私は言う。何のことと彼女は笑う。笑いかたが遠い感じする、触れてはいけないものの感じ、昔ね、きれいな仏さまだから、触って、その薬指を折ってしまった男がいたんだって。それに似てる。黒くてつるっとしててきれいなんだよ。ありがとうと彼女は言う。サヤカのそういう行方不明になりそうな喩えって好きよ。
ありがとうと私も言う。彼女はゆっくりと口をひらく。私はだれも恨まない。しかたないって思う。彼らは状況にそのようにさせられたんだもの。彼らはそのように機能するものとして生まれてしまったのだもの。ほかの人にもそう思う。仕事なんかでも、理不尽なことがあるでしょう、いやな気持ちになることをする人がいるでしょう。でも私は彼らを恨むことができない。しかたないって思う。
彼女の沈黙を聞き、なおためらってから私も口をひらく。つまりあなたは彼らが状況に勝利することを想定していない。彼らの善きたましいが彼らの状況を変える行動をとることをはじめから期待していない。あなたへのあたたかい感情がそれを乗り越えることを想定していない。あなたはきれいな仏さまみたいにみんなを赦して、だからとても冷たい。そうかもしれないねと彼女は言って、またひっそりとほほえむ。
私はどうしてみんながそんなに人に期待できるのかわからない、と彼女は言う。どうして人が自分のいいようにしてくれると思えるのかしら。世界がそのようにできているはずがないのに。ねえ私ね、そういうの子どものとき宇宙の本を読んでいて思ったの、人の数と地球の質量と宇宙の広さについて書いてあった。私は自分がその何分の一かを計算してみた。座っている椅子ごと生まれた町の小さな図書館から遠ざかり、世界の人々から遠ざかり、地球から遠ざかり、銀河系から遠ざかった。そしてとても、ほっとした。
どうしてと私は訊く。それは怖いことだよ、世界と自分を並べてしまうことは。その夜は怖い夢をみて飛び起きておかあさんのところに行くべきだよ。
私はよく眠れたと彼女はこたえた。とても安心して、久しぶりによく眠れた。今でもときどきそのことを思い出すの。そしてとてもいい気持ちになるの。私は絶望した。そんな顔をしないでと彼女は言って私の肩に触れた。だって、と私は言いつのる。小さい子でしょう、小さい子はそんなことに安心しちゃだめだよ。みんなに莫大な期待を持ってなにかを要求して泣きわめかないとだめだ。
ありがとうと彼女は繰りかえす。でも私はすでにそうではなかったのよ。それは不幸なことかもしれないけど、でもそのようにしか私はなれなかったの。NICUはねと私は話しつづける。早く生まれすぎたり病気だったりして弱い赤ちゃんのいる治療室のことね、そこはね静かなんだって、どの赤ちゃんも泣かない、泣く力がないから。そんなのってない。みんな泣かなきゃだめだ。
私はもう大きいのよと彼女は私をなだめる。ちゃんと育ったのよ。そして誰も恨まないのはとても楽なことで、私はそこに安住していて、みんなそれを重宝してくれる、それは幸せなことなの。
私はどうしてもそれを肯定することができなかった。そんな冷たい甘いやわらかいものをみんなに与えてそれでOKだなんて、認められるはずがなかった。でもみんなアイスクリームが好きだ。冷たくて甘くてやわらかいから。私だって好きだ。ハーゲンダッツのいちご味が好きだ。私はくやしくって頭のなかをひっかきまわして反論を探した。でもそれはどこにもなかった。
ねえサヤカ、口がへの字よ、と彼女は言って、それから笑った。そのかたちは仏像のようでなかった。だから私も笑って、私かっこわるいね、と言った。