傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

今じゃなければ、さよならだ

 子どもが泣いている。大人たちは笑っている。子どもは三歳半である。身も世もない、それはそれは悲しそうな泣きぶりである。

 女友だちが寄り集まって小さい子たちを連れてピクニックに出かけた帰り、電車に乗って順次解散しているところである。いちばん小さな三歳半の子は、そのほかの誰と別れるときにもバイバイと言って平気で手を振っていたのに、ひとりだけとても好きな女の子がいて、ぜったいにバイバイしたくないと泣いているのだった。

 いくら泣いても大人たちは笑っててきとうにごまかして彼の手を引いて歩く。バイバイと言わなければ別れは来ないと彼は思っていたのかもしれないけれど、もちろんそんなことはない。いなくなる。さっと手を振って泣いている彼を放ってあっというまにいなくなる。

 彼はまだ泣いている。彼は彼女とどうしても別れたくなかったのだ。子どもに未来の感覚は薄い。今でなければないのと同じである。だからどれほど「またね」「来月また来るからね」と言われても、ぜんぜんなぐさめにならない。今じゃないものは永遠の別れなのである。時間の概念ができあがっていないのだから。

 彼があまりに泣くので、私たちは道ばたで少し休憩する。彼の母が言う。子の目の高さまでかがんで言う。お別れしないってことは、追いかけるつもりなの? でも帰った人を追いかけたら、相手はどう思う? 困るよね。いくら好きでもあんまり困らせたらもう会えなくなるんだよ。今どうしても一緒にいてそれから一生会えなくなるのがいい? 今おうちに帰って来月また会えるのがいい?

 この母は私の古い友人であって、相手がわかろうがわかるまいが正しいことを諄々と言い聞かせる人である。三歳半にはまだむつかしいと承知の上で言うのだろう。子どもはまだ泣いている。私たちはペットボトルの蓋をあけてお茶をのむ。子どもにも飲ませる。

 また会えるのがいい。

 子どもが小さい声で言う。私たちは驚く。なんとまあ、この子の中には、もう時間軸があるのだ。来月というのはまだあんまりわかっていないかもしれないけれど、少なくとも今でないものを想定して取引をしたのだ。「また会えるなら、今別れることを受け入れる」という、世界との取引を。

 そうかそうかと子の母が言う。私たちは駅に向かって歩く。私は思う。きみはとてもえらいね。でもさっきまでのきみのほうが、実は正しかったんだよ。私たちには未来なんか本当はない。それはいつも後から思い出すものだ。「来月」がほんとうに来るかなんて、実は誰も知らないんだ。それは私たちの想像にすぎないんだ。もっと細かいことを言うなら、来月が来たときに私たちの全員が元気で、休日が取れて、それで一緒に出かける気になるなんて、ほとんど奇跡みたいなものだ。誰かの気が変わったら一生会わない。私の気が変わるかもしれない。そういうものなんだよ、ほんとうは。

 そう思う。でももちろん言わない。未来への信仰なしに、安定した社会生活はない。だから子どもが未来の概念を獲得するのは必要なことだ。私だってふだんはその信仰を持っているふりをしている。来月とか、次の水曜日とか、明日の朝とか、そういうものを。

 でも私には心底からそれを信じる能力がなかった。「明日が来るとか、嘘じゃないかな」と思わない夜はなかった。さっきまで泣いていた三歳半の子と同じくらいには未来というものを知らないまま生きてきた。私は、もう四十を過ぎたのに。たぶん私は一生こうなのだ。今でない時間の存在を、どうあっても飲み込むことができない。飲み込んだふりをしてスケジュール帳を使って、でもそんなものを実は信じていない。目を閉じてもう一度ひらいたら世界が崩落していてもまったくおかしくないのだと、どこかで思っている。

 そんなだから、私の世界にたしかにあるのは今このときだけである。食べたいような新緑の色、日陰に残る花の色、アスファルトを白く霞ませる強い光、斜め前を歩く母子、子の小さな靴、私たちを追い越していく自転車、日焼け止めを塗り忘れた首筋の熱。私が目を閉じて、また開けば、この世界は、どこかへ行ってしまう、何ひとつ残さずになくなってしまう、だから、今だけだ、今じゃなければ、さよならだ。

 さようならと私は言う。バイバイと親子が言う。曲がり角で振り返る。親子はまだそこにいて、もう一度手を振った。世界はまだある、と私は思った。今のところは。