傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夜逃げの部屋

 何年かごとに、他人あての郵便物を受け取る。開封はしない。私のじゃないからだ。受け取り拒否の意思を示して郵便局なりダイレクトメールの発行元なりにかえす。
 ひとり暮らしでいつも賃貸で引っ越しをよくするから、引っ越してすぐは前の住民あてのなにかが届くことは珍しくないのだ。多くはダイレクトメールで、郵便局や個人の連絡先には引っ越しの届け出をしていても、ダイレクトメールの送信元にはあまりしないからだろう。私だってしていないところはあって、だから前の部屋には私あての郵便物がきっと届いている。
 それにしてもいまの家には多い。入居して契約時にメモした番号を見ながら数字錠をまわし、郵便受けの扉を開くなりどっと落ちてきた。多いなあと思って検分すると、携帯電話の会社から何通も来ていた。三つも四つも電話を持つというのはどういうことかと私は考えて、三秒で結論を出した。商売ものだ。名義貸しか、誰かに与えていたか。
 送り返してもすぐに現住民が把握されるのではない。請求書在住だとか、赤く記されたものが増えた。携帯電話の会社だけではなかった。私あての郵便物にまじってやってきたものをせっせとよりわける。送り主の会社名を検索する。「小河原さん」という、前の住民への宛先を見ながら。
 携帯電話。クレジットカード。ローン。債権請求代行。社名が徐々に変わっていき、何度かの社名検索ののちに、私は気づいた。「小河原さん」は借りられるだけ借りたまま、ゆくえをくらましたのだ。
 この部屋の契約前、相場よりやや安く、審査もやけに早かったので(なにも審査していないのではないかと思った)、事故物件ではないですよねと不動産屋の担当者に確認した。事故物件ではありませんと、担当者は断定した。私の住処を二度紹介してくれた、なじみの人だ。事故物件ならちゃんと告知しなければいけないんです。でも事故物件の要件を満たさなくても、ちょっとした背景のある物件はあります。幽霊とかではありません。実害があればおすすめしませんよ。
 幽霊なら見てみたいからいいですよと答えて判を捺して入居した。幽霊は出なかった。ただの(?)夜逃げだった。「小河原さん」はいまごろ無事でいるだろうかと私は思った。
 私は引っ越しをするとき、入居前に詳しく部屋を調べて写真を撮ることにしている。たいていはクリーニング後だけれど、今の部屋はクリーニングどころかちょっとしたリフォームをした直後のように見えた。新築でもないのに、誰かがいた気配が不自然なまでにないのだ。よくよく調べると床を二センチ、それから扉の端を三センチ程度、同色のパテで埋めて直した跡があった。壁紙は完全な新品だった。壁紙は数年で替えるからタイミングの問題だけれども、築十年弱でそんなにあちこち直すものだろうか。台所のコンロのふちにわずかな凹みがあるのを見つけるにいたって、なんとなく察した。この部屋にはなんらかの暴力的な過去があるのだ。たとえば衝動にまかせて住民が暴れたというような。
 そんなわけで私はなんとなく小河原さんを心配していた。生涯会うことはないけれど、暴力とおそらく返す気のない多くの借金に囲まれてこの部屋にいた人。わりとろくでもないことをしていたような気がするけれども、ろくでもないことをしたって、できれば反省して元気で生きていてほしい。
引っ越して半年が経ち、久しぶりに小河原さんへの郵便物を受け取った。はがきの表面を先に見て、おかしいと思ってひっくり返したら、私あてではなかったのだった。
 お元気ですか。携帯も何も通じないので手紙を出します。田舎に帰ると言っていたのでこの手紙はそっちに送ってもらえると思います。連絡してごめんね。わたしは元気です。
 元気です、のあとに空白があった。あとはなにもなかった。裏を返すと私の住所と、小河原さんの名前があった。それからちいさく、このはがきを書いたのであろう人の名前があった。差出人の住所はなかった。だから郵便局も私もこれを書いた人に「住所がちがいますよ」と言えないし、「小河原さんが元気かどうか、あなたには知ることはできないんです」と教えられないし、はがきを返すこともできない。その人はたぶん、返されたくないのだろう。だから名前だけを書いたのだろう。小河原さん、と私は思う。この人、あなたのこと、好きみたいだよ、まったく、罪な男だねえ、もう借金とかしないで、田舎で元気に暮らしてください。