傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

休養の条件

 夏の休暇の予定表が回ってきた。私の職場には盆休みというものがほんのひとつまみしかなく、各自が有給を取る。お盆に合わせたい者とそうでない者がほどよく分散すると管理職は安堵の息をつき、休暇希望日程が集中していて支障が出そうな場合にはメンバーに調整を依頼する。休みを取ろうとしない人には有給の残りをチェックして勧告する。私には信じがたいことだけれども、少数ながら毎年、休もうとしない人がいるのだ。

 休まないなんて、何を考えているのでしょうか。休暇希望一覧に確定部分を書き込んだ状態で上長に提出し、ついでにぼやく。休暇は取るべきです。うちの会社だと、冬の休暇は固定だから、夏だけが自由に取れる休暇じゃないですか。休みを秋に延ばす人もいるけど、要するに年に一度のお楽しみじゃないですか。旅行や帰省をしたり、だらだらしたりすればいいじゃないですか。どう考えても休暇シーズンには働いているより休んでいたほうが良い。でも休みたがらない人がいるのです。休暇は労働者の権利じゃなくて義務にしてほしいくらいです。休まない人に、私が叱られるから休んでくださいって頼んでいいですか。

 上長は私の提出した書類をながめ、いいよお、と言う。うん、僕に叱られるからって言っていいよお。でも槙野さんもちょっと配慮が足りないかもね。

 配慮の内容には人間の能力が出ます、と私は応える。配慮が足りないとしたら私の能力が足りないのです。努力をしたいので、効率よく努力するためにどのあたりの能力が足りないか教えていただけませんか。いいよお、と上長は言う。槙野さんさあ、楽しかったはずのことが楽しくなくなったこと、ない?

 あります、と私は言う。何もかも楽しくないのは疲れているときです。そういうときは休暇を取ってずっと寝てます。どこへも行きません。買い出しにも行かないでネットスーパーを使います。ひどいときは本も読みたくなくて、天井を見てぼんやりして伸びたり縮んだりしているうちに一日が終わります。なんなら数日終わります。

 うん、と上長は言う。それはねえ槙野さんが疲れた状態はイヤだと思っていて、疲れを取りたいから、することなんだよね。疲れたから休む。健全だ。でも休んだらまた疲れに行かなきゃならない。疲れて休んで疲れて休んで疲れて、死ぬまでそれを繰りかえす。槙野さんはそれでOKだけど、OKだと思えない人もいっぱいいるんだ。それなら疲れないようにしようって、自覚しているかどうかはわからないけど、そっちに舵を切る人もいるんだ。

 私はめんくらって、でも、疲れない方法なんて、ありません、と抗弁する。抗弁はひとことで退けられる。死んじゃえばいいじゃん。死んだらなんにもしなくていいじゃん、何ができるできないって考える必要もないじゃん、考える主体がなくなるんだから。でも死ぬの怖いし苦しいから後回しにするとしよう、まあね、なかなか死ぬのはね、決め手がないとね、うん、そしたら次どうするかっていうと、麻痺する。

 麻痺、と私は言う。麻痺、と上長は言う。いちばんわかりやすいのは酒、アルコールは脳を麻痺させる、そのほかにも自分を麻痺させるために使える薬物がある、そういうものを、テンションあげて楽しむためにじゃなく、リラックスのトリガーとしてでもなく、自分を麻痺させるために使う。でもね、もっといいものがあるんだ、依存対象は薬物だけじゃないんだ。

 あのね、休むっていうのは、自分と対話することなわけ。いっぱい休むと自分の状態がクリアになる、感覚が正常に働くようになる。家族と過ごしたり旅行したりするのもそう、自分の近しい人との会話は自分の仕事以外の環境について考えさせるし、旅行は言うまでもなく僕らがものを考える重要な場になる。そして仕事に没頭して仕事のことだけ考えていればそれらから逃げることができる。

 私はぞっとする。それから確認する。自分について考えたり感じたりするのがいやだから、休まないんですか。僕の想像だよう、と上長は歌うようにこたえる。仕事はいいねえ、仕事してれば叱られないもんねえ、仕事してればだいたいOKだもんねえ、いろんなものから免除されるもんねえ、休日返上なんて忠実な感じもするしねえ、「仕事と自分とどっちが大事か」なんて質問は愚問だってたくさんの人が言ってくれるしねえ、自分に大きな傷がついていたって、大きな空洞があいていたって、ほんとうは生きていたくなかったって、感覚や感情から逃げていたって、仕事さえしていれば、ちゃんとした人に見えるんだものねえ。