傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

寄付への欲望

 個人が個人にカネをやるのは精神的に負担が大きい。もらうほうにとってもあげるほうにとっても、なかなか危険なおこないだと思う。そう、あげるほうにとっても、実は負荷のあることだよ。自己評価が下がることもある。え?うん、まあね、あるよ。生きてれば人にカネをやりたくなることくらい、あるじゃん。たいしたカネじゃないけどさ。
 でも寄付ならだいじょうぶ。寄付って、人にカネをやりたい衝動をきれいに濾過する装置として整えられてるんじゃないかと思う。相手をどうこうしようという気がなくても、大人になって今日明日のごはんの心配がなくなると、世界にカネを還元したくなるんだよ。そんな桁外れに稼いでいなくても。
 考えてみればおかしなことだよね。わたし、博愛精神を持つ立派な人間じゃないのに。あなたは知ってるよね、わたしがわりとろくでもない人間だってこと。昔から、やさしい人間なんかじゃなかった。今だって、ふだんは自分と自分の家族のことしか考えてない。お金はあればあるだけいいと思ってる。無駄遣いも大好き。
 それなのに、稼ぎがぜんぶ自分のものだと思うと落ち着かない。そういうのって、へんなことじゃないと思う。寄付したい気持ちがあるのはぜんぜんおかしなことじゃないよ。わたしも夫もやってる。うん、まわりにけっこういるでしょ。わたしのまわりにも多い。日本に寄付文化がないなんて嘘だよねえ。額がすくないからかな。
 マキノの今までの寄付はだいたい単発でしょ。継続するとだいぶ気分、ちがうよ。使われ方も自分の趣味に合ったところ探せるし。わたし?わたしは海外の子どものためのやつ。夫は交通遺児のための。そういえばなんでふたりとも子ども相手なんだろう。うちの子、元気だし、子ども大好き夫婦ってわけでもないんだけど。うん、よその子にたいした思い入れはない。すくなくともわたしは。
 わたしは思うんだけど、生きてるって、なかなかすごいことだよ。わたしたち、放っておいたら、死ぬんだから。毎日まいにちごはん食べて眠って誰にも殺されずに生きてるって、びっくりするようなことだよ。しかも、自分が選んだ仕事をしたり、誰かと一緒にいたり、いろんなとこ行ったり、あれこれ楽しんで、なんなら子ども産んで育てたり、してる。もう、あきれる。自分の運の良さに。世界がわたしを甘やかしていることに。毎日びっくりしてたら疲れるから、当たり前ですよねって顔してるけど。
 だから、自分が稼いだお金でも、どこかに返したくなるんじゃないかな。わたしが生きて稼いでるのって、どう考えても「たまたま」だもん。たまたま運が良くて、死んでないだけだもん。それを当たり前だと思うなんて、どう考えても不合理でしょう。その落ち着かなさみたいなものに、寄付はよく効くよ。
 あ、いるよね、寄付やボランティアの話題になるとすぐ偽善者ーっていうやつ。たいそういろんな角度から否定してくるよね。個人のささやかな寄付なんか役に立たないとか、寄付先の団体がどう使っているかわからないとか、その団体は悪徳だとか、働いて税金払ってるのがいちばんいいことだとか。そういう連中は放っておけばいい。わたしはわたしの趣味で寄付してるだけで、他人に強制なんかしてない。それなのに、なにかのひょうしに話題になっただけで、たいして仲も良くない人間が執拗に否定してくるの、意味がわからない。わたしの偽善や不見識が許せないほど潔癖な精神を持っているのなら、わたしみたいな不潔な人間にかかわらなければいいのに。
