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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしたちの不合理な取っ手

 エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみたいな形にしときゃいいじゃん、つまむしかないんだから。耳たぶ。そう、耳たぶ。ねえ、わたしたちふたりで耳たぶつまんでてばかみたいですよ。たしかに。わたしは少しイタリア人を擁護しようと思うんだけど、このカップの構造は、急いで飲むことをアフォードしているのではないですか。
 こうすると、重心が傾くから、こう?そう、取っ手をつまむでしょ、カップが取っ手の反対型に傾くでしょ、だから、さっと飲む。うん、飲んだ、事実として。ねえ、飲むでしょう、それを意図した形状なんじゃないの、深煎りの濃いコーヒーが酸化したら軽い地獄だし、少量で冷めやすいし。そうかなあ、あなたの説を採用するなら、エスプレッソカップはぐい飲みでいいことになる。ぐい飲み。そう、いらねえよ取っ手。どこまで取っ手が憎いんだよ。
 いや、憎んではいない、イタリア人は、ただ気づいていないだけなんだ、コーヒーのんで三百年とかだから、まだ気づいてないんだ、このカップに含まれる不合理さに。あと百年くらいで気づくわけか。そう、あと百年もすれば彼らは気づき、すべてのエスプレッソカップはぐい飲みになる、それを待とう。死ぬよ。死ぬね、あなたも死ぬ、不合理なエスプレッソカップを使い続けたままで死ぬ、でもいいんです、歴史とはそういうものなんだ、こんなものはなくなると思いながら見る視点が提供されたらそれでいいんです。
 コーヒーの歴史って三百年どころじゃないでしょ、もっと長いんじゃないの、昔アラブのえらいお坊さんが飲ませたんでしょ、恋を忘れたあわれな男に。その歌はまちがってて、坊さんが修行の眠気覚ましにしてたんだ、つまり、恋とか忘れる。年、とると、コーヒーなんかなくても、忘れるけど。そうだよ、忘れたらなんであわれなんだよ、そんなもん好きに忘れさせろ。
 思い出した?さあ、どうでしょう。もう一杯もらう?そうだね、あ、すみません、同じものください、彼女にも。ああ、アルコールというダウナー系ドラッグにカフェインというアッパー系を重ねるなんて、不良だ。そんなことはない、きわめてまじめです、あなた酔っぱらうと眠っちゃうみたいだから、コーヒーでも飲ませないと。わたしは、寝ちゃえばいいと思います。あのね、そういう年齢じゃないでしょう、おたがいに。年齢なんか関係ありません。じゃあ、性格、相手にちゃんと意識がないと困る、そういう性格だから、起きていてください。性格か、それじゃあしょうがないな、意識の清明を保ちましょう、あんまり自信ないけど。
 取っ手を貸してください、もう一度。はい、どうぞ、うふふ、人類にはいい取っ手がついていますね。全体に比して小さすぎるけどね。そうかな、じゅうぶんじゃないかな。この取っ手でかまわないのは、相手が協力的なときにかぎる。人類は協力的な相手の取っ手しかつかむべきではないよ。そうだけど、はじめはわからないから。確認すればいいじゃないですか、人類はそのために言語を獲得したのでしょう、意図せず生じる物理的な暴力を排除するために。政治や経済においてはね、でも個人には難しいこともある。そんなことありません、難しくなんかない、誰にでもできることです、言えばいいんです、何でも口に出して、確認すればいい、わたしは、します、もうお食事も終えたことですし、片手、空いてますよね、手をつないでも、いいですか。あなたには恥じらいというものがないのか。ありますよ、失礼な、いやではないのですね。どちらでもかまいません。えっ。手をつなぐことについては、ニュートラルです、あ、もちろん、相手による。
 わたしは、どちらでもよくないです、手をつないでいて、うれしいです。そうですか、何がそんなに可笑しいんですか。だって、手をつないでいいですかという質問に対して、ニュートラルって、ねえ。そうかな、手よりも、そのほかのほうが、いいと思うから、ああもう、何がそんなに可笑しいんですか。ねえ、コーヒー、冷めますよ。まったく、あなたのせいで、いろいろと困る。わたしのせいじゃ、ありません、わたしは、ちゃんと確認してるんだから、そこから先の問題は、あなたのせいです。じゃあ、アラブの坊さんが悪い。その歌の話は嘘じゃなかったの。嘘ですよ、もちろん。