傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

結婚の損得

 お母さん、どうしてお父さんと結婚したの。上の子が訊くので、わたしはつくづくと彼女の顔を見た。どちらかというと現実的で早熟な子だと思っていたけれども、まだ十五ではあるのだから、結婚の動機は取り繕ってあげたほうがいいのかな、と思った。つまり、愛していたからだ、とか、そういうふうに。

 でもやめた。彼女はわたしの子である。今年で十五である。クリスマスに白いおひげのサンタクロースがうちに来たのではないと認めてから十年ちかく経っている。嘘をつくことを、わたしはあまりしない。めんどくさいからだ。嘘をついたらその嘘について覚えていて、整合性のとれた発言を心がけなければならない。そんなのめんどくさい。たしか芥川に「彼女は特別に嘘が上手かった。なにしろ今までついた嘘をひとつ残らず覚えているのである」という一節があって、なんというマメな女かと感心した覚えがある。

 そんなわけでわたしは率直に、あなたを妊娠したからだと告げた。子どもができて結婚していないといろいろめんどうな目に遭う傾向にある、それって正しいことじゃないんだけど、それはともかくとして、親、つまり、あなたのおじいちゃんとおばあちゃんもうるさいことだし、結婚したくない理由もあんまりなかったから、した。お父さんは結婚についてとくに意見を持っていなかったし、子ども、いいじゃーん、いえーい、ってかんじだったし。

 そんなのさあ、産まないっていう手もあるじゃん。娘はあっけなくそう指摘した。結婚もそうとう面倒だったでしょ、よくやったよね。まあね、とわたしはこたえた。もちろん別の選択肢もあった。でも結婚して産んだ。なんで、と彼女は質問を重ね、わたしは迷いなくこたえた。なんとなく。

 子を産むのに理由なんかいらない。要る人もいるんだろうけど、わたしには必要なかった。当時二十四歳で、妊婦としては比較的若い部類だったけれども、若いから考えなしだったのではない。今でも考えていない。意図的に子をもうけたわけでもない。ちょっと避妊がめんどくさくなっただけだ。ほほう、と思って、産んだ。痛かった。びっくりした。わたしは公務員で、職をうしなうことはなかったけれども、ずいぶん嫌味も言われたし、キャリアには大きな傷がついた。そんなのを傷にするのはまちがっているけれども、まちがっているからといって修正してもらえるものでもない。

 そんなわけで、いろいろとものすごく痛かった。二度とするか、と思った。でも三年したらすっかり忘れて、また妊娠した。考えないでいると同じことが起きる。それで下の子を産んだ。やっぱり、痛かった。

 なんとなくかあ。娘が言う。なんとなくだよ、とわたしはこたえる。お母さんの人生、九割なんとなくだからねえ。そしてお母さんは理由のないことをよしとしているよ。なぜなら、たいていの理由は本人のために作るもので、本人に必要ないなら、なくったってかまわないからだよ。子どもを産むなんていうのはね、すごく個人的なことなんだから、産まなきゃいけないとか、産んだから良いとか悪いとか、誰かに言われる筋合いはないんだよ。育てかただって、虐待じゃなければいいんだよ。それでできるだけ幸せになれれば、いいんだよ。なんとなく産んでなんとなく一緒に暮らして、わたしは幸せだよ。だからなんとなくしたことはみんなよかったんだって思うよ。手作り料理を欠かさず家を隅々まで磨き上げるみたいな、誰かの理想の母親でなくても。

 そう、と娘は言う。そう、とわたしは言う。わたし将来、結婚しないと思う。娘が言う。そうかい、とわたしはこたえる。そういえば、来年になればもう結婚できる年齢だものねえ。ありえない、と娘は言う。そうかい、とわたしはこたえる。だって、ぜったい、損する。娘がぼそりとこぼし、わたしはてきとうな相槌をうつ。

 お母さん、損したって思ったことないの。娘の声がちょっと大きくなったので、わたしは娘を見る。娘はわたしに背を向けて冷蔵庫を覗いている。夜食を取りに来たついでに訊かれるほどわたしの結婚は軽い。いい子に育ったなあと思う。誰だ、こんないい子をつくったのは。わたしか。わたし、すごいな。あ、夫もか。

 得した。わたしは言う。なんにも考えてなかったわりに、えらい得した。けれどもそれは、わたしがたまたまもらった幸運にすぎない。「結婚」の利得じゃないし、「出産」の利得でもない。だから心配いらないよ。お母さんとちがうことしてもいいし、しなくてもいいんだよ。お母さんの幸せはお母さんのもの、あなたの幸せは、あなたのものだよ。

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