 なるほど、他人にカネをやるほど余裕があるのはなにかずるいことをしてるからだっていう感覚があるんじゃないか、と。そうかもしれない。でも、わたしは意地悪だから、もっとひどいこと考えてる。あのね、わたしの寄付や消費に文句言うやつって、わたしが女で結婚してるから、言うの。余裕があって結構ですね、旦那さまの理解があるんですね、とか言ってくるんだから。わたしの寄付とわたしの夫になんの関係があるんだ。そいつの住んでる世界では妻になったら家計外の自分のお金もいちいち夫の許可を得てから使うのか。ろくな世界じゃないな。
 自分より格下だと思いこんでる相手がそうでないようなことしてると気に入らない、それだけなんだと思う。そんな人間、放っておけばいい。わたしたちはわたしたちの欲求に応じて寄付をすればいい。そうしていい気持ちになればいい。ぜんぜん悪いことじゃないから、安心してすればいいんだよ。

人にカネをやるとはどのようなことか

 彼はたいそう軽蔑したまなざしで私を見下ろし、キモ、とつぶやき、それから、やるの、と訊いた。エサ、やるの。私は先ほどから地面にかがみこみ、でれでれと猫をなで、気味の悪いことばづかいで話しかけている。そのようすがキモいことはまったく否定しない。
 猫は三頭いる。二頭は気が向かないと私のところには来てくれない。一頭は顔見知りであればたいていの人に愛想がよい。猫たちは町工場のガレージで飼われていて、車の通らない細い道と、その道をはさんだ向かいの神社までが行動半径だ。工場のあるじと顔見知りであれば猫をかまってもよい。私をふくむ近所の人間はなんとなくそう思っている。
 エサはやらない、と私はこたえる。飼い主が与えているし、だいいち、動物にエサをやるというのはよほどのことだよ。私はそう思う。人にお金をあげるのと同じだ。ちょっとかまってほしいからって、ほいほいあげるものじゃない。ほいほいあげる人もいるとは思うけど、私はそうじゃない。
 彼はちょっとうなずく。それからつぶやく。マキノにしてはいいことを言う。ないと生きていけないんじゃないかと思うようなものをそのまんまやるのはたしかに、よほどのことだ。たとえエサが余っていても、ばらまくのはどうかと思う。でも、考えてみればなんで「どうかと思う」なんだろう。根拠はないよなあ。相手をスポイルするから?スポイルのなにがいけないんだろう。いつも相手の精神的成長を願うほど高尚な精神なんか持ってないのに。
 愛想のいい猫は愛想をよくしてもエサが出てくるわけじゃないことを知っている。だから私は躊躇なしにこの猫をかまうことができる。かまいたい者とかまわれたい者があるだけの単純な間柄が、私は好きだ。何かを媒介せずに欲望同士がじかに手をつないでいるような関係が。かまわれたくない猫が私を無視し、かまわれたい猫だけが私に寄ってくるような関係が。
 かまったりかまわれたりするのは、できるだけ仕事でないほうがよい。私はそう感じる。もちろん人間は、それをお金でやりとりする。しばしばする。そういう職業もあるし、それ以外の能力をやりとりしているはずの仕事のなかで、実は相手をかまうことに対して報酬が支払われている場合もある。私的関係においては言うまでもない。驚くほどあからさまに、人はお金を払って、人にかまってもらう。お金のために人をかまう。
 その善し悪しを判断する根拠を、私は持たない。私がそれを避けたいのは個人的な好悪の情で、それ以上でも以下でもない。人をかまってお金をもらう仕事は少しも悪いものではない。自分がその客になることを好まないだけだ。あるいは、単に私にとって快いかまいかたをしてくれる職業人がすくないというだけのことかもしれない。
 でもエサをやりたくなることはあるだろう、と彼が言う。僕はあるね。継続性も責任もなしに、ただその場で自分をかまってほしいばかりにエサをやるのって、好きじゃないけど、魅力的じゃないか。確実に気持ちいい。気持ちよくてリスクがない。やっちゃいけないという法もない。やってくれと要求されることだってある。相手を助けるように見えることだってある。そういうのに乗っかるのは、すごく気持ちがいいことじゃないか。
 猫はごりごりと私の脚に頭をこすりつけ、私の膝に乗った。私はますますでれでれして、それから、そりゃそうだよ、とこたえた。エサをあげてかまってもらうのはかんたんでいい気持ちだよ。それがあんまり魅力的だから、警戒してるんだよ。はじめから興味がなかったら忌避感なんか持たない。私だって、エサ、やっちゃう。めったなことじゃやらない。でもほんのときどき、やっちゃう。このゲス野郎がって、自分を罵りながらやる。どこがどうゲスなんだかわかんないけど、私は、エサやってかまってもらってる自分を、ゲス野郎だと思う。でもねえ、あれって、やってるときはよくても、あとからなんだか、いやな気持ちがしてねえ。その場でいい気持ちがすればするほど、あとから苦々しくなってしまう。相手のことをまじめに好きなら、エサをやるのはみじめなことだよ。好意には下心じゃなくて好意がほしいものだから。でも、相手をその場かぎりの消耗品みたいに感じていたとしても、エサで釣ったらいやな気持ちが残る。どうやら私は、エサでかまってもらうことが、どうあっても嫌いみたいでねえ。それがどうしてかは、まだよくわからないの。

飛び込み営業スクリーニング

 最初は、電話とか要らないと思ってた。固定電話。要らないじゃん。僕は要らない。でもうちの会社には要る。ファックスもある。この業界でもいまだにファックス使う人が残ってる。だから固定電話なんかもちろん、ぜんぜん現役だった。自分を標準だと思っちゃいけないね。
 うん、もう慣れた。うちの営業はけっこうな確率で社外にいるし、すごく小さい会社で、僕あての電話もけっこう多いし、事務が取る前に僕が取ることもある。でもねえ、最近セールスが増えて、うん、飛び込み営業の電話バージョン、どこかからうちの会社の電話番号を手に入れてかけてくる。数としてはまだそんなにひどくないから、初見の番号からの着信はそのまま取ってる。
 飛び込み営業だったら、電話とってすぐにわかる。「電話を切らせないための話しかたマニュアル」みたいなものがあるのかな。会社名を早口でさらっと言って、自分の名字だけを名乗る。さも当たり前のように。うちと取引があるところかな?って思わせる。僕はもう慣れたから「あ、この人、うちの会社のだれとも関係ない」って、なんとなくわかるけど。
 「荒木社長をお願いします」って、たいていは言う。「はい、わたくしです」って僕は言う。その瞬間に相手はたいてい、ばーっと話しだす。それをまず止める。「お名前とご所属をもういちどおっしゃってください。わたくしが直接名刺をお渡しした方でしょうか」って訊く。それにかぶせてくる人はだめ。営業じゃなくても、あらゆる場面でだめ。友だちにもなれない。かぶせるやつはだめ。かぶせていいのは「火事だー」みたいなのと、口答えを許さない権力関係にあってそれを行使するときだけ。そうじゃない状況でせりふをかぶせてくるやつはだめ。話すのがコミュニケーションじゃなくて陣取り合戦になってる人間だから。ことばの内容じゃなくて主導権がだいじな人間だから。しょうがないからこっちも、「わたくしの回答を聞いていただけないようですから、お電話を切ります」って言う。
 そしたら、僕が「切ります」を言い終わるまえにガチャ切りするやつがけっこういる。もうね、そういう競技か、っていうくらい早い。だから「かぶせるやつ」はだめなんだって僕は思う。思ったとおりにしゃべらせてくれないからガチャ切りなんて、僕のこと人と思ってないからすることだよ。対面で話していても、そういう人間はいる。そいつらは僕を自動販売機だと思ってる。百五十円入れてペットボトルが出ない、だから、蹴る。そういう感覚。しかも百五十円入れてない。電話するだけでペットボトル的なものが出ると思ってる。出ねえよ、そんなもん。同じ商売人として心の底から軽蔑する。商売は人間同士のすることだ。他人を自販機だと思ってるやつは最終的に損する。そういうやつが仕切ってる会社や店はつぶれる。短期的にうまくいってるように見えてもつぶれる。
 つぶれる前に何度も電話がかかってくると不愉快だから番号と社名を登録してある。「だめ営業(社名)」っていうタイトルで。僕はそれを「よほどの事情がなければかかわりあいにならない会社リスト」として使う。社名背負って赤の他人に自分の話を聞かせたんだ、そのふるまいが会社のふるまいとして判断されるのは当たり前だ。
 そこまでひどくなくても、名刺交換したか否かにのらりくらりと答えないやつもだめ。社内で名刺を回すこと自体をだめだっていうんじゃない。隠そうとするのがだめ。それが恥ずかしいことだって思ってなかったら、「弊社の誰それから荒木さんの名刺を預かりました」って言えばいい。そしたら僕は目の前の魔法の箱でその人の名刺を検索するから。うん、ぜんぶ入れてある。他人を経由してかかわりを持とうとするなら、経由した他人のことをちゃんと言う。これも商売以前の問題。
 僕の電話番号を知った経緯を隠そうとしてる場合は、やっぱりだめ。あのね、人に言えないようなことを日常的にやってると、自尊心が少しずつ、不可逆的にそこなわれていくんだよ。そして後ろめたさによって少しずつ疲弊して、能力がじわりじわりと割り引かれていくんだよ。それが初対面であからさまに見えて、一方的に話を聞かせようとする相手なら、かかわりあいにならないほうがいい。たとえ話を聞きたい分野が話題でも、そいつからは聞かなくていい。ほかの人を探したほうがいい。代わりを探してでもそいつを避けるだけの価値はある。
 飛び込み営業でつくった基準だけど、僕はほとんどすべての場面で同じようにスクリーニングしてる。そのほうが快適だから。

三十代の余生

 交通事故に遭った。乗っていた車が凍った高速道路でスリップした。前後左右に大型のトラックが走っていた。制御をうしなった自動車の動きを後部座席から見た。その数秒のあいだ、運転手は前後左右をみてより助かる確率が高い方向にハンドルを切っていたのに、その他の席の二名も(あとから聞いたら)助かる方法をそれぞれが必死に考えていたのに、わたしは、ああ、楽しかったな、と思った。楽しかったな。そのほかにはなにも考えなかった。
 もちろん、わたしたちは生き延びた。全員が無傷にみえた(のちに一人だけが軽傷を負っていて、残りび三人は放っておけば消えてしまう痣だけですんだとわかった)。わたしたちはひとまずの安全を確保し、たがいのからだに軽く触れて身の安全をたしかめた。わたしたちは生きていた。わたしももちろん、生きていた。それだから、みんなと手分けをして事故の処理をした。他の車を巻き込むことがなくてよかったと思った。それから数ヶ月、その話はしなかった。直後にそんなことを言ったらいかにもほんとうらしすぎて、夫が動揺するだろうから。
 そろそろいいかと思って話すと、その話は事故のすぐあとに聞いたと夫は言った。それなりにショックだったんじゃないかな、記憶がところどころ欠落してるってことは。欠落なんかしてるかなあとわたしは思った。わたしは事故の状況もその後のことも克明に覚えているのに、夫に話した場面だけを忘れてしまったのだろうか。
 ともかく、と夫は言った。ともかく、とわたしも言った。わたし、自分は生き汚くてしぶとい人間だと思っていたけれど、意外とあっさりしてたみたい。もっと貪欲だと思っていたのに、わりと、人生に満足してるみたい。あのね、わたし、だからもう、たぶん、だいぶ前から、余生なの。ことばを切ったわたしを夫はながめまわし、鼻で笑った。なあに言ってんの、子どもまでこしらえておいて。それを聞いて、今度はわたしが鼻で笑った。小学校に上がったらもうそんなに手かからないよ、だいいちわたしは、自分がいなくなってもあなたが立派に育ててくれると思って産んだんだよ、そうじゃなきゃ産まない、親であればぜったいに生きていたいと思えるなんてあなたの幻想だよ、そうじゃない人だっているんだよ。
 ふうん、と夫はつぶやき、めがねをはずして呼気をふきかけ、シャツの裾で拭いた。きみのそれは、頭で考えた結論じゃないからねえ、きみとしてはもっと生き汚いのが理想だったけど、高速で事故に遭って「死ぬんだな」と思った瞬間にはそうじゃなかったわけだ、それじゃあしょうがねえや、楽しい人生だったならよかった、ささやがら僕も役に立ったんだと思える。余生、とわたしは言った。きみの余生、と夫はこたえた。
 生き延びることが人生の目的だった。わたしはかつて過酷な環境にあって、生き延びるためならなんでもしようと思っていた。わたしは、運が良かったと思う。手に入れたくて手に入らないもの、強くそばにいたいのに遠ざかってしまったものは、結局のところなかったように思う。わたしは、来る日も来る日も屋根と壁のある安全な部屋で眠り、まともなものを食べ、誰にも殴られず、自分で選んだ仕事をして搾取されることもなく、気の合う人と暮らして、子まで産んだ。その子も夫もおおむね健康だ。世はすべてこともなし。
 それなら人生これからかというと、まったくそうではないのだった。わたしはたぶん、退屈していた。生き延びることが目的の人間が生き延びてしまったら、あとはなにもないのだ。老後の生きがいを探して歩く退職者はこういう心持ちなのかなと私は思った。退職までにはまだ二十数年、どうかすると三十年ちかくあるけれども、退屈はすでにわたしの全身をくまなく覆っていた。手をのばしてもただずぶずぶと退屈ばかりに触れるような厚い退屈を、わたしは感じていた。忙しくないのではない。することがないのではない。そんなのはいくらでもある。忙しい忙しいと言いながら安全であることが、退屈なのだ。若いころほどではないにせよときどき徹夜もあるような職にあり、家ではこまねずみのように台所に立ち子を抱きかかえ、ときどき夫の話を聞いて、それでもどうしようもなく、わたしは退屈なのだった。
 余生、と友だちが言った。余生、とわたしはこたえた。わたしの話をひとわたり聞いて友だちは、いいよ、とちいさい声で言った。余生でも、いいよ、死ぬかなと思ったときにじたばたしなくても、いいよ、でもなるべく、生きていてほしいよ。

向こう側からの会釈

 死者が私に向かってほほえむ。私は、それに慣れている。ときどきほほえみをかえす。彼らはとても遠いところにいるから、とても小さく見える。消そうと思えば私はそれを簡単に消すことができる。けれども、そうしない。
 なんの不思議もない。ネットワーク上に世を去った人のアカウントが残っているだけだ。多くの人が自分の姿をアイコンにする。ウェブ上のさまざまなサービスの上にみんなの姿が並んでいる。今の姿と大きくちがう人、ずっと同じアイコンの人、誰だか覚えていないような人。ずっと連絡していない人は、生きているか死んでいるかもほんとうはわからない。
 私のアカウントが接続している相手のなかで、はっきりと死んでいるのはふたりだーー今のところ。くっきりした笑顔がひとつ、ほとんど人物が特定できないぼやけた全身像がひとつ。知った人をなくしてはじめてそれを見たとき、首の下のほうに氷を当てられたような感触がした。不意打ちだからか、遺影よりも強く、不在の匂いがした。受け止めきれないものを見たり聞いたりすると、私は、心臓より先に首の下が反応する。冷たいような、あるいはごく細い針を複数さしこまれたような、ごく具体的な感触。場所もはっきりしている。背中側の首の下、上から五番目の頸椎。
 そのとき私は反射的にアイコンを非表示にしようとした。それから、やめた。どうして私は、親しくしていた人の、これまで幾度となく目にしてなんとも思わなかった小さな写真を、消したかったのだろう。そう思った。よくわからなかった。もう一度、アイコンに目をやった。彼は笑っていた。私も笑いかえした。そのようにして彼らは私の日常に組みこまれた。
 彼らは死んでいる。今のところ、ふたり。彼らが私にメッセージを送ってくることはもうない。当たり前だ。死んでいるのだから。通信はこの世の人のものだ。けれども、死んだ人は私にとって、はじめからいなかったのとはちがう。私は私の目を通さなければ世界を見ることがなく、私の耳を通さなければ世界を聞くことがない。そして私のなかには死者たちがいる。若くして私たちの前から毟り取られるように去った、死者たちが。だから、私の世界に死者がいるのはあたりまえのことだ。冥福を祈るとか、霊魂だどうだとか、そういう話ではまったくない。私はつまらない科学の子で、死んで焼いたら灰のほかに残るものがあるなんて思えない。けれども、私の世界は私から開けているのだから、私の内面に残された人の影は、私の見えかた、聞こえかた、感じかたに影響する。そういう話だ。コンピュータやスマートフォンにあらわれる死者の姿は、その感覚によく似合う。
 十代のころ、死者は遠いものだった。今はそうではない。年をとるごとに死者は、私にとって親しいものになった。私から隔絶した冷たく恐ろしい化け物ではなく、カーテンの向こうにいる当たり前の存在、気がついたらきっと私もそこにいるであろう身近な場所の住人として、死者は私のそばにいる。
 死が怖くなくなったのではない。今でも、死ぬのは怖い。一ヶ月に一回は真剣に死について考え、呻吟したあげく「わからない」という何百回目かの仮の結論を出し、怖い怖いと震えている。大人になれば平気になるわよ。むかしそう言われた気がするけれども、そんなの嘘だった。私はいまだって、死の気配を感じている。頸椎の上から五つ目の骨のあたりで。恐れおののくのが月に一度で済んでいるのは、仕事だの人間関係だのにかまけ、がつがつ食べて本を読んでぐうぐう眠り、眠れなければ薬を飲み、それでもって忙しい忙しいと言って目の前にある重要な問題を置き去りにする、のんきな大人になったからだ。適応したともいう。
 それでもときどき、死について考える。ほんとうは大人になっていないのかもしれない。遠い日の誰かの声が脳裏で再生される。ーー大人になったら、平気になるわよ。
 私は彼らのアイコンを見る。そもそもどうして死んじゃあいけなかったんだろうかと、そんなふうにも思う。怖いから死にたくないけれども、会えないのがつらいから死んでほしくなかったけれども、怖いのと私の都合のほかに、死ぬのがいけない理由は見つからなかった。だいいち、みんな死ぬ。私のいちばん年長の友だちは七十三で、いちど倒れた。しょうがねえや、と彼は笑った。そりゃあ死んだり死にそうになったりするさ、トシだからな。トシじゃなかったら、いけませんよね。私がそう訊くと、もう一度わらって、トシじゃなくても、しょうがないときはある、と言った。
 スマートフォンをみる。ちいさなアイコンをはさんだ向こう側に、彼らはいる。死ぬのはいけないことではない、と思う。私はこれからも彼らのアイコンを非表示にすることはないだろう。

あたりまえの朝の通勤

 電車の席に座っている。隣の男が頭を強く掻く。視界の端にこまかい何かが落ちてくる。私は身を縮める。できるだけ満員電車に乗らない人生を選んできたけれど、ときには他者の都合に合わせなければならない。目の前には人が詰まっている。立錐の余地をぎりぎり確保して、各自バランスをとっている。電車が揺れ、立った錐の群れがよろめく。私は身を縮める。
 隣の男は頭の全面を掻き終えたのか、右手で首筋を、左手で袖を捲った右腕を掻きはじめる。視界の端にそれが映る。奇妙に秩序だった動作だ。余すところなく全面を順繰りに掻いているかのようだ。もちろん私はその男が真に全面を掻いているか確認してはいない。確認したらたぶん吐き気に耐えることができない。けれども反対側の隣に顔を向けることもできない。そこにはこぼれ落ちそうな目を見開き(眼球が球であることがはっきりとわかる)、その眼の周囲を黒くかこみ、ひとつの塊のように厚い睫毛をばさりばさりと羽ばたかせ、身じろぎするたびに白粉かなにかの粉を落とし、古いトイレの消臭剤みたいなにおいを振りまく女がいるのだ。
 私は自分の感覚を遠ざける。五感が私からすこし離れる。つらいときに発動させる得意技だ。彼らは私にとって、それほどまでに不快だ。けれども、たとえ電車を降り彼らのいないところへ行っても、私は彼らを罵倒することはできない。だって、私も皮膚を掻くからだ。からだのどこからどこまでは電車のなかで掻いてはならない、何秒以上は掻いてはならない、などという決まりはないからだ。私の肌にもファンデーションはついているからだ。それが隣の女の皮膚から落ちてくる粉とどうちがうのか、どこからがだめなものになるのか、説明なんかできないからだ。
 女はしげしげと手鏡を見、おもむろに小さなスプレー缶を取り出して、その山盛りの、なぜだか白髪交じりの髪にブシュッと吹きつけた。つるつるした顔なのに白髪ははっきりとわかるほどに、ある。刺激臭が飛び、私は息を止めるタイミングが遅れたことを悟る。なんて鈍いのだろうと思う。息をする間合いを誤るなんて。私はあらゆる努力をしてくしゃみを最低限にとどめる。ぐ、と音がする。
 男の肘が私の脇腹をがさがさ這い回る。抗議をこめて目だけで見れば、男はおそるべき集中力で奇怪な姿勢を保ち、裾を捲り上げた脛を掻いている。私はぞっとする。抗議なんかできない。私はさらに身を縮める。俯いた視界に、両側から得体の知れない粉がちらちら落ちる。せいいっぱい竦めた足の隙間に、立っている人々の靴が押し入ってくる。靴はどれも武器のように硬い。それらは徐々に私の足を圧迫し、ときに鋭くぶつかる。しかし足を上げてはいけない。どんなに痛くても。いちど上げたら二度と降ろすことはできない。二度と?そういえば、駅にはまだ着かないのか。私は老いた蛹のように身を縮め、もはや腕時計を見ることもできない。私は次の駅についてのアナウンスを待つ。それは来ない。まだ、来ない。
 私は眼球だけを動かす。立っている人々はみな、憎悪の眼を座席に向けている。私は目を逸らす。自分と彼らの陣地争いの結果を見つめる。私は防戦一方で、それでも両足を床につけている。ごめんなさい、と言いたくなる。だって私は、電車に乗るのに彼らより多くのお金を支払っているのではない。彼らよりすぐれたところもたぶんない。だから彼らが不当だと感じるのは当然のことだ。ごめんなさい、と私は、また思う。でも言えない。言ったら最後、私は立たなければならない。立って錐のようにつま先を立てて自分の場所を確保しなければならない。
 そんなことは私にはできない。私は対面に立つ人々からどれほど憎まれ、足を踏まれ、両側からの悪臭に晒され、身動きとれずに不衛生な粉末をかけられようとも、ここにいるしかないのだ。私は、ここにいたいのだ。女が私に眼を向ける。その眦はくっきりと三角形に、赤い。赤い?白目や黒目ではなくて?
 それがむきだしの粘膜だと気づいて私は、何度目かの悲鳴を呑む。この人は目尻を、見てわかるほどに切り開いたのだ。私のしているささやかな化粧と、おそらくは同じ理由で。すなわち「そのほうが容姿がよく見えると思う」という理由で。瞳孔は大きくのっぺりと黒く、それでも上下に空白がある。女の目はそれほどまでに切り開かれ、見開かれている。ぞっとして反対側に目がいく。男はいかにも贅沢な布地のスーツを着ている。男はうす赤い顔をしている。そうして爪を立てた両手で、ゆっくりと、顔を掻きはじめる。額。こめかみ。眉。眉間。まぶた。

夜逃げの部屋

 何年かごとに、他人あての郵便物を受け取る。開封はしない。私のじゃないからだ。受け取り拒否の意思を示して郵便局なりダイレクトメールの発行元なりにかえす。
 ひとり暮らしでいつも賃貸で引っ越しをよくするから、引っ越してすぐは前の住民あてのなにかが届くことは珍しくないのだ。多くはダイレクトメールで、郵便局や個人の連絡先には引っ越しの届け出をしていても、ダイレクトメールの送信元にはあまりしないからだろう。私だってしていないところはあって、だから前の部屋には私あての郵便物がきっと届いている。
 それにしてもいまの家には多い。入居して契約時にメモした番号を見ながら数字錠をまわし、郵便受けの扉を開くなりどっと落ちてきた。多いなあと思って検分すると、携帯電話の会社から何通も来ていた。三つも四つも電話を持つというのはどういうことかと私は考えて、三秒で結論を出した。商売ものだ。名義貸しか、誰かに与えていたか。
 送り返してもすぐに現住民が把握されるのではない。請求書在住だとか、赤く記されたものが増えた。携帯電話の会社だけではなかった。私あての郵便物にまじってやってきたものをせっせとよりわける。送り主の会社名を検索する。「小河原さん」という、前の住民への宛先を見ながら。
 携帯電話。クレジットカード。ローン。債権請求代行。社名が徐々に変わっていき、何度かの社名検索ののちに、私は気づいた。「小河原さん」は借りられるだけ借りたまま、ゆくえをくらましたのだ。
 この部屋の契約前、相場よりやや安く、審査もやけに早かったので(なにも審査していないのではないかと思った)、事故物件ではないですよねと不動産屋の担当者に確認した。事故物件ではありませんと、担当者は断定した。私の住処を二度紹介してくれた、なじみの人だ。事故物件ならちゃんと告知しなければいけないんです。でも事故物件の要件を満たさなくても、ちょっとした背景のある物件はあります。幽霊とかではありません。実害があればおすすめしませんよ。
 幽霊なら見てみたいからいいですよと答えて判を捺して入居した。幽霊は出なかった。ただの(?)夜逃げだった。「小河原さん」はいまごろ無事でいるだろうかと私は思った。
 私は引っ越しをするとき、入居前に詳しく部屋を調べて写真を撮ることにしている。たいていはクリーニング後だけれど、今の部屋はクリーニングどころかちょっとしたリフォームをした直後のように見えた。新築でもないのに、誰かがいた気配が不自然なまでにないのだ。よくよく調べると床を二センチ、それから扉の端を三センチ程度、同色のパテで埋めて直した跡があった。壁紙は完全な新品だった。壁紙は数年で替えるからタイミングの問題だけれども、築十年弱でそんなにあちこち直すものだろうか。台所のコンロのふちにわずかな凹みがあるのを見つけるにいたって、なんとなく察した。この部屋にはなんらかの暴力的な過去があるのだ。たとえば衝動にまかせて住民が暴れたというような。
 そんなわけで私はなんとなく小河原さんを心配していた。生涯会うことはないけれど、暴力とおそらく返す気のない多くの借金に囲まれてこの部屋にいた人。わりとろくでもないことをしていたような気がするけれども、ろくでもないことをしたって、できれば反省して元気で生きていてほしい。
引っ越して半年が経ち、久しぶりに小河原さんへの郵便物を受け取った。はがきの表面を先に見て、おかしいと思ってひっくり返したら、私あてではなかったのだった。
 お元気ですか。携帯も何も通じないので手紙を出します。田舎に帰ると言っていたのでこの手紙はそっちに送ってもらえると思います。連絡してごめんね。わたしは元気です。
 元気です、のあとに空白があった。あとはなにもなかった。裏を返すと私の住所と、小河原さんの名前があった。それからちいさく、このはがきを書いたのであろう人の名前があった。差出人の住所はなかった。だから郵便局も私もこれを書いた人に「住所がちがいますよ」と言えないし、「小河原さんが元気かどうか、あなたには知ることはできないんです」と教えられないし、はがきを返すこともできない。その人はたぶん、返されたくないのだろう。だから名前だけを書いたのだろう。小河原さん、と私は思う。この人、あなたのこと、好きみたいだよ、まったく、罪な男だねえ、もう借金とかしないで、田舎で元気に暮らしてください